犬のように従順な私をお望みのようですが、あなたへの愛は終わりました。
愛しています。
心の底から。
愛しています。
身も心も。
愛しています。
あなたがいればそれでいい。
愛しています。
私の世界は、あなただけ。
そう、思っていたのに……。
「――私もうエドヴァルド様に興味ないんです」
私の愛には、限りがあったようです。
伯爵令嬢キアラ・メルデールには、それはそれは見目麗しい婚約者がいた。
侯爵令息、エドヴァルド・シュトーン。
まるで物語に登場する王子様のようなその美しい見目に、キアラは齢六歳にして運命の相手、そして永遠の愛を知ったのだ。
「わたし、エドヴァルドさまとけっこんする!」
エドヴァルドと出会った日、キアラは両親に向かってそう叫んでいた。
そしてその願望は、双方の両親合意のもと叶うこととなった。
キアラとエドヴァルドは婚約者となったのだ。
その時の喜びといったら……。
キアラは毎日のように小躍りをしていたほどだ。
エドヴァルドと結婚できる。
その喜びだけで、キアラは毎日を生きていた。
――それから十年の年月が経った。
キアラとエドヴァルドはともに十六歳。
結婚適齢期となったわけだが、二人はまだ結婚していない。
もちろんしたくないわけではない。
紳士淑女を育成する学園に所属しているため、結婚はその卒業を待ってからとなっている。
なので今日もキアラは、愛しい婚約者とみんなが羨むような甘ーい学園生活を楽しんでいた。
「エドヴァルド様! こちら本日のご昼食です」
「…………」
「エドヴァルド様のお好きなローストビーフのサンドイッチをたくさん入れておきました」
「…………」
「お飲み物は果汁百パーセントのオレンジジュースです」
婚約者のエドヴァルドは本を読んだまま、こちらを見ようともしない。
しかしそれが通常運転のため、キアラはいつもどおりに話しかける。
エドヴァルドのクラスで、いや、学園中で彼女は有名人だった。
「でたでた。エドヴァルド様の犬」
「違うわ。婚約者よ。……一応ね?」
入学してからこのかた、エドヴァルドがキアラに笑顔を向けたことはない。
ここ三ヶ月ほどは視線すら向けてくれたことがない。
それでも一切気にしたようすなく、エドヴァルドに尽くす姿に人々はキアラのことを【エドヴァルドの犬】と呼ぶようになった。
「エドヴァルド様、オレンジジュースお好きですもんね? あ、それとは別に紅茶もご用意いたしました。こちらも揃ってお持ち――」
持って行くようにとキアラが言う前に、エドヴァルドは机の上に置いてあったカゴを持って教室を後にする。
「――あ、エドヴァルド様! お待ちください!」
慌てて彼の後ろをついて行くが、足の長さが違いすぎる。
キアラは彼の後ろをついて行くだけで、息が上がってしまった。
向かった先は裏庭。
彼がいつも【友人】たちと食事をとる場所である。
「エドヴァルド様。今日こそ私もご一緒に――」
「ワンちゃんめげないねぇ」
「入学してから一度だって一緒に食べたことないじゃん」
そう言うのはエドヴァルドの友人たちだ。
彼らはキアラを見た後くすくすと笑い、やってきたエドヴァルドの肩を組む。
そしてキアラに向かってまるで野良犬を追い払うかのように手を振った。
「しっしっ! エドヴァルドは君なんてお呼びじゃないよ」
「ばいばーい」
「…………」
その間エドヴァルドは一度だってこちらを見ることはない。
仕方がない。
これが日常なのだから。
キアラは静かに目を閉じると、スカートの裾を軽く持ち上げ頭を下げた。
「では、エドヴァルド様。素敵な昼食をお楽しみください」
もちろん返事なんてこない。
キアラは一人静かに踵を返し、その場を後にする。
もちろんわかっていた。
今日もエドヴァルドと一緒に食事がとれないことなんて。
でも諦めきれないのだ。
「あの美しい御尊顔を拝見しつつ食事をとりたいの!」
「あんたの執念恐ろしすぎるわ」
教室に戻ってきたキアラの叫びに反応してくれたのは、幼なじみのシノだった。
彼女は豪快にサンドイッチに食らいつくと、瞳をきらめかせた。
「うまっ! キアラあんた、やっぱりいい奥さんになるよ」
「もちろんよ。エドヴァルド様の最高の妻となるべく、幼少期から訓練したんだもの」
あの麗しのエドヴァルドの妻になる。
キアラの幼少期はその一言に尽きた。
妻としてなにが誇れるのか徹底的に調べ上げ、結婚に至るまでの約十二年。
それだけに全力をかけているのだから。
「エドヴァルド様の隣に立っても恥ずかしくないよう、美容だって気をつけているわ。日に当たることも極力避け、ウエストも可能なかぎり絞り続けてるわ!」
「偉すぎて言葉にならないわ」
パクパクとサンドイッチを頬張るシノの前で、キアラはいつものようにサラダを食べる。
これがいつもの日常だった。
ただ少し違ったのは、シノの方だ。
「――あんたさぁ。どっちかというと冷めやすいほうじゃない。いや、飽きやすいというべきか」
「そうかしら?」
「そうだよ。私がプレゼントした人形、三日で飽きてたじゃない」
「べ、ベッドには飾ってあるわよ?」
飽きはしたけれどちゃんと飾っているので勘弁してほしい。
とはいえ少しきまづいと顔を伏せると、シノはふんっと鼻を鳴らした。
「それなのにあの冷酷男のことは飽きないのね」
「……飽きる? エドヴァルド様に? ………………まさか!」
シノの発言を受けて、ほんの少しだけ考えてみた。
エドヴァルドに飽きるキアラ。
しかし残念ながらそんな姿は微塵も想像付かなかった。
「ないない。ありえないわ。私の愛は無限なの。エドヴァルド様限定だけれど」
「……ムカつかないの? あんな無視ばっかりされて」
自分がされたことのように怒りを露わにするシノに、キアラは軽く首を振った。
「ムカつかないわ。いつか絶対、エドヴァルド様は私を見てくれるもの」
「いつかっていつよ? もういい加減嫌にならないの?」
「ならないってば。あんなふうなのは今だけよ。だって昔は優しかったんだから」
キアラは両手を合わせて握りしめると、うっとりと昔を思い出す。
まだ婚約したばかりの時。
エドヴァルドは花で冠を作ると、キアラの頭に乗せてくれたのだ。
「あげる。――僕のお嫁さん。って! なんて可愛いの!」
一人で顔を真っ赤にさせながら興奮していると、その様子にシノは冷めた目を向ける。
「はいはい。ヨカッタワネー」
「子どもの頃のエドヴァルド様本当に可愛らしいのよ!? 天使よ天使」
「うんうん。ソウダネー」
ものすごく片言なのは気のせいだろうか?
これはエドヴァルドのよさがまだ伝わってないのでは?
とキアラが改めて力説しようとした時、予鈴が学園内に響き渡った。
「ほらほら! キアラも早くご飯食べちゃいなさい!」
「――え、あ、うん……」
残念。
時間切れである。
もっとちゃんと話したかったのに、それはまた今度になってしまった。
必ず後日心ゆくまで語ろうと決めていると、シノがサンドイッチを慌てて飲み込む。
「そういえば今日は婚約記念日でしょう? また劇でも見に行くの?」
「――そう! そうなのよ。今日という日だけは、エドヴァルド様と一緒にいられるの……!」
いつでも無視されるキアラだったが、たった一日、婚約記念日だけは違うのだ。
この日だけは二人っきりで劇を見て食事をする。
エドヴァルドの美しい姿をこれでもかと堪能できるのだ。
「最高の日よねぇ」
うっとりとするキアラに、シノは呆れていた。
「あんな仏頂面と一緒にいて楽しいかしら……? とにかく、それならさっさと食べちゃいなさい。授業に遅刻して放課後、先生に怒られるなんてことにならないようにね」
「――そ、そうね!」
そうなってはきっと、エドヴァルドは先に帰ってしまう。
キアラは慌ててサラダを食べる。
今日は失敗は許されない。
大好きなエドヴァルドと一緒にいれるのだから。
(とっても楽しみ)
エドヴァルドに楽しんでもらうためのプラン作りも完璧だ。
夜も彼の好きなものをシェフに頼んで作ってもらう手筈は済んでいる。
絶対に楽しませてみせる!
と、意気込んでいたのに……。
「――え? 今……なんと……?」
「だから、今日は無理だと言ったんだ」
そして迎えた放課後。
鼻歌を歌いながらエドヴァルドの元へ向かったキアラは、衝撃的な発言を耳にすることとなった。
「今日は友人と劇に行くことになった」
「……私と一緒に行ってくださるのでは?」
「……君とは毎年行っている。今年くらいはいいだろう? 君も友人と行ったらどうだ?」
違う。
そうじゃないのだ。
確かに毎年行ってはいるけれど、キアラには一年に一度しかない。
毎日のようにエドヴァルドと遊ぶ友人たちとは違う。
「……どうしても、ですか? 今日は私たちの……記念日です」
普段ならこんなわがままは言わない。
けれどどうしても、今日だけは一緒にいてほしいのだ。
(なのに、どうしてそんなに迷惑そうな顔をするの……?)
エドヴァルドは深いため息をつくと、キアラをまっすぐ見つめてくる。
そうだ。
ずっとそうやってエドヴァルドの瞳にキアラを映して欲しかった。
けれどそれは叶わなくて。
いつだって彼の隣で語らいあえる友人たちに嫉妬していた。
けれどこの日は、この日だけはキアラだけを見てくれる。
だからどれだけ冷たくされても、変な噂を立てられても平気だったのに。
(やめて……)
これ以上否定しないで。
このままではきっと、ダメになる。
キアラの愛が、ダメになってしまう。
だから――!
「エドヴァルド様、どうかっ! 今日だけは――」
「しつこい。だいたい婚約記念日ってなんだ? そんなもの必要ないだろう。――めんどくさい」
(ああ……)
その瞬間、キアラの熱は一気に下がった。
高熱で茹っていた頭が、急にクリアになった気分だ。
ふわふわとした感覚は霧のように消え去り、やけに冷静な己がここにいる。
熱しやすく冷めやすいとは、どうやら本当だったらしい。
「私はもう行く。君もさっさと帰るといい」
犬を追い払うかのように手を振るエドヴァルドに、キアラはふう、と息をつく。
そうか。
結局こうなってしまったのか。
なんだかあっけなかったなと、キアラは優雅にスカートを掴み、軽く頭を下げた。
「かしこまりました。それではエドヴァルド様。――さようなら」
くるりと踵を返して、さっさとその場をあとにする。
そういえばこんなふうに、エドヴァルドをその場に一人残して去るなんて今までしたことがなかった。
彼の背中が見えなくなるまで見送るのが、キアラの責務だと思っていたから。
だからだろうか?
あっさり引き、かつ去っていくキアラの後ろ姿に驚いたのだろう。
エドヴァルドの情けない声が聞こえた。
「――え……?」
そしてキアラの日常は、激変することとなった。
「はぁ……いい天気」
キアラの毎日は、早朝に起きることから始まっていた。
朝早くに起きて、エドヴァルドのための昼食を作る。
彼の好みにあわせつつ、栄養満点の食事を考え形にしていく。
だが今日からはもう、それはしない。
学園には無料で使える食堂もあるので、キアラから昼食を渡されなくてもエドヴァルドは困らないはずだ。
なので起きてすることは一つ。
朝日を浴びながらの散歩である。
「早寝早起きが体に染み付いちゃっているのよね」
なので二度寝はせず、庭園を散歩することにした。
陶器のように白い肌を保つために、キアラは日の下を歩く時は絶対に日傘を離さなかった。
それもこれも全てエドヴァルドのためとやってきたが、もう必要ないだろう。
これからは好きなように散歩をするだけだ。
「あ、お父様に婚約破棄の話をしなくちゃ」
エドヴァルドもきっと望んでいるだろう。
もしかしたらもう別に、好きな人でもいるのかもしれない。
彼の周りにいる友人の中には女性もいる。
その中の誰かが新しい婚約者になるのかもしれない。
まあ父は許してくれるかわからないが、双方に気持ちがなければ最後には認めるしかないだろう。
そうと決まればさっそく父の元へ行こうと、キアラは散歩を切り上げ父の書斎へと向かった。
「おはようございます、お父様。さっそくですが、エドヴァルド様との婚約を解消していただきたいのです」
朝から仕事を頑張っている父に、軽食を持っていった。
それをテーブルに置きつつそう伝えれば、父は持っていたペンを落とす。
「……………………………………なんて?」
「ですから、エドヴァルド様との婚約を解消したいのです。できるだけ早めに」
「………………………………え?」
あれ?
聞こえてなかっただろうか?
反応がイマイチだったのでもう一度言おうと口を開きかけたが、その前に父が大きな音とともに立あがった。
「なにがあった!? ま、まさかエドヴァルド君がお前になにかしたのか……!?」
「いえ。むしろなにもしてくださらなかったといいますか……」
「…………どういう意味だ?」
これは説明したほうが早いだろうと、キアラはここ最近のエドヴァルドとのやりとりを父に伝えた。
自身が犬と呼ばれていること、それをエドヴァルドは否定しないこと。
会話はなく、視界にすら入れてくれない。
そして昨日の婚約記念日のこと。
全てを聞いた父親は、大きなため息とともに椅子に座り直した。
「まさかそんなことになっていたとは……。キアラが毎日楽しそうにしていたので、てっきり良好な仲だったと思っていた」
実際楽しかったのだから、父の見立てはおかしくはない。
キアラにとっては、ただエドヴァルドと共にいれるだけで良かったのだ。
それだけで毎日しあわせだったから、そこに間違いはない。
ただ昨日の件で、そのしあわせが泡沫のように消え去ったのだ。
「そんなわけで婚約破棄したいのですが」
「もちろんだ! そういうことならさっそく先方に話をつけよう。今すぐ手紙を送るから安心しなさい」
「ありがとうございます、お父様!」
これなら速やかに婚約破棄できるはずだ。
ああ、これで肩の荷が降りると安堵の息をついたキアラは、時計を見て急ぎ踵を返した。
「それではお父様。支度をして学園に行ってきます。そこでエドヴァルド様には婚約破棄の件をお話しいたしますね?」
「もちろんだ! 学園中の生徒が見ている中で叩きつけてやりなさい!」
「はい……?」
なぜか鼻息が荒い父に首を傾げつつも、キアラはさっさと支度をして屋敷を出る。
いつものように完璧な化粧、完璧なヘアセットをしなくてもいい。
朝もビタミンや食物繊維、タンパク質などいちいち気にして食べる必要もないというのは、とても気楽だった。
「朝からバターたっぷりパンを食べられるのはしあわせだわ……!」
あまりの美味しさを思い出し両頬を押さえていると、あっという間に学園についた。
キアラは馬車を降りると、学園の入り口でエドヴァルドを待つ。
その間にも周りはキアラを見てくすくすと笑う。
「見て、ワンちゃんがご主人様を待ってるわ」
「あんな物欲しそうに待っていても、ご褒美なんてもらえないのにねぇ……?」
あれこれ言われているが、それも今日で終わりだ。
キアラがなにも言わずただ待っていると、やがて友人たちと共にエドヴァルドがやってくる。
友人たちは入り口で待つキアラを見つけると、ニヤリと笑う。
「おい、ほら。またエドヴァルドの犬が待ってるぞ」
「たまには頭でも撫でてやったらどうだ? あんな健気にマテをして……。かわいそうだろう?」
そう言う友人たちの表情は、かわいそうなんて思っていないのが一発でわかる。
小馬鹿にしているのがわかったが、キアラは気にした様子もなくエドヴァルドに話しかけた。
「エドヴァルド様。お話がございます。どこか人気のないところへ……」
「人気のないところに連れてって、エドヴァルドになにするつもりだ?」
「怖い怖い。エドヴァルド、わんちゃんに襲われちゃうかもなー?」
「噛まれるかもしれないぞ?」
相変わらずうるさい人たちだ。
ふう、と小さく息を吐きつつエドヴァルドを見るが、やはり彼はその瞳にキアラを映すことはない。
むしろなにも言わずその場をあとにしようとするので、彼の行く道を邪魔するように立った。
「エドヴァルド様。話を聞いてください」
「………………はぁ。ならここで言え。君にかまっている時間はない」
やっと話したと思えばそれだけかと、やはりキアラの心は冷たくなっていく。
とはいえ傷ついていないことを考えても、やはり熱は冷め切ったらしい。
「……わかりました」
エドヴァルドの名誉に関わるからと、人気のないところにしようと思ったのだが。
そんな気遣いは無用らしい。
キアラはエドヴァルドをまっすぐ見ると、周りにも聞こえるほどはっきり伝えた。
「エドヴァルド様。私たち婚約を解消しましょう」
「――………………」
キアラからの言葉が聞こえたであろう生徒たちは、皆動きを止めた気がした。
騒がしい朝の学園。
しかしその一瞬だけは静まり返った。
「もう父から侯爵家に向けてお手紙が届けられていると思います。今日ご自宅に帰られましたら、ご両親とご確認ください」
以上です、と軽く頭を下げたキアラの肩を、エドヴァルドが強く掴んだ。
「――どういうつもりだ?」
「……なにがですか?」
「なぜ急にそんなことを――、ああ、そうか。そういうことか」
なにやら一人納得したようすのエドヴァルドは、呆れたようにため息をついた。
「私の気を引こうとそんなわけのわからないことを言ったのか。全く君は本当に……」
なにやらわけのわからないことを言っている。
だというのに、そんなエドヴァルドに友人たちは納得したように頷く。
「ああ、なるほど。ワンちゃん考えたね。必死だねぇ」
「なのにその姑息な作戦バレちゃったんだ。情けないね!」
くすくすと笑ってくる友人たちに、キアラは片方の眉を上げる。
本当に意味がわからないと、キアラは肩を掴んだままのエドヴァルドの手を振り払った。
「よくわからないのですが……」
まさか振り払われると思っていなかったのだろう。
エドヴァルドが驚いた顔をしてキアラを見てくる。
そこできっぱりはっきり、伝えることにした。
「――私、もうエドヴァルド様に興味ないんです」
「……………………………………え?」
「エドヴァルド様も私に興味ないですよね? なら婚約は破棄しましょう。そのほうがお互いのためです」
キアラはスカートの裾を掴むと、軽く頭を下げた。
「ではエドヴァルド様。どうぞ素敵な学園生活をお送りください。さようなら」
くるりと踵を返したキアラは、その場で腕を上げて伸びをした。
背中が伸びたのを確認してから、ふう、と息を吐き出す。
「さあ、私は自由よ! 毎日を楽しまなくちゃ……!」
なにをしようとルンルン気分で歩くキアラは、もちろん振り返ることはしない。
だから気づかなかったのだ。
エドヴァルドが呆然と立ち尽くしていたことに……。
「シノ、ご飯食べましょう」
「もちろん」
エドヴァルドのためではないお弁当を作ったのは初めてだ。
シノと自分のためにと作ってきたお弁当箱の中には、分厚いお肉と野菜を挟んだサンドイッチや、ジャムを塗ったサンドイッチ。
ピクルスやフルーツなど、シノと自分の好物をこれでもかと詰めてきた。
エドヴァルドはジャムが嫌いでピクルスも好まなかったため使ったことがなかったが、これからは積極的に待ってくることにする。
「はーぁ。本当にあの男を捨てたのね。お弁当の中身ではっきりわかったわ」
「捨てたって。双方合意のもとなんだからどっちが捨てたとかじゃないと思うわ」
キアラからの申し出たとは言え、エドヴァルドも望んでいたことのはずだ。
なのでどちらが捨てたとか、そんな話ではない。
キアラが作ったサンドイッチを美味しそうに食べながら、シノはにししっと笑った。
「いやいや。私見てたけど、あいつ相当堪えてたと思うわよ? だってしばらく立ちすくんでたもの」
「エドヴァルド様が? ……驚かれたのかしら?」
まあそうかと納得した。
あのキアラが突然婚約破棄なんて言ったら、驚かれてもおかしくはない。
だから動けなかったんだろうと思ったが、シノの考えは違うようだ。
「いーや。絶対それだけじゃないよ」
大好きなピクルスをお菓子のように食べるシノは、にやける顔を隠すことができないようだ。
「失って気づく大切さ、ってやつ? まあこれからの展開をお楽しみにってやつね」
「……本当に楽しそうね?」
「もっちろん! あースッキリ。キアラのことバカにして、ずーっと腹立ってたんだもの!」
なんだかよくわからないけれど、シノが心配してくれていたことだけはわかっている。
なのでこうして彼女の好きなものいっぱいのお弁当を作ってきたのだ。
ほんの少しの恩返しを込めて。
そんなわけでもっと食べてもらおうと、新たなお弁当箱を開けようとした時だ。
クラスの女生徒がおずおずと声をかけてきた。
「あの……。実はずっとメルデールさんが作るお弁当美味しそうだなって思ってて……。でも今まではなんというか……近寄りがたくて……」
まあそうだろうと、キアラは客観的に己の行動を思い出す。
エドヴァルドに執着しているキアラは、知らない人からしてみれば近寄りたくないのもわかる。
「でも今朝の聞いて……。お話もしてみたいなと思って。あの、もしよろしければ……お弁当の中身交換しません?」
「え? ええ、もちろん……」
全然構わないとお弁当箱を差し出せば、なぜか周りの生徒たちもこぞってやってくる。
「あの! 私も……よろしいですか? ぜひ一度食べてみたかったんです!」
「お、俺も! ずっとうまそうだなって……!」
「こちらと交換してください!」
すごい人だかりができてしまった。
そしてあっという間にキアラが作ったお弁当は消え、代わりに机山盛りの交換品が目の前に置かれていく。
お弁当のおかずから、飲み物。
さらには購買で買えるようなパンやお菓子。
どれもこれも体型が崩れるからと口にしたことのないものばかりで、キアラはよろこびに微笑んだ。
「ありがとうございます! とってもうれしいです」
「――こ、こちらこそ……」
最後にパンを置いてくれた男子生徒に笑顔でお礼を言えば、彼はなぜか頰を赤らめた。
「なんか……思ったよりかわいかったな?」
「うん。もっと怖い人かと思ってた。……かわいい」
いそいそともらったお菓子を頬張るキアラに、シノは笑う。
「ほんっと、よかったねぇ?」
「とっても美味しい! シノも食べて!」
「はいはい、ありがとう」
なんて楽しくお菓子を食べていた時だ。
「――キアラはいるか?」
「…………エドヴァルド様」
エドヴァルドがなにやら真っ赤な薔薇で作られた大きな花束を持ってきた。
薔薇と同じくらい赤い顔をしたエドヴァルドの元に向かう。
「どうなさったのですか? それは……?」
「――昨日のことは謝る。いや、今までのことも。君からの愛情が……恥ずかしくて……素直になれなかったんだ。申し訳ないことをした!」
「…………」
今、エドヴァルドは謝ったのか?
このキアラに?
犬のようだと周りにバカにされても、無視をしていた己の婚約者に?
驚くキアラの胸元に、彼はその薔薇の花束を押し付ける。
「今日、改めて劇を見に行こう。食事も。……これからは、君を一番大切にすると誓う! だから! ――これからも私の婚約者でいてくれ!」
彼の叫びにも近い言葉とともに、薔薇の花びらが数枚舞う。
突然のことに驚いつつも、キアラは黙ってエドヴァルドを見つめる。
まさかそんなことを言われるなんて思わなかった。
あのエドヴァルドがこんなことをするなんて。
驚きのあまり固まってしまっていたが、周りの人たちが期待の眼差しでこちらを見ている。
早く答えなくてはと、キアラは薔薇の花束を受けとった。
「キアラ――」
「お断りします。もう遅いので」
薔薇の花束を受けとったことを、了承と勘違いしたのだろう。
エドヴァルドが期待に満ちた顔を向けてきたので、キアラは真顔できっぱりと断った。
「…………え?」
「お花に罪はないので受けとっておきますね? ありがとうございます。それでは、さようなら」
「――まっ! 待ってくれキアラ!」
呼び止められたら振り返るしかない。
そんなキアラに、エドヴァルドは絶望の表情のまま言葉をかける。
「……本当に終わりなのか? 俺たちは……」
「はい。そうです」
ズバッと言われたエドヴァルドは絶望したかのように、その場に崩れ落ちた。
そんな彼に追い打ちをかけるかのように、キアラは告げる。
「私の愛はもう終わったのです。愛って与えて与えられて、成り立っていくものなのですね」
そっと胸に手を置いたキアラは、エドヴァルドに優しく微笑みかける。
「どうぞエドヴァルド様を愛し、エドヴァルド様も愛せる人を見つけてください」
「――私は君を愛している」
「え? もう遅いです」
無理無理と首を振ったキアラは、今度こそ踵を返す。
「さあ! 次こそ素敵な人を見つけてみせるわ!」
そう声高らかに宣言したキアラに、周りの生徒はなぜか拍手を送ってくる。
そんな人たちの間をペコペコと頭を下げながら去っていったキアラは知らない。
このあとキアラを諦めきれなかったエドヴァルドが、過去のキアラと全く同じことをしだすということを。
そしてそんな彼につけられたあだ名が【キアラの犬】になることを――。




