宿命 第一部
何の変哲もない郊外であった。
元々、この宅は、田畑だった所を開発して建てられたものだったから、周囲を見渡せばポツポツ田畑があった。この宅の主人、葉山祐介は、心から自然を欲しており、地図上で見れば北上し、ぶつかる寺と、その修験道の修行に使用されている山道と一部、兼ねているハイキングコースを、週末になれば歩きに出ると決めていた。
雨が降って、そのちょっとしたハイキングが叶わなくなった時だけでなく、日頃から彼は自然をよく読みこんだ詩歌、山頭火全句集を読みこんだ。最近では臨時収入があったから、若山牧水全歌集を書店で購入し、読みふけった。
とはいえ彼は植物や花に関して、椿と山茶花の違いも分からなかった。
この自宅に越してきて五年になる。妻の香奈は最近、この主人が、自然というものに傾倒し過ぎているのではないかと思う事があった。香奈にとって問題だったのは、それ故に収入は祐介の単発のアルバイト代と、祐介と香奈、二人の負っている障害の年金でまかなっていたのであるが、全く自然や、読書といった事に深く入り込む事によって、彼は以前と比べて、あまり働きに出なくなってしまったからである。
ある春の日、祐介、彼が目覚めると、明確に右膝に違和を感じた。彼はベッドの上で何度も右膝を曲げたり伸ばしたりを繰り返した。祐介はまだ三十八であったが若い頃の無理が祟ったのか、体力について不安を抱きはじめていた。それにしても香奈、彼女は彼より五歳年上の姉さん女房であったが、基礎体力といえば彼女の方があって、むしろ、持て余しているような印象を祐介は感じていた。
「膝が悪いから、風呂に入るよ」
「あらやだ、軟膏をつけるか?」
浴槽から白い湯気が立っている。
祐介はゆったりと風呂に入りながら、今日のアルバイトの事について思案を続けていた。
しかし、彼の経験上、仕事というものは余暇時間にその事を考えれば考えるだけ、行きたくなくなる事が分っていたので、考える事を辞めた。すると、浴室の戸を叩く音がした。
「開けていい?」
香奈であった。このやりとりは二人の仲では慣れたもので、主人が風呂につかりながら、妻の相談を聞く、という事である。
「あのね、今、あたらしい小説を構想しているんだけど」
香奈は小説を書いていた。
「そうして、まず、主人公の家庭が凄く、封建的な家庭であって、こりごりだから、主人公は滅茶苦茶勉強して、遠くの大学に行くの。そうして、そこはキリスト教系の大学なんだけれど、主人公はうまく讃美歌を合唱する事ができないの。住んでいる寮のシスターの反対を押し切って、一人暮らしをする事を選ぶ、って筋ね」
「うん、言いたい事はわかる。家庭、それから宗教の世界観みたいなものに、主人公は全く馴染めないままに、個人、である事を選ぶわけだね」
「そう。それでアルバイトをするんだけど、アルバイトも大変なの」
「だから、家庭、大学、実社会にも居場所を見つける事ができないんだね。唯一大学は救いの場になりそうなものだけれど、そこに馴染めないわけでしょう?そうすると、なかなか大変だろうね。筋としてはよく分かる」
「そう?」
祐介は、出るよ、と言って、すると香奈は浴室の戸を閉じた。彼は髪を洗いあげると浴室内を出て、あたらしい服に着替え、鏡の前でチェックした。歯が黒ずんでいる。長年の喫煙習慣によるものだった。現在、彼は内服の禁煙薬を服している。しかし、それは気分を荒らすような副作用があって、煙草をやめた彼にとって、残りの薬を内服する期間というものはストレスであった。
この自宅は、風呂、キッチン、リビングは二階にある。一階は書斎とそれぞれの寝室である。
二人は書斎にいる事が多く、二人共、小説を書いていた。香奈は書くスピードが早く、一週間で百頁書いていた。対して祐介は、なんでも早く書いてはつまらないし、体裁が悪い、とか、何とか言って、物凄く遅く小説を書いた。且つ原稿に何度も手を入れて直すものだから、一向に小説が仕上がった事がない。それは明確に香奈が職業作家を意識して早く書くのに対して、祐介は全くの趣味が抜けず小説を書いている、という違いだった。
それでも祐介は志高く、誕生日になった時百頁の小説を仕上げようとしたのだが、やはりその原稿も二十頁足らずで没にしてしまった。
その時には愚痴をよく言う割に、温厚な香奈も怒った。その怒りの言葉を聞きながら、彼はせっせと原稿用紙に向かって空欄を文字で埋めていって、どこ吹く風といった感であった。彼は何か、信仰、自己に対して信仰していた風であった。それが香奈には分からない。しかし、早々に自分が小説を書くのはまだ早い、と決めつけてしまって、文章修行だと言って、ずっと何かを書いてはいた。それらの原稿を合わせると、かなりの厚さであったのだが、彼は潔く捨ててしまった。
青空に雲がゆったり流れ、小鳥の囀りが響く。祐介は長い灰色のズボンを穿き、自宅の庭に出て、畑作業に没頭していた。軍手をして雑草を抜いていた。父が着ていた。この畑は祐介の父が耕したものだった。
「よく動くなぁ、祐介、動くのが大事だ」
父はクワを手に、もう一度、畑を起こそうとしてた。父は祐介に
「無理するなよ」
と言ったが、彼は、自身の執着を抜くように雑草を抜いていたから、手が止まらない。しかし、右脚の膝が痛んできた。
「なんか、膝が痛いかも」
「もう、いいだろう、それだけ抜けば。よし、クワ入れるぞ、どいていろ」
そう、父は言い、畑を起こしはじめた。正直、祐介は自身で仕事を消化不良だとも思ったが、後は、畑仕事に慣れている父に任せるしかない。しかし父も七十になる。七十になると体力的につらくなると言っていた。しかし、齢を重ねた分、畑の事、植える野菜について熟知していたし、見る限りその作業も手慣れたものだった。祐介は自分が七十まで生きられるのか、想像がつかなかった。そうして、畑の隣で父が畑仕事をしているのを、あぐらをかいて見つめていたのであるが、尊敬と共に何か、疎外感に似た気持ちを抱いた。
「よし、これでいい」
そこに香奈が来て、父と祐介にお茶のペットボトルを渡した。
「ああ、あとな、祐介、話、聞いているか知らないが、お前と香奈さんな、父さんの扶養に入れておいたから。だから、働きすぎちゃうとまた駄目なもんでな、また詳しく話聞かせてくれよ」
祐介と香奈は顔を見合わせた。父は白い軽トラックに一人で荷物を運びこむと、軽く手をふって、帰っていった。
そして、祐介はさっきの父の言葉の事を考えて、溜め息をついた。しかし、香奈は祐介の父の扶養に入った事をありがたい事だと感じたようだった。二人、コンビニに向かい、牛皿のパックを二人前買った。白米ご飯は自宅の冷蔵庫に冷やして残しておいた分があった。
二人帰ってきて、すぐ夕食にした。祐介は疲れていて、香奈は穏やかだった。
数週間が経った。祐介は心荒れていた。しかしそれを表立って、愚痴や不満の表現として出す事はしなかった。
うわのそらの時間が増えた。
膝が痛むといっては風呂にずっと入っていた。膝が痛まなくても、養生の為といって風呂に入って、異常な位、風呂に入っていた。
そして香奈を置いて、次の日の仕事の準備もせずに眠ってしまう事が多くなった。そして本の世界に逃避した。
炬燵に座り、ぼうっとしつつも、パラパラと本をめくり、気になった部分に当たるとそこばかりくりかえし読んでいた。
夏目漱石の「門」「こころ」をよく読んでいた。それぞれに何か感じ入るものがあったようだった。香奈に
「門、はともかく勝手、問題が解決されてゆくのがいい」
と評した。
「こころ」では
「とにかく先生、というキャラクターに惹かれる」
と言った。
そうして、以前よく褒めていた太宰治の話が俎上にのぼる事が無くなった。
ただ一言
「人間失格って、初めの方に、キリスト教への言及があるんだよな」
と、ボソッと言った。そしてある日、近くの教会が急に閉所してしまい、全くのお菓子屋さんに変ってしまうと、祐介はそれを大事件のように香奈に報告した。
夜、コンビニで、お酒に弱いのにウイスキーの小瓶を買ってきて、氷入りのカップに入れて飲んでいる事もあった。
香奈が最近、とにかく家事に、特に食事を作る事に参っている、と相談すれば、彼はコンビニATMに向かい、自分の少ない預金から幾らか引き落として、彼女に、ポン、と渡したのであった。
正直、祐介のここ最近言動は香奈にとって謎であった。と思えば彼は、こっそり香奈の小説の原稿に目を通し、彼女の理解に努めようとしていたのである。
彼は段々と世捨て人のようになった。単発のアルバイトの事もとんと夫婦間の話題にのぼらなくなった。
じっさいの所、彼は怒っていたのである。しかし、その怒りの取り扱い方が分からない。彼は自己愛によって、自分がもっと優遇されるべきではないか、とか、あまりにむごい境遇に置かれている、とか、客観視もしたが、ぐいっと、心を思考に変換させる事で、ハッと怒りに気づいた。彼はにぶかったのである。しかし、それを表現として表に露出させる事はなく、それは全く、奇異な行動として現れていた。
対して、香奈はそもそも、自分の心、感情というものを大切にしており、不満があればすぐ、それを口にした。
「このままシミが増えるようなら整形する」
と叫ぶ事もあった。その怒りが空腹によってもたらされたものであると判断したら、すぐ謝った。
祐介、彼は平日の昼間でも、バッグに若山牧水の歌集文庫版を入れて、自宅から北上し、山々を分け入って、ある程度の所で、二時間でも、三時間でもただただ、ぼうと、木々を、眺める事が多くなった。こちらは向かった事がない、という方に足を向けてみると、小さな川が流れていた。それに沿って歩いた。以前、香奈が彼に対し
「こんなさびしい人に会った事がない」
と言っていた事を思いかえした。
山は祐介の持っているスマホの電波のエリア外で、山に入ると全く鳴らない。しかし、ある一点まで戻ってくると、エリア内に入ったのか、一挙に情報を着信した。
〈早く帰ってきて〉
香奈からのメッセージ、他、大量のメッセージを確認すると、彼は急いで山道を下った。
彼が山から帰ると、香奈は電話で話しこんでおり、自分の悩みなり、不満なり訴えていた。しかし、声は明るそうであって彼は安心した。
彼は疲労で靴も脱げないで、玄関に座り込んだ。
そうして、先ほどまで見ていた山の光景を思いかえして、この人工の、自宅、というものと対比して思考した。そうして、彼と香奈の間で、小鳥を飼おうか、という話が出ていて、彼は保留にしていたが、鳥というのは自由に飛んでゆけるのに、籠に押しこんでしまう事はないと考えて、その話が出たら「鳥は飼わない」と意見しようと決めた。元々、彼は動物を飼う事に反対であった。
やっと、靴を脱いで、寝室のベッドに寝ころんでも、香奈の電話の声は聞こえた。そうして、彼は、自身が全く、電話での相談先を持っていない事に気づき愕然とした。
「おう、祐介、山はどうだった?」
祐介は香奈に応えた。
「今日はそれほど深くに行ってない。第一、膝が痛むからね、若いときのようにいかない」
「わたしだって悪いことしていると思っているのよ、だから悪かった」
電話をしてスッキリしたのか、香奈は機嫌が良くて、そんな言葉も出た。しかし、祐介は彼女がなぜ謝るのか分からない。
「香奈は悪い事していないだろ」
「そう?まあ、いいから、いいから」
香奈は口が達者だった。それに対して祐介は黙っている事が多かった。しかし、先の言葉を聞いたとき、何か許された、優遇された、と感じたのである。
祐介は甘える事にした。
「今日の昼食、醤油ラーメンにしてくれない」
「うーん、いいよ」
昼食時になって、祐介が執筆作業を一段落すると、香奈が
「今、ラーメン茹でてる」
と告げてきた。
彼は炬燵に腰を下ろすと、ぼうと、窓から見える雲を眺めていた。ちぎれ雲であった。
醤油ラーメンが運ばれてきた。
「いただきます」
と、彼は啜ったが、スープは残した。そのスープに、多量の油が浮いている事に目が行った。
その油をじっと見つめていると、彼は十八年位前の、まだ東京で暮らしていた頃の記憶、を思いかえした。そうして、今、こうして身を置いている立場の原因として、彼は、その東京からの逃避という事も考えなければならなかったし、その思い出というものに、今ならば、触れてもいいかも知れないと思ったのである。




