宿命 第二部(東京篇)
年は2010年頃であった。祐介は東京、東急大井町線の下神明駅近くのアパートに住んでいた。アパートといっても賃料が月七万円位した。それでも、その当時は祐介も精神的病は抱えておらず、自由が丘駅近くにある、音楽リハーサル・スタジオにアルバイト勤務で雇用されており、月に二十万位は頂いていし、加えて、ある時点からこの部屋で、名前は早紀といったが、女性と同棲を開始し、早紀はスーパー銭湯に勤務していて、正社員になれるかどうか、真剣に上司に相談していたから、彼女の収入もあって、あまり家賃を負担に考えるという事は無かった。
早紀は児童保護施設の入所していた関係で、今、考えると、保証人が必要であるアパートを借りる事が難しかったと思われる。そうして、専門学校卒業後、父を保証人としてアパートを借りた祐介の、そのアパートに転がり込む事は、早紀の側に立ってみれば、そうせざるを得なかった、というか、必然であった。
引っ越した当日、アパートに訪問者があった。それは新聞屋であったが、ビール六缶セットを下げている。
「引っ越しのお祝いに、こちらを持参しました、わたくし横田新聞社のものですが宜しくお願いします」
と言った。
祐介は世間に疎いものだから
「これは、これはご丁寧にありがとうございます」
と言って、ビールを受けとった。しかしその男は一向に帰る気配も、また、何か話すという事もなく、玄関の所に突っ立ったままであった。祐介はやっと、ビールを提供する代わりに、新聞の契約をとりたいんだな、という事に気付いて
「ビールは返す」
と、冷たい口調でそのビールを返した。すると、その男は
「一度は受けとったじゃないですか」
と反発した。
「だから、あなたはこのビールと引き換えに新聞の契約がとりたいんでしょう?そうあなたは説明しましたか。してないよねぇ、それじゃあ話の筋が通らないじゃないか、横田新聞社と言ったよねぇ、今から君の上司にあたる人に、あなたがこういう強引な押し売りみたいな事をして成績を上げようとしていると報告するがいいか」
と言った途端、男は
「すみませんでした」
と一言それから、もごもご何か言いながら去っていった。
そのとき部屋にいて、一部始終を見ていた早紀は、そもそも、それは新聞屋の強引な取引であると承知していたようだが
「祐介って変。でも面白い」
と言った。
早紀には包丁を握って料理する、という習慣は無かったし、祐介も封建的に、料理は女性がするもの、と考えていたから、二人、慌てて自炊というものに取り組んだが、骨が折れた。
しかし近くの商店街で総菜の取り扱いがあり、また、焼き鳥屋やラーメン屋もあったものだから、二人は早々、米を炊く、くらいの事はしたが調理はあまり行わなかった。総菜を買ってきたり、外食で済ませたりした。
祐介が世話になっていた武という先輩がいた。彼は度々祐介のアパートによると、今の東京の音楽トレンドについて詳しく教えてくれた。
祐介が真剣にシチュー作りに奮闘していると、武が来訪して
「なんだ、料理してるのか、味見させてくれよ」
と言って、作りかけのシチューの味見をした。
「こんな旨いシチューは食べたことがない。しかし何か足らない」
と言って、代われ、と言うから、途中からそのシチューは武が作る事になった。
出来上がると武、早紀、祐介の三人でそのシチューを食べたが
「この家にはコンソメってもんがないのよ、コンソメくらい買っておけよ」
と、真剣なのか冗談なのか分からないテンションで言った。祐介は苦笑していたが、早紀はああ、愉しい、といった顔をして言葉を聞いていた。
祐介、早紀、武の三人は、近くの公園に花火をしに向かった。昼間から花火をするのも乙なものだ、と武が言っていた。
武は趣味人であったが、そのときカメラに凝っていた。トイカメラといったか、どういう構造か分からぬが、ピントをカチッと定めて撮る事は目的にしてないカメラだった。すると、撮られた世界がまるでグラデーションを醸し出しているように撮れた。
早紀が花火に火を点けると、その花火をグルグルと回した。
武がその姿をパシャリと撮った。
早紀は仕事があるので先に帰ると、二人、花火を片づけてアパートから下神明駅へ向かい、渋谷に向かった。武が気にかけているバンドがいて、そのライヴを一緒に観に行く事になったのだ。
ライヴハウスでそのバンドの演奏を楽しんだ。アコースティック編成で、巧みであった。しかし「僕は王様」と訴える歌詞に祐介は違和を感じた。
ライヴ後になって、武と二人駅に向かう途中、祐介は率直に
「僕は王様、というのはちょっと大げさなんじゃないですか」
と武に訴えてみた。武は少し考えた後
「そりゃあ俺は三代続いたから、江戸っ子なわけ。そうやって東京で細々でも、家業を継いでないと、あの曲は分からないよ。まあ俺の親父の仕事って言っても謎だけど」
と言った。
武が江戸っ子ならば、祐介は全くの田舎者であった。その立場の違いによって、受けとめられる表現とできない表現があると、ピシャリと別れてしまう事が知れた。納得した祐介は
「ああ、そういう事なんすね」
と言いながら、駅に向かい、坂道を下っていった。
目覚めると祐介は、仕事は午後からであるが、早めに自由が丘に向かおうと考えた。何よりファストフードであったが、ブランチを摂りたい。勿論、このとき、ファストフードの精製油が神経に対して影響を与えるなど知る由も無かったし、知っていても、まだ若いから大丈夫だろうと判断しただろう。余り気にせずそうする事にした。
その前に一度スタジオに向かう事にした。
そこにはカウンターに高山店長がいて、ノートパソコンで作業していた。
「おはようございます」
「何だ、はやいじゃないか、眠ったのか、飯は食べたのか」
「いや、これからご飯なんですけど、その前に一応寄ってみようと思って」
高山店長は、レジから、一枚のポイントカードを取り出すと、加えて一個の切れた電球を祐介に渡した。
「これ、道をまっすぐ行ったら電気屋があるから買ってきてくれないか?」
雑用仕事というか、いつもうろちょろしている事を仕事にしていた祐介だったから
「はい、わかりやした」
と言って、そのポイントカードと電球を受けとった。去り際高山店長は
「レシート、しっかり貰ってくるんだぞ。清算できないからな」
と言った。
言われた道をまっすぐ歩いてみたのだが、具体的な距離を聞き忘れて、その電気店に到達できるか不安になってきた。煙草屋があり、灰皿が置いてあった。そこでアメリカン・スピリットを喫った。今、自由が丘で路上喫煙が許されるかは分からない。しかし、祐介は確かにこの時、煙草屋の前に灰皿があったのでそこで煙草を喫ったのである。
更に歩いてゆくとラーメン屋があった。盛況であって、彼はここで昼食を摂る事にした。
そうして、長居をしてしまい、結局、電球を購入してスタジオに戻ってみると、始業時間ギリギリだった。
彼が危ない、と思ってタイムカードを切ろうとすると、高山店長がそうしてくれたのか、タイムカードには既に始業時刻が打刻されていた。
深夜の勤務を終えて、電車に揺られ、アパートのある下神明で下りればいいものを、彼はナチュラル・ハイになっており、大井町駅まで出て、そこから渋谷に向かった。タワーレコードに行こうと思ったのだった。するとタワーレコードのあちらこちらで、パフュームの楽曲がプッシュされており、この加工された声のアイドル・グループの曲を、肯定するか、否定するか、まるで祐介には絵踏みのように感じられた。
加えて最近、早紀が眠るに何か適したCDが欲しい、といっていた事を思いかえして、エリック・サティのCDを捜した。
パフュームの「ポリリズム」とエリック・サティの二枚のCDを購入した。
そうして昼ごろ帰宅したのであるが、扉を開けて部屋を見ると、全ての家具がひっくりかえっていた。祐介は慌てて事件性がある事なのか判断がつかず、家具を直し、頻繁に早紀に連絡したが、出ない。
午後になって、勤務先のスーパー銭湯から早紀が帰ると、祐介はその無事に安心したが、家具を全部ひっくりかえしたのは、早紀だという。
「ごめんなさい、でも帰ってこないから、腹が立って」
と言った。
祐介は風呂に入りながら、早紀との関係は恋人といえば恋人であったが、それは友だちや兄妹に近い、又、プラトニック・ラブであった。しかし、それは祐介がそういう風に一方的に決め込んでいたことで、早紀はこの恋を重く捉えていたのだが、彼女の背景もあってか、なかなか自分の思っている事を素直伝えられなかったので、齟齬を起こしていたのだと反省した。
祐介と早紀はある駅に併設されていたショッピングモールに買い物に出た。そこで早紀は、ハムスターを飼いたい、と言った。動物を飼う負担を甘く見積もっていた祐介は
「いいんじゃないの」
と、それを許した。早紀は嬉しがった。
しかし、その晩からすぐ悩まされるようになった。ハムスターが夜更けになると、回転する機器の上で走りつづけるのであるが、その音がうるさいったらないのである。昼間は全く運動しないで、夜、さて眠ろうかという時になって、運動をはじめるから、祐介は溜まらず、早紀に訴えたが、早紀はその音が全く平気でグウグウ眠ってしまうのであった。
ここに祐介が悩まされる精神的病の、音というものに敏感になる、という兆候が表れてきたのであった。
高山店長に
「お前、今日眠ってきたのか?」
と問われ、答えに窮する祐介であった。
その日はスタジオから帰るなり、晩酌をした。お酒で眠ろうとしたのである。早紀がお酒を注いだり氷をカップに入れたりしてくれた。それでも並んでいる夕食はコンビニで買ったものであった。
そして眠ろうとすると、あのハムスターが車輪を回す、カラカラカラ・・・、という音が聞こえてくる。
酔っていた祐介は、この時、自身が悪人になるとも考えず、行動を起こした。ハムスターの籠を、ベランダの外に移動させたのである。季節は冬であった。ハムスターが死んでしまうとの判断もできぬままにその行為を犯してしまった。
目覚めると、頭の中が猛烈に痛かった。彼は元々お酒に弱く、昨晩の飲酒量は多過ぎた。
ハムスターの籠といえば、昨晩外へ出した筈だが、早紀が気づいていたのか、元の場所に戻されていた。ハムスターは生きていた。
彼は時計を見てハッとした。出勤時刻の午前九時に間に合わないと思ったのである。
彼は携帯電話で連絡を入れた。そして不眠症の為、病院にかかる旨を伝えた。
彼はじっさい病院に向かい、精神科の医師の診察を受けたのであるが、彼は不眠症だから、睡眠薬の処方で済むだろうと思われた所、診断書を出され、そこには先、一か月の就労は困難を意味する文面があった。
スタジオは少数精鋭で、祐介はその足を引っぱっていたのだが、二日、休みをとる事も困難な職場に於いて、この診断書が効力を発揮するとして、休めるのか、そしてどんな顔で復職すればいいのか等々、想像できなかったのである。
携帯電話に高山店長から連絡があり、病院に行った結果はどうであったか、聞かれた。その話し方に、もう祐介の置かれている状況が、すこぶる悪い事が悟られていたようで、妙に優しいトーンであった。
そうして今からスタジオに来て、話し合いを持つ、という事になった。
彼は一応、追求されたときの為に、診断書をポケットに入れて、混乱する頭でありながらなんとかスタジオに向かった。
彼と会うなり、高山店長は
「やっぱり水しか受けつけないか」
と、彼の手にしているペットボトルの水を見て言った。
過去にもそういう事例があって、状況を重々、承知しているような口ぶりであった。
そうして、大人として、退職をするのであれば、その旨をしっかりと伝えればそれでいい、と言った。
そうして彼は実際、その通りの事をしたが、事が診断書の出るくらい深刻な事である事は黙り通してしまった。
高山店長は
「もうすぐ、俺の勤務時間は終わるから、いっしょに飯でも行こう」
と言った。
祐介はその時刻をじっと待ち、高山店長と共に外に出て、あるラーメン屋に向かった。
そこで初めて、高山店長から醤油ラーメンとビールを奢って貰ったのであった。
「すみません」
と、彼が言うと
「いいから、いいから。ほら、飲めよ」
と言って、彼のコップにビールを注いだのである。




