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1. 殻に閉じこもる男

初めまして。 数ある作品の中から目に留めていただき、ありがとうございます。

 遮光カーテンの隙間から、ほんの僅かな光が漏れ出している。部屋の中は、浮遊するほこりと電子機器の排熱、そして男一人分の生活臭が(よど)んでいた。  

 モニターから放たれる青白い光が、死んだ魚のような俺の目をじっと照らしている。


亜季あきにぃ起きてる? 朝ご飯、ここ置いとくから」


 扉の向こうから聞こえるのは、鈴の音のような凛とした声。  


 義理の妹であるひびきの声だ。  


 俺はキーボードの上に置いていた指をぴくりと反応させるが、返事をするために口を開くことはできなかった。ここ数日、まともに誰とも喋っておらず、喉の粘膜が張り付いて、うまく言葉を形にできないのだ。


「あぁ、……いつもごめんな」


 数秒後、ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。  


 扉の向こうで、短い沈黙が落ちる。


「別に。……ママに言われてやってるだけだから」


 響がそう囁いた後、コト、という硬質な音が廊下に響いた。プラスチックのトレーが床に置かれた音だろう。  


 彼女の履いているスリッパがパタパタと遠ざかり、階段を降りていく音を確認して初めて、俺は肺に溜まっていた熱い空気を吐き出した。

 椅子から重い腰を上げ、ゾンビのような足取りで扉へと近づく。音を立てないよう慎重に鍵を外し、わずかな隙間から廊下のトレーを部屋の中へと引きずり込んだ。  


「さてと……今日は何観ようかな。お、これ面白そう。……へぇ、あの監督か」


 食事をデスクの端に置きながら、俺はマウスを操作して動画配信サイト『ナトフリ』の画面をスクロールさせる。  


『鬼才・クローネン監督、待望の新作』というフレーズが目に留まった。  


 監督が良いと、作品に一定の信頼感が持てる。脚本が多少おかしくても、その監督の演出だけで観客を圧倒させてくれるからだ。


 ナトフリは、俺のような引きこもりの唯一の趣味だった。


 冷めかけた味噌汁をすすり、一口食べた卵焼きの甘さが舌に広がる。その温もりが、ふと、あの日の苦い記憶を呼び覚ました。

 

 俺がなぜ、希望も将来も捨ててこんな部屋に籠もるようになってしまったのか。  


 その原因は、二年前――世界が"崩壊ほうかいした日"に遡る。


          




 中学二年生の夏。

 窓の外ではせみが命を削りながら激しく鳴いている。教室内は冷房が効いており、実に過ごしやすい環境だ。


「なぁ、昨日公開された『ザ・エグレートス』観た? 冒頭の長回し(ワンカット)から、めちゃくちゃ迫力あってやばかったぞ」


 休み時間、前の席から巨体をひねって俺の話に応じる姿勢を見せたのは、親友の黒江信二くろえ しんじだ。  

 中二にして身長一八〇センチを超える巨漢。柔道部の主将を務めていそうなガタイをしていながら、その実、中身は繊細せんさいで優しい映画好き仲間の帰宅部である。


「まじか、俺まだ見てないから、あんまネタバレすんなよ。昨日は、今日の数学のテスト勉強してたわ。てかお前は勉強したのか?」


「いいんだよ。数学なんか勉強したって、意味ないし」


「確かに数学はおもんないと思うけど、流石に"期末試験"くらいは勉強しないとな」


 信二は呆れたように笑った。こいつは中一からの親友で、誰よりも俺の趣味を理解してくれていた。  

 中学生で「あのシーンのライティングがさ」なんてマニアックな話ができる奴は、こいつ以外に知らなかった。


 優しくて頼れる性格の信二に対し、俺はただの口先だけの映画オタク。  

 そんな不釣り合いなコンビのオタク会話が、授業再開のチャイムと共に終わりを告げる。


 休み時間が終わり、よくわからない文字が羅列られつされた数学のテスト用紙が配られた。  

 ――五十分後。


「そこまで。答案を後ろから集めてくれ」


 そんな冷酷れいこくな宣言とともに、俺はほぼ名前しか書いていない答案用紙を、前の席の信二に手渡す。


「お前……ほとんど埋めれてねえじゃん」


 信二が呆れ果てたように小声でツッコんできた。


「そんな目で見んなよ。悲しくなるだろ」


 俺は信二から顔を背け、あえて不敵に笑ってみせる。


「いいか。俺が将来有名になったら、その白紙も俺の記念館行きだ。今のうちに大事に持っとけよ」


「ただの赤点の答案だろ」


 ひどい。



 テストが全部回収された後、俺は当然のように担任の日真谷ひまたに先生に呼ばれた。


 職員室ではなく、放課後の教室。西日が差し込む窓際で、先生が腕を組んで仁王立ちしている。  

 タイトなスカートスーツに身を包み、鋭い眼光を放つ彼女は、生徒から「氷の女帝」と恐れられているが、俺はその整った顔立ちが悪役のハリウッド女優っぽくて嫌いではなかった。


「これ、どういうことだ? 綾田あやたぁ。次赤点取ったら、夏休みはないって言ったよなぁ?」


「ええまあ……美人の先生に詰められる補習なら、それもまた一興いっきょうかと思いまして」


「茶化すな。夏休みを捧げる覚悟はできたか?」


「それより、先生。『ザ・エグレートス』観ました?」


 俺が話題を逸らすと、先生の眉がピクリと動いた。


「あ? あぁ、観たぞ。あれはすごかったな。あんな壮大なハイ・ファンタジーを見たのは、『ロード・オブ・ザ・リング』以来かもしれん。特にガーゴイルのうろこの質感が――って、話を変えるな!」


「ですよね! 俺も面白すぎて、また週末に信二と見に行こうかと思ってるんですけど、先生も一緒にどうですか」


「先生をデートに誘う暇があるなら、勉強しろ、勉強」


 ピシャリと言われたが、その口元はわずかに緩んでいた。  

 この先生も大概、映画好き(こっち)側の人間なのだ。


「とにかくだ。話を戻すが、お前の補習が確定したことだけは伝えておくぞ」


「そんなぁ」


 俺は肩を落とし、同じく補習が決まったらしい信二と共に校門を出た。

(お前も補習なんかい!)


「はぁ、最悪だよ。夏休みは家でナトフリ三昧できると思ってたのに.....」


「それな。まぁ一緒に補習頑張ろうぜ」


いつもの通学路と他愛もない話をする。それは平和で、退屈で、ありふれた日常だった。  


 ――異変が起きたのは、その直後だ。


「ん? あれなんだろう」


 信二が指さした先。  


 信号の向こうにある大きな公園の中央から、内臓を揺さぶる重い地響きと共に、巨大な影がせり上がっていた。  

 最初は工事現場の巨大なクレーンか何かだと思った。だが、違う。


 アスファルトを突き破り、公園の木々をなぎ倒し、天をく勢いで生えてきたのは――石造りの無骨な尖塔だった。


「城……?」


 近くの誰かが掠れた声で呟いた。西洋ファンタジー映画でしか見ないような、禍々しくも荘厳な"城"が、日本の住宅街のど真ん中に現れたのだ。  


 周囲の空気が一変し、耳の奥で高音のキーンというような音が響く。現実感が欠落したその光景に、俺は恐怖を通り越して、思わず興奮した声を漏らしてしまった。


「あんなの、映画でしか見たことないけど、すごい迫力だな。VFXみたいだ」


「なんだこれ……。俺は夢でも見てるのか……?」


 信二が顔を青ざめさせて後ずさる。  


 その時、城らしき場所から、魔物のようなものが大量に溢れ出した。


 無数の羽音と地鳴りが響き渡る。

 

 空を覆い尽くすそれは、鳥ではない。巨大な翼を持つガーゴイルっぽいやつの群れ。城の門からはゴブリンみたいな小鬼が大量に現れる。


「おい、冗談だろ……」


 俺の視線が、ある一点に釘付けになる。  

 城が生えてきた場所。そのすぐ近くには、俺の家があったはずだ。


「あれ、俺の家じゃないか!?」


 城の土台が地面を隆起りゅうきさせ、俺の家を無残に半壊させていた。  

 血の気が一気に引き、指先が凍りつく。


ひびき!!」


 俺は走り出していた。  

 信二の「待て、亜季あき!」という制止を振り切り、パニックに陥って逃げ惑う群衆の中を逆走する。  


 息が切れ、足がもつれ、肺も焼け付くように熱い。


 半壊した自宅の前にたどり着くと、そこは既に地獄の一角と化していた。リビングだった場所が剥き出しになり、積み重なった瓦礫がれきの下で、小さな人影がうずくまっている。


「響!! いるなら返事してくれ!」


「亜季……にぃ……。助けて……」


 瓦礫の隙間から、泥にまみれた制服姿の響が見えた。瓦礫に足を挟まれて動けないらしい。  


 そして、そのすぐ側に、緑色の皮膚をした小鬼――ゴブリンが、汚らしいよだれを垂らして立っていた。


 手に錆びついた不気味なナイフを持ったそいつは、爬虫類のような目をしていた。その目にあるのは共感の余地など一切ない、純粋な殺意の塊だ。


「ひっ……!」


 響が、喉を震わせて悲鳴を上げる。  


 俺は近くの瓦礫を掴んで投げつけようとしたが、あまりの重さに指先が滑るだけでびくともしない。


「くそ、どうすりゃいいんだ、なにか武器は……!」


 ゴブリンがあざ笑うように、ナイフを高く振り上げる。スローモーションのように時間が引き延ばされる感覚。  

 

 死ぬ。響が死ぬ。俺の目の前で。


 嫌だ。こんな結末エンディングは絶対に認めない。こんなの、俺が描きたい人生ストーリーじゃない。  


 こんなクソ脚本シナリオ、俺が書き換えてやる!



『――シナリオの改変を申請します』


 脳内に、簡素な機械音声が響いた。直後、俺の視界に半透明のシステムウィンドウが浮かび上がる。


【警告:管理者権限により、世界線へのアクセスが可能になりました】

【スキル《編集エディット》を発動しますか? YES / NO】


「なんだこれ、《編集エディット》ってなんだよ! なんでもいい、とにかくあいつを倒させろ!」


 俺は空中に浮かぶ『YES』の文字を、全力で叩いた。


 瞬間、世界から音が消え、すべての動きが「静止」した。舞い上がる砂埃も、振り下ろされるナイフの刃先も、響のひとみから溢れ出した涙も。  


 すべてが一時停止ポーズされた映像のように、その場で固まっている。


 俺だけが自由に動ける、モノクロの世界。建物やゴブリンに触れることはできないみたいだ。

 

 視界の端には、動画編集ソフトのようなツールバーが表示されていた。


『対象を選択してください』


 俺は震える指先で、眼前のゴブリンを指差す。赤い枠が、ターゲットであるゴブリンを囲んだ。ツールバーに並ぶ『カット』と『デリート』のアイコンが光っている。


 俺は、直感的に理解した。これは、目の前の現実を素材データとして編集する力だ。


「消えろ……消えてなくなれ!」


 俺は『デリート』を選択した。  


 モニター越しに不要なファイルをゴミ箱へ放り込むような、そんな軽い動作。


 再生プレイ


 次の瞬間、ゴブリンの姿は「最初からそこにいなかった」かのように、この世界から消失した。断末魔も、飛び散るはずの血飛沫も。ただ、空間そのものが不自然に抉り取られたような、不気味な空白だけを残して。


「え……?」


 響が目を見開き、呆然と目の前のくうを見つめている。


「亜季にぃ……? 今の、なに?」


「わからん。とにかく、今は逃げるぞ!!」


 俺は再び《編集》の力を行使し、響の足を挟んでいた瓦礫の部分だけを『カット』して取り除いた。断面はまるで鏡のように滑らかで、なにか理外の力が働いてるのを感じた。


 響を背負い、俺たちは崩壊していく街を必死に駆けた。  





 それからの二週間は、まさに地獄のような時間だった。

 

 俺と響は命からがら中学校の体育館へ避難した。そこには、既に避難していた日真谷先生と信二の姿があった。  


 なんと、二人もスキルに目覚めていたのだ。信二は自らの皮膚を鋼鉄に変える《要塞フォートレス》。 日真谷先生は自在に炎を操る《紅蓮クリムゾン》を手に入れていた。他にも覚醒者が何人かいた。  

 

  後になってわかったことだが、あの城の出現と同時に、世界中で一部の人間が「覚醒者」としてスキルに目覚めていたのだ。


 それから彼らはまるで物語の英雄のように、襲い来る魔物を撃退し、怯える生徒や避難してきた人たちを守り続けていた。そして俺もまた、その防衛戦の要として駆り出されることになった。


 俺の《編集》は確かに強力だった。『カット』で崩壊した建物から人を助け、『デリート』で魔物を消滅させたりした。スキルを使うには、覚醒者だけがもつ魔力マナを消費しなければならないのだが、俺はこの魔力マナが他の覚醒者より圧倒的に多く、何度スキルを使用しても枯渇することはなかった。


「……はぁ、はぁ。魔力マナが、もう、底を突く……」  


 信二が膝をつき、肩で息をしながら顔を歪めている。隣では池谷先生も、魔力枯渇による激しい倦怠感からか、額に汗を浮かべて壁に寄りかかっていた。  


 だが、俺はと言えば、十数回も連続でスキルを放った後だというのに、驚くほど体が軽い。体内の魔力は、溢れる泉のように未だ満ち満ちていた。  


(なんだ、大したことないな)  


 俺はこの力が無敵だと思い込むのに、そう時間はかからなかった。指先一つで対象を書き換え、無限にその権利を行使できる。自分はこの世界で最強なのだと、本気で信じていた。

 

 体育館に侵入した巨大なオーガを、俺が『カット』によって頭を切り、先生に焼き尽くしてもらうと、周囲からは割れんばかりの歓声が上がった。


 だが、このスキルには致命的な欠陥――「計算負荷」が存在した。

 

 現実という膨大な情報量を書き換える際、俺の脳はコンピューターのように熱を帯びる。大きい魔物や建物に対してスキルを使えば、焼けるような頭痛に襲われる。さらに、対象のが強大であればあるほど抵抗レジストを受け、編集が受理されるまでに時間がかかるのだ。


 防衛開始から二週間が過ぎた頃。避難所の食料も底をつき、人々の精神が限界に達していた。  

 

 その隙を突くように、トラウマが現れた。


 真夜中の学校の廊下で、見張りについていた俺の前に、彼女は音もなく現れた。静まり返った空気の中に、突如として腐った果実のような、甘く湿った香りが漂い始める。  


「あら、面白い『スキル』を持っているのね。私の奴隷オモチャに加えてあげようかしら」


 そこにいたのは、陶器のように白い肌を露わにした、異様に美しい女だった。  

 背中には禍々しいコウモリの翼。月光を反射した黄金の瞳が、獲物を見定める肉食獣のように妖しく光っている。

 

 淫魔サキュバスみたいだ。  


「なんだお前、どこから入ってきた……?」


 静かに声を絞り出し、俺は一歩後ずさった。入り口の扉も窓も、すべて施錠されていたはずだ。


「うーん、転移ってわかる? 座標を決めた場所に、瞬き一つの間に移動できるって魔術なんだけど……」


 女は退屈そうに自分の爪を見つめ、それから俺に視線を向けた。


「見たことない技を持った少年がいるって聞いて、わざわざ見に来てあげたのよ」


 心臓が早鐘を打つ。喉の奥がカラカラに乾き、呼吸の仕方を忘れそうになる。 圧倒的な強者のプレッシャー。


 だが、俺にはこの二週間、一度も負けたことない最強の『スキル』があるんだ。


「……じゃあ、お望み通り見せてやるよ」


 俺は視界に展開された半透明のウィンドウを叩いた。ターゲットを選択し、世界の因果を書き換える。


「『デリート』!」


 確信を持って放ったはずだった。  

 

 だが、目の前の女は動じておらず、消える気配すら微塵もない。


「な……っ!?」


 視界の端で、今まで一度も見たことのない赤い警告灯アラートが激しく明滅していた。


【警告:対象の情報密度が許容量を超えています。編集不可】


「……デリート! デリートだ!!」


 狂ったように空中のアイコンを連打する。だが、虚しく響くのはエラー音だけ。  

 

 女はそれを見て、クスクスと、残酷な笑い声を上げた。


「無駄よ、坊や。そんな単純なスキルじゃ一生私に勝てないわ」


 女がゆっくりと歩み寄ってくる。

   

 俺は必死に『カット』を放とうとしたが、彼女の甘い吐息が脳を溶かし、思考を霧散させる。  

 

 編集などという小手先の誤魔化しが通用しない、圧倒的な力だ。  

 俺は彼女に組み伏せられ、その指先が胸に触れるだけで、自分という存在が上書きされていく恐怖を覚えた。


「……あ、あぁ……あ……」


 死よりも恐ろしい喪失感。  


 自我が崩壊する寸前、廊下の壁を突き破って突入してきた自衛隊の覚醒部隊の攻撃が、淫魔を退け、俺は一命を取り留めた。


 だが、その日を境に、俺の中で何かが完全に壊れてしまったのだ。  


 最強だと思っていた自分の力が、真の強者の前ではただのゴミクズでしかないと思い知らされた。





 二日後。事態が少し収まり、治安が回復し始めた頃。  

 

 血と煤に汚れた日真谷先生が、俺の肩を強く掴んだ。


「綾田。自衛隊の覚醒部隊が、お前の力を高く評価しているらしい。どうだろう。彼らや私と一緒に、あの城を攻略してくれないか?」


 信二もまた、包帯だらけの腕を掲げて俺を見つめていた。


「やろうぜ亜季。俺たちがいれば、絶対誰にも負けないさ」


 だが、俺の瞳には、かつての熱量は残っていなかった。思い出すのは、あの淫魔の冷たい指先。  

 自分という存在が、いとも容易く消去されかけた恐怖と屈辱。


 俺は、震える手で先生の温かい手を振り払った。


「すみません……俺には、できません……!」


「綾田……?」


「無理です。怖いんです。俺は……皆を救うことなんてできない!」


 情けない絶叫を部屋中に響かせ、俺はその場から逃走した。  


 響の手を強く引き、国が用意した安全地帯セーフエリアのマンションへと、自分を閉じ込めるために。


          




 ――そして、あれから早二年が経過した。


 ナトフリの画面を見つめながら、俺はすっかり冷めきった味噌汁を啜る。  


 あれから世界は一変した。  


 世界各地にダンジョンが定着し、覚醒者たちが「探索者シーカー」としてメディアでもてはやされる歪な時代。


 先生や信二は、今や人類の最前線に立つトップクラスの探索者として、ニュースに映らない日はない・・・・・・らしい。


 俺は自分が逃げたことに、今も耐え難い負い目を感じている。彼らが命を懸けている冒険も、勝利の美酒に酔う配信も、今の俺には直視することができない。


 眩しすぎるのだ。

 

 俺が投げ捨て、彼らが拾い上げた『英雄』という名の重荷が。    

 

 けど、彼らは今も世界のどこかで戦っているのだろう。


「……はぁ」


 俺はPCの前で頭を抱え、絶望的な溜息をついた。


「なんで……なんで配信終了してんだよ……!」


 ナトフリの検索画面には、『該当する作品はありません』という無慈悲なシステムメッセージ。  

 俺が今日どうしても観たかったカルト映画、『日曜日の殺人鬼』。  

 小学生のときに観た映画だが、あの最悪のバッドエンドが俺の今の気分にぴったりだと思った。


「……くそ。あれのラストシーンを観ないと、なんか落ち着かないな」


 背に腹は代えられない。  

 俺は意を決し、半年ぶりに部屋の隅に放り投げてあったパーカーを羽織り、深くフードを被った。  


 向かったのは、駅から少し離れた場所にある、時代に取り残されたような寂れたレンタルビデオ屋だ。あそこなら、配信から消えた古い名作も置いているはずだ。


 店に入ると、古いプラスチックと黴の入り混じったような匂いが、俺の鼻腔を突いた。客の姿はまばらで、レジの店員も退屈そうにスマートフォンを眺めている。  


 俺は周囲の目を避けるように、足早にホラー映画の棚へと向かった。


 あった。『日曜日の殺人鬼』。パッケージは日光で少し色褪せているが、間違いなく俺が探し求めていたものだ。


「よし……」


 震える指先で、そのケースを掴もうとした瞬間。  


 横から伸びてきた白く細い手が、同時にパッケージに触れた。


「あ」


 俺の手と、その白い手。  


 古びたパッケージを挟んで、指先がかすかに触れ合う。


 顔を上げると、そこにはこの薄汚れた店内にはおよそ不釣り合いなほどの、圧倒的な存在感を放つ少女が立っていた。


 銀色がかった滑らかな長い髪。雪のように透き通る、白く美しい肌。そして、宝石を嵌め込んだように輝く、深い紫紺の瞳。


 深窓の令嬢か、あるいはスクリーンの中から飛び出してきたかのような絶世の美少女が、俺をじっと見つめていた。


園前そのまえ……アリス?)


 俺の記憶の隅にある、西中(通っていた中学校)のアイドルにして、誰もが近づくことさえ許されない高嶺の花。たしかイギリス人と日本人のハーフだったはずだ。

 

 なぜ、こんな場末のビデオ屋に彼女がいるんだ。


「……譲ります」


 俺は関わり合いを避けるため、反射的に手を引っ込め、その場を立ち去ろうとした。しかし、背を向けるよりも早く、園前はその細い手で俺のパーカーの袖を掴んだ。


「待って。あなたも、この監督のファンなの?」


 その瞳は、同士を見つけたオタクのように爛々と、かつ無邪気に輝いている。あまりに距離が近くて、俺の鼻腔に彼女の甘い香りが入り込んできた。


「え、あ、まぁ……初期の三作しか見てないニワカだけどな。それ以降の作品は強引なハッピーエンドばっかりらしいから、見てないんだ」


 思わず漏れたのは、筋金入りのオタクとしての本音だった。その瞬間、彼女の表情が、春の訪れのようにぱぁっと明るく華やいだ。


「分かってる! そうよね、四作目以降は商業主義に走りすぎてて全然駄目だわ! 特にあの、脚本を無理やりねじ曲げたハッピーエンドなんて、それまでの作品への冒涜でしかないわよね!」


 まさかの、俺以上のガチ勢だった。一瞬、奇跡的な同胞との出会いに胸が高鳴りかけるが、俺はすぐに正気に戻る。俺は社会からドロップアウトした引きこもりだ。こんな世界の中心にいるような美少女と、気安く話していい身分じゃない。


「……じゃあ、俺はこれで」


 袖の手を振りほどき、逃げようとする。  

 だが、園前はパッケージを宝物のように胸に抱きしめ、悪戯っぽく微笑んで俺の目を覗き込んできた。


「ねぇ。これ一本しかないし、君もどうしても今観たいんでしょ?」


「は?別にどうしてもってわけじゃ……」


「うちに来ない? 大画面で見せてあげる。一緒に観ようよ」


「……はい?」


 俺の返答など最初から期待していないかのように、彼女は楽しげに話を続ける。


「ポップコーン、キャラメル味と塩味どっちが好き? 私は、キャラメル多めのミックス派なんだけど」


 有無を言わせぬ強烈な態度。  


 神様、どうやら俺の人生という物語ストーリーは、俺のあずかり知らぬところで勝手にジャンルを変更されてしまったらしいです。それも、最悪の鬱展開から、最も苦手なジャンルである『ボーイ・ミーツ・ガール』へと。


 こうして、主役を降りたはずの引きこもりは、最高のヒロインという名の嵐に巻き込まれ、再び「現実」という舞台へと引きずり出されることになったのだ。

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