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「その泥髪は不潔だ」と捨てられたら、冷徹公爵の癒やしとして寵愛されました

作者: 藤崎次郎


 本来、舞踏会というものは可憐で美しく、女性たちの舞台ともいえる場所だ。

 しかし、今日行われた公爵家主催の舞踏会は、それとは真反対の地獄だった。


「聞こえなかったのか?」


 目の前に立っている男性は、私を蔑むような視線を向けながら言葉を吐く。

 その目は、汚物に向けるものと同じだった。一人の女に対して向けていいものではないだろう。しかし実際に、彼は私を見ながら再度吐き捨てるように言い放った。


「カリナ・ルベライナ嬢。貴様との婚約をここで破棄させてもらう」


 この時まで私の婚約者であったゾンヒ・ルベライナは、高慢な笑みを浮かべながら周囲を見渡す。派手なライトブルーの髪がいやに光っていて気持ち悪かった。強烈な香水の臭いがここまで漂ってきて、思わず目を逸らしたくなるほどだ。


 そんな彼であるが権力者の息子ということもあり、周囲の貴族たちが一斉にざわめく。ヒソヒソと女性たちの中傷的な笑い声も聞こえた。ふぅ、と一度吐き、面倒だなと思いながらも一応聞いておく。


「理由を聞かせていただけますか、ゾンヒ様」


 私は静かに問うた。

 対し、ゾンヒは「その言葉を待っていたぞ!」という顔で私の髪を慌ただしく指差す。

 派手に体を動かさないでほしい。香水臭い。


「見るがいい、その『汚れた泥色の髪』を! 貴様は中流子爵家の出でありながら、街の魔力酔いの治療師などという下賤な仕事に精を出し、その度に髪を汚してきた。それは」

「仕事ですので」

「話を途中で遮るな! いいか、我がルベライナ家は、アズール王国の衛生管理を長年担ってきた名門だ。そんな高貴である我ら名家が、貴様の不潔で非生産的な泥髪を一族の一人として迎えるのは憚れる! つまり」

「私は誇りに思っています」

「だから話を遮るな! ええっと、つまり! 我が家の品位と将来性にふさわしくないのだよ!」


 私の住まう国はアズール王国といって、ずっと前から「魔法が当たり前のように存在する」国だ。

 国民皆が魔法を扱え、それが日常生活にまで深く浸透している。魔法は大きく七つに分類されていて、自然・陣形・創造・付属・癒呪・継承・古代とされている。そして私は、その中で最も距離を置かれる癒呪魔法の使い手である。


「この髪がですか?」

「そうだ! 見ればわかるだろう!」


 癒呪魔法は文字通り癒やしと呪いの魔法である。傷を癒やすことや相手を呪うことを可能とする。私はその中でも特殊な方で、他者の「体内に滞留した魔力」を吸い取ることができる。


 いわゆる「魔力酔い」と称される病気を治療することができる珍しい魔法師なのだ。


 魔法の長時間行使や不慣れな魔法を無理矢理に使用すると、稀にこういった病気になってしまう。慣れない魔力操作に体が対応できなくなってしまうのだ。症状は頭痛や目眩から始まり、酷い時は失神するケースもある。


 その状態を治すのは普通の癒呪魔法師では難しく、特級・癒呪魔法“安寧の旋律”を必要する。それを私は子供の頃から体得していたので、仕事としても使用している。

 ただ、長年に渡り滞留魔力を吸い取りすぎたせいで、私の髪は光沢のない泥色をしているのだった。


「まったく、何度見ても汚らしいな。その泥髪は不潔だ」


 下賤。非生産的。泥髪。不潔。

 わかっていたことながら、いざそれらを連呼されると、正直なところ胸が締め付けられる気持ちだった。確かにこの髪は泥色だ。魔力酔いに苦しむ人々から滞留魔力を吸い取るたびに、魔力と一緒に相手の負の感情も私の髪に留まるからだ。


 普通は時間の経過とともに「魔力酔い」は治るとされているため、放置するのが一般的な治療法。

 しかし、中にはどれだけ時間をかけても治らない人がいる。そんな彼らが苦しみから解放され、微笑む顔が好きだった。中には大粒の涙を流す人もいた。それは私にとって、誇りだった。


 どうせ、いつかはこうなるだろうとわかりきっていたこと。

 しかしこの婚約を最初に言い出してきたのは実は向こうである。子供の頃、まだ元の髪だった頃の私を一目惚れしてきたゾンヒが何が何でも結婚したいと必死に迫ってきたのが原因なのだ。


 両親は必死に抵抗したが、中流貴族と上流貴族との権力は圧倒的であり、半ば強引に決められた。正直、ほっとしている。しかし私の仕事を馬鹿にされたことは、どうしても許せない……!


「私の仕事は、確かに地味で目立ちませんが、魔力酔いに苦しむ人々を助け、彼らの生産性を回復させる……」

「黙れ!」


 ゾンヒは大げさに笑った。

 あぁ、また不愉快な香水が鼻につく。もげそうだ。


「所詮、貴様は癒やしの道具にすぎん。以前から何度も忠告してきたはずだ。その美しい髪だからこそ我が家の人間として相応しいのだと! それなのにお前は全く言うことを効かず仕事ばかりに励みおって……! 我らルベライナ家には、もっと美しく、社会的地位のある聖女が必要なのだ。さあ、二度と我々の前にその泥髪を見せるな!」


 焼け石に水のようだ。本当はこの仕事だけは撤回させたかったけど、これ以上は両親の迷惑にもなる。

 悔しい。

 理不尽な世界だとわかっていたけど、自分の無力さが歯がゆい。

 でも、ここで事を荒げるわけにはいかない。心を冷やせ。凍りつかせろ。淡々とこの場を終わらせるのだ。周囲から憐れみと侮蔑を混ぜたような視線が刺さる。

 ギュッと手を握り、私は踵を返した。視界の隅で、ゾンヒの歪な笑みが見えた。また何かを言おうと口を開いている。


 もう、いい。聞きたくない。

 ……この気持ちは、誰にもわかってもらえないのだろう。そう確信した。


「ルベライナの愚息。それ以上の発言を控えろ、耳が腐る」


 瞬間、凍り付いた空気を切り裂くような、静かで絶対的な声が響いた。

 声の主は、ホールの奥からゆっくりと歩み出る。

 私は踵を返したため、後ろにいるゾンヒを見ることはできない。ただ後ろから「な、なな……!」と震わせている男の声は聞こえた。そんな中でも、こちらへ来た男性は表情を崩すことなく淡々と続ける。


「まともな会話もできんのか。愚かだな」


 オルゼン・シャルロッティア公爵。 アズール王国の財務・内政の最高責任者にして、最高位の上流貴族。その冷徹な判断力と卓越した内政能力で、王国の経済を支える絶対的な権力者だ。


 眉は細く鼻筋も綺麗で、肌は女性から見ても潤っているのがわかる。薄紫色の瞳は宝石のようで、身長は高く体も鍛えているのが服越しでもわかった。

 舞踏会に出席する女性なら誰もが知る美男子である。ただ、その冷徹な考えは態度や言動にも現れていて、お近づきになりたいと迫る女性は一人残らず撃沈されると有名だ。私も以前、友達がアタックして木っ端微塵に玉砕されるのを見たことがある。


 彼はそのまま歩を進める。誰も止める人はいなかった。

 私を一瞥もせず、横を通り過ぎると、私を侮蔑した男の前に立って。

 真っ青になっていたゾンヒは、声を震わせながらなんとか言葉を紡いだ。


「オ、オルゼン殿。これは私的な婚約問題です。あ、貴方にどうこう言われる筋合いはない!」


 愚か──と、低音がホールに響く。

 なんという声質だ。耳元で囁かれたらほぼ全ての女性が卒倒する。


「私的な問題ではない。貴様は今、極めて少数とされる癒呪魔法“安寧の旋律”の使い手を『非生産的』と断じた。アズールにおいて高位の重役が『魔力酔い』となった場合、内政と経済に大きな打撃となるのは明白である。そんなことすらわからんとはな。愚か……。シャルロッティア家の人間として、貴様の盲言は看過できん」


 言い終わると、彼は私へ初めて顔を向けた。

 その瞳は凍えるように冷たかったが、私を貫くような鋭さもあって。


「こちらの令嬢は私がいただく。我がシャルロッティア家は、王国の財政に貢献できる『癒やし』を必要としている。貴様のような非効率的で非生産的な思考の貴族には、決してわからぬものであろうが」


 そう言って、公爵は私の手を優しく取った。

 声や態度は冷たかったけれど、手の温もりだけは……不思議と、安心できた。


「カリナ・ルベライナ嬢。貴方の魔法はアズールにおいて重要だ。今日より、我が公爵家に仕えてもらう」

「え? あ、はい。お願いします」


 とりあえず同意しておいた。

 実際ここで断ったら最高位のシャルロッティア家からウチなんて消し炭にされそうだし。

 何より、彼の後ろでこちらを憤怒の目で睨んでいるゾンヒの姿が、とても滑稽に思えたからだ。


 そのまま、オルゼン・シャルロッティアの圧倒的な権威に抗うことなど当然できず、舞踏会から連れ出される。まるで、最高位の権力者に最高の道具として拾われたかのようだった。


     ◇


 シャルロッティア邸は、王国の財務を司るに相応しい、壮大な屋敷でだった。トントン拍子でことが運び、整理する時間すらなかったので、せめて両親には報告しようと“琴吹き”と呼ばれる手紙を一瞬で送る魔法を使った。

 しばらくすると「なんでそんなことになってんの!?」と帰ってきたけど、聞きたいのは私の方だった。


 とりあえず「相手の指示に従うように」という当たり前の結論を両親と共有し就寝する。全然寝れなかった。翌朝、オルゼン公爵から執務室で契約内容を告げられる。


「君には、とある任務を負ってもらう。我が領地に高密度の(ルカ)が発生している小池がある。その浄化だ。『結婚』は形だけだが、相応の地位と報酬は約束する」

「……え?」

「どうした」

「私、オルゼン様と結婚するんですか?」

「そうだ」


 え、いつの間に?

 そう思っていたら、首を少し傾けてオルゼンがこちらを見つめていて。


「愚かな、私は昨日言ったぞ。『こちらの令嬢は私がいただく』と」

「あれだけで結婚することになるんですか!?」

「そうだ」


 その口調は、感情のひとかけらもない、完璧な業務命令だった。

 おかしいな、私の考えている結婚と全然違う……。お父様、失神しないといいけど。

 どうしよう。と、とりあえずは落ち着こう、結婚は一旦横において、仕事に集中しないと。ただ、あちら側の意図も理解しないと色々と面倒なことになる。


 たぶんオルゼン様は私を仕事の一部とみている。

 今まで百を超える女性から声をかけられたのだ。今さら私から変な恋愛感情ともとれる発言を聞くのは嫌だろうから……。


「承知いたしました。私は『内政の道具』として、オルゼン様のご期待に沿えるよう尽力いたします」

「……そうか」


 公爵は眉一つ動かさず、ただ頷いた。

 よし、おかしなことは言っていない。これで正解だ。仕事をするぞ。


 そこから、私のシャルロッティア家に対して、内政の道具としての献身的な日々が始まった。

 本来相手の魔力を吸い取る“安寧の旋律”は対人の魔法だ。ただ、対象が池なだけで、同じ(ルカ)を吸い取ることは可能だった。


 人は魔法を発動する際、体内のルカを使用する。これは自然物にもあって、たまにではあるがそのルカが高密度で集まる現象が発生する。普通の人が立ち入ると危険なため、大体は立入禁止か、状態が落ち着くまで監視対象となる。


 私はその状態の小池を魔法を使い無力化させるのが仕事だった。

 これが結構難儀であった。人とは比べ物にならないルカを秘めていて、相当な日数を必要とする。しかし諦めるわけにはいかない。自分の体と相談しながら、毎日小池のルカを吸い取り続けた。


 最初は上手くいかなかったけど、小池にも滞留しているルカの濃淡があることを発見する。そこの濃い部分を吸い取れば、淡い部分は自然消滅することに気づいた。これが大きな発見で、日数を重ねるたびに状況は改善していくことを実感できた。


 ただ、私の髪は一層泥色を濃くしていく。

 帰り道、すれ違う人が奇異の目で見ていた。

 ……わかってる。これが私の宿命なのだ。

 それでも、目に見えて成果が出ることや小池が浄化されていくことに誇りを感じていた。


 そんな、シャルロッティア邸に招かれて数週間が経過した頃のことである。


「あれ、まだ明かりがついてる?」


 ある夜、私は執務室に報告書を届けに行った。夜中の一時だ。オルゼン様は分厚い報告書に埋もれ、執務を続けていた。私が言うのもなんだけど、こんな時間にまで働いているんだ。

 ……できるだけ邪魔しないよう、気配を消して執務室へ入る。しかし、その日は様子が違った。公爵は報告書に顔を伏せ、微動だにしない。


「オルゼン様?」


 私が声をかけると、公爵はハッと顔を上げる。

 その目は充血し、焦点が合っていなかった。


「……君か。大丈夫だ、少し眠っていただけだ」


 彼は視線を逸らし息を吐く。

 同時、私の直感が告げる。これは「魔力酔い」だ。本来、魔法の長時間行使や不慣れな魔法を無理矢理に使用すると魔力酔いが起こる。ただし、極めて稀なケースとして、重度の疲労から体が悲鳴をあげて、結果として魔力酔いを誘発することもある。


 過労、重圧、そして普段より自分を律している感情が、自身に流れるルカを正常な形から逸脱させたのだ。

 今も彼の体からはルカが氷のような冷気となって漏れ出ている……。オルゼン様は、王国の内政という重圧に常日頃より耐え続けた結果、魔力調整が不可能になっていたのだ。


 気づかなかった。

 私の落ち度だ。


「オルゼン様。このままでは、明日の朝には倒れてしまいます」

「大げさなことを言うな。こういうことは何度もあった。問題ない」

「ハッキリ申し上げます。魔力酔いです」

「あれは魔法を使用している者がなる症状だろう。私は普段より魔法を使っていない」

「だからです。極めて稀なケースですが、そういう方にも魔力酔いが起こります。事実、自身のルカを感じ取れないでしょう?」

「……ッ」

「普段より貴方様が抱える重圧は、私ごときでは推し量れないものです。ですがこのままでは必ず明日倒れます。これは、国家財政の危機です」


 私がそう告げると、公爵の瞳に初めて、動揺の色が浮かんだ。

 グッと眉間にシワを寄せて、しばし沈黙する。何かを必死に考えているようだけど、さすがに内容まではわからない。その間、私は彼の思考の邪魔をしないように待機するしかなかった。そして……。


「……これは治せるか?」

「もちろんです。そのために私はいるのですから。ただし、極度の魔力を一度に全て吸い取ると、私の体への反動も大きくなりますので、少しずつでいかがでしょうか」


 オルゼン様は再び沈黙し、目を瞑る。

 彼にとって、弱点を他者に晒すことは、命を晒すに等しいのかもしれない。

 しかし、このまま彼を見過ごすことなど絶対にできない。私にできることは、今なのだ。


「お願いします……!」

「あぁ、わかった。しかし、これは極秘の業務ということでお願いしたい。王国の内政効率を維持するため、治療を依頼する。対価は、そうだな。何がほしい」

「そうですね」


 彼のもとへ歩みながら考える。色々あるけど、今のところはこれぐらいだろうか。


「今度からは、ご自身のベッドで安らぎを得てくださいね」

「……」


 その時のオルゼン様の顔は、今まで見たことのない面白い表情をしていた。

 唖然というか、虚を突かれたというか、そんな感じだった。思わず笑ってしまいそうだったけど、なんとか堪えて治療を開始する。

 

 彼の胸に触れた途端、ゾッとした。

 体内に滞留する魔力は、氷よりも冷たいものだった。触れた私すら一瞬で凍結するほどのもの……!


「……ッ!」

「……大丈夫か」

「はい、大丈夫ですよ」


 彼にこれを知られてはいけない。

 どこまで自分を律すればこの領域にいけるのか想像もできない。

 おそらく、他者はもちろん自分すら徹底的に管理し、私情や優しさを消し、職務に邁進しているのだろう。いつしか温もりや優しさという感情は消えていき、シャルロッティア家としてアズールを支える人間へと成り代わる。


 彼の性格的にそれと相性が良かったのかもしれないが、だからといってこのままでは心が壊れてしまう。魔力酔いはその前振りだ。気づいて良かった。必ず治療してみせる……!

 髪が、さらに泥のように黒く、重くなるのを感じた。

 公爵の抱える重圧を肌を通じて感じていく。今まで私が治療した誰よりも重く、深く、冷たかった。抑えきれない感情も複雑に混ざっているように感じた。


 数分後、手を離すと、オルゼン様は深く息を吐いて。


「……驚いたな。頭が、これほどクリアになったのは初めてだ。“安寧の旋律”がここまでの魔法だったとは」

「今日は初日なので、オルゼン様にとって思考の邪魔になっている箇所を重点的に吸いました」

「そんなことが可能なのか?」

「伊達に長年してませんから。ほぼ体感なんですけどね、いかがですか」

「いや、素晴らしいものだ。驚嘆以外の言葉が見つからない」


 いつもは「愚かだ」が口癖のオルゼン様だけど、今日の彼はその反対に類する言葉を言っていた。自分の体を興味深そうに触っている。

 魔力酔いの原因となるルカは人の生命そのものだ。本来なら吸い取ってはいけないけど、必要以上に濃い場合は悪となる。今日はその中でも特に酷い箇所のみ吸った。


 しだいに彼はいつもの冷徹な顔に戻り、席を立つ。

 近くの棚から何かを手に取ると、私の手にそれを握らせた。


 最高級の櫛だった。


「こ、こんなもの受け取れません」

「これでも足りない。本来ならもっと用意すべきところ、悪いがこういうものしか近くになかった。とりあえず、受け取ってくれ」

「いやいや、さすがにこれは」

「頼む」


 ……。

 じぃっとこちらを見つめて、オルゼン様からお願いされる。こ、断れない……。


「これは気持ちだ。悪いが、明日以降も治療を頼む。」

「承知いたしました。ただ、毎回こういうものは止めてくださいね」

「わかった。では、早速行くとしようか」

「え? どこに」


 私が何気なく言うと、こちらを振り向いて、少しだけ口角を上げてオルゼン様は呟く。


「寝室だ。君にベッドで寝るよう言われただろう。──一緒に来るか?」

「と、とんでもない!」


 慌てて私が言うと、だろうな、と言って彼は部屋から出ていった。

 ポツン、と取り残される。

 

「初めて笑った……」


 笑うんだ……。

 いやぁ、凄い威力だった。あれは破壊力満点だ。

 人間なんだから笑うのは当たり前だけど、まさかオルゼン様の微笑みを見ることになるとは。


 彼からいただいた櫛を見ながら、なんとも言えない溜息が出てしまう。ちらりと近くにある鏡を見て。


「でも、せっかくの櫛……こんな泥髪にはもったいないなぁ」


 お母様に送ったほうが、いいのかな。


     ◇


 あれから毎晩、オルゼン様と会って“安寧の旋律”による治療を行っている。

 小池に滞留していたルカは既に浄化済みだ。

 対してオルゼン様の症状は酷いものだった。体内に流れるルカはまったく機能しておらず、どうしてこの状態で立っていられるのか不思議なぐらいだ。おそらく強靭的な精神力と意思により保っていたのだろう。私ができることは、その苦しみを少しでも軽減することぐらいだった。


 これまで見てきた人の中で一番症状が酷いオルゼン様の回復には結構な日数が必要とした。それは必然として、私が彼の部屋に通う日数も増えていくことになる。最初はお互い何も言わず、気まずい雰囲気だったりしたけど、徐々に言葉を交わすようになっていく。

 特に“安寧の旋律”については詳しく聞かれた。

 いや、本当に。ここまで聞くの? ってほどに。

 私に対して興味を示さないオルゼン様にしては随分と熱心に聞かれたので、魔法の生い立ちやコツ、習得の際の心得などこちらも可能な限り返答する。


 話せば話すほど冷徹な公爵は「興味深いな……」と真剣な眼差しで私の魔法を見ていた。


「それでは、今日はこれで」

「あぁ、いつもすまない」


 謝らなくていいのに、と思いながら会釈して部屋を出る。少し歩いてから、オルゼン様の部屋を見た。今も明かりがついている。きっとまだ仕事に取り掛かるつもりだろう。


「……」


 彼が私の体に触れたことは一度もない。私の方からオルゼン様の体に触れるだけだ。性的な目で見られることや、態度で示されたこともない。まぁ、引く手数多の美男子なのだ。こんな泥髪の女を抱きたいとは思わないだろう。

 所詮、彼とは形式上の結婚だ。

 私は彼の道具でいい。

 ただ、アズールの秩序が守られ、公爵様が倒れないように、私の誇りであるこの泥髪で献身し続けよう。


     ◇


 しかし、事態は急変する。

 治療を始めて数週間が続いたある日、それは突然起こった。公爵邸に一通の「告発状」が届く。差出人は元婚約者のゾンヒ・ルベライナだった。


 ゾンヒは、オルゼン様の過去の財務書類の些細なミス(本当に軽微であり、誰も気に留めないレベルのもの)を捏造・誇張し、「オルゼン公爵は過労による判断力低下で国家財政に危機をもたらしている」と主要貴族および王家に告発していた。これは、公爵を内政の地位から引きずり下ろすための政治的陰謀だ。


 本来ならこんな虚偽の告発状、直ぐにバレて逆にゾンヒが処分されるものだ。しかし悪知恵を働かせていた彼は、シャルロッティア家配下の内通者を脅迫・買収し、彼らを通じて「不正の証拠がある」として、公爵邸の執務室への強制立ち入り調査を強行させた。


 アズール王とも親しいシャルロッティア家は、直ぐに王家へ不服申立てを行う。しかし、不幸にもアズール王は遠征しており、回答まで一日程度の時間を要した。

 その一日も全て計算づくであり、ルベライナ家は総力を上げてシャルロッティア家へ断罪の動きを開始したのだ。その手際は凄まじく、普段の仕事もそれぐらいやれよと思えるほどだった。


 シャルロッティア家は一転、嵐に巻き込まれたような状態となる。

 ただ、そんな中でもオルゼン様は冷静だった。いつもと変わらぬ表情で冷静に対処し、秒単位で指示を出し立ち入り調査への対策を万全にしていく。


「公爵様、調査官がもうすぐ到着します!」


 最近採用された使用人が書類を持ちながらオルゼン様に報告する。私も何かできることはないか、確認しないと。オルゼン様は書類に目を通し何かを指示している。


 ……?


 今、何か変だったような?


「こちらの書類なんですが……!」


 変わらず、使用人はオルゼン様に追加の書類を見せている。それ自体はよくあることだ。これから来る調査官とやらを撃退するための準備である。

 問題はそこじゃない、今、私の視界に何か変なものがあった。オルゼン様に変なところはない、書類にもだ。となると、何だろう。


 使用人?


 左手に持った書類をオルゼン様に見せて……。


 右手につけている白い手袋を……取った。

 

 黒い。


 どす黒い手。


 とても人のものとは思えない。


 それを何故か……ゆったりと。


 目の前の男性へ──



「──オルゼン様!」



 触れた瞬間、オルゼン・シャルロッティア公爵が崩れ落ちた。まるで糸が切れた人形のように、パタリと倒れてしまう。直ぐに周囲の人たちによって使用人は取り押さえられる。何かを喚いているが、どうでもいい。そんな戯言に興味はない。


「オルゼン様、オルゼン様!」


 今もオルゼン様はぐったりとしていて、目を瞑っている。

 呪いだ。癒呪魔法の一つに間違いない。問題はそれが何の呪いかわからないところだ。取り押さえた人らが必死になって何の呪いか聞いている。しかし相手は答えない。当然だ、殺す気でいる相手への呪いなど言うはずがない。


「……ッ!」


 おそらくゾンヒ側は普段のオルゼン様を相手にしては勝てないと踏んだのだ。ゆえに一時的にしろ彼を動けなくしてしまえばいい。可能なら殺してしまおうという算段だろう。その間にシャルロッティア家を徹底的に潰し、貴族界から消し去るつもりなのだ。 

 実に小汚い策だ。普通、考えてもやらない。しかし実際にやってしまった事実が今だ。このままでは、確実にシャルロッティア家は潰える!


 どうする。

 どうする!

 ルカの滞留なら“安寧の旋律”で癒せるけど、呪いなら話は別だ。私の力でどうこうできるものではない。でも、このままいけば確実にオルゼン様の死がやってくる。


 奇跡的に上手く一命を取り留めても、起きたときには名誉あるシャルロッティア家がどうなっているかわからない。それを前にいた時、オルゼン様はどう思うのか。必要なのは今だ。この時に、彼を助けるしかない……! でも、どうやって。


 ……。


 いや、待って。

 これは呪いだ。そして“安寧の旋律”は呪いの対局である癒やしだ。体の中にある不要なルカを吸い取ることができる。

 そして呪いの魔法もまた、ルカで構成されているはず。もしかしたら……?


「呪いも、吸えるんじゃ……?」


 その場にいた全員が、私を見た気配を感じた。

 同時、私は彼の胸を手を添える。

 誰かが止めろと叫んだ。

 でもどうでもいい。

 これしかない。

 これしかないんだ。

 オルゼン・シャルロッティアはアズールにとって必要な人間だ。

 私とは違う。

 それに、元々は捨てられた身。あのまま貴族界を追いやられてもおかしくなかった。それを拾ってくれた彼にはとても感謝しているし、色々あったけど、今日までの生活も楽しかったと思う。だから──


 オルゼン様を救うのに、一切の迷いなんてあるわけない!


「“安寧の旋律”」


 ドン、と膨大なルカが私の方へ流れてくるのを感じる。かつてないほどの衝撃と、ルカの歪な濃さに一瞬意識が飛んだ。だがこんなところで気絶するわけにはいかない。歯を食いしばって耐えて、吸い取ることのみに注力する。

 吐きそうだ。

 おかしくなりそうだ。目眩いがする。頭痛もする。呪いが何の呪いかわからないけど、相手の意識や状態を刈り取るものだと思う。

 吸え、吸え……、彼から感じる漆黒のルカを、一滴残らず搾り取れ……! 体が軋むのを感じる。バラバラになってしまいそうだ。


 でも、私がやるんだ。

 オルゼン様を、助けるんだ!!


「──ぁ」


 パチンと、何かが弾けて、視界が白くなっていく。

 体が勝手に後ろに倒れる。なんで? やめてよ、私にはまだやることがあるんだ。酷いよ。

 あぁ、泥髪がちらりと見える。もう泥髪どころじゃなかった。茶と紫と赤と黒が混じり合ったような、この世のものとは思えない色の髪だった。


 ……ふふっ。

 オルゼン様みたいに言うなら、愚かだなぁ私。こんな髪色じゃ、もう人様の前にも出れないだろう。運よくこの場はなんとなかっても、きっと誰もが私の髪色を見て慄くに違いない。化け物とかいわれるかもしれない。


 なら、この場で絶命することも、ある意味ではいいのかもしれない。

 惜しむべきは、お父様とお母様に謝罪できないことかな。せっかく産んでくれたのに、こんな親不孝者になってしまった。もっと働いて二人の力になりたかったのに。


 それともう一人……オルゼン様。こんな泥の女と形式上でも結婚してくれたのだ。感謝以外の言葉が見つからない……。もう視界は白だけだ。何も見えない。何も聞こえない。私の世界は無となって、全てのことから断絶されたのだった。


 だから──。

 倒れる私の背中を誰かが支えてくれた感触がしたけど、きっと気のせいだろう。


 あぁ、叶うのなら。

 もう一度──。


     ◇ 

 

「……ん?」


 目を開けると、ぼんやりとした視界が広がっている。ここはどこだろう?

 まだ視界がクリアにならない。目をこすりながら体を起こし、周囲を見渡すと、見覚えのない部屋だった。でも、何故かオルゼン様の匂いがする……。どうして?


「起きたか」


 すると、目の前の椅子で読書をしている男性がいて。

 オルゼン様だ。いつも通りの凛々しい顔立ちで私を見つめていた。えっと、どういうこと? 確か今日は……ゾンヒに……。


「──ッ!?」

「落ち着け。それについては全て解決した」

「ふぇ?」


 阿呆のような声をあげる私に対し、シャルロッティア公爵は淡々と返して立ち上がり、寝ている私の傍に座った。

 ……あれ、何だか距離が近くないだろうか。薄紫色の瞳が私を見つめている。どこか冷たく、けれど熱を帯びた眼差しだった。


「結論から言えば、ゾンヒ・ルベライナを含めたルベライナ家は貴族界から永久追放となる」

「……と、いうことは」

「そうだ。あちら側の仕掛けてきた不正・捏造による告発は全て取り下げられた。当たり前だが、愚かなことをしたものだ」


 愚かにもほどがある……と若き公爵は息を吐く。

 話を聞くと、私が倒れた瞬間にオルゼン様は起き上がり(しかも全回復)、無理矢理突入してきた相手側を迎え撃ったそうだ。


 ゾンヒからしてみれば床に伏しているはずのオルゼン・シャルロッティアが堂々と立っていたことに驚き、腰を抜かしたという。

 突入してきた他の者も事前にそのことを聞いていたようで、つい横にいたゾンヒに「呪いで倒れているんじゃないのか!?」と言ってしまったそうだ。まさか自分たちから犯罪の自白をするとは思わなかった。


「何もかも杜撰で、もはや相手にするのも恥ずかしいものだったぞ」

「……大変でしたね」


 そこからは事前に準備していた異議申し立ての書類と、(僅か一日の間に)根回しをしておいた他の上流貴族による意見書の山、そして今回の不正に対する疑義およびルベライナ側が捏造を行った明確な証拠など……。

 もはや相手側が可哀想になってくるぐらいの構えで迎え撃ったことで、凄まじい速度で物事は進んでいったようだ。


 なにより、虎の威を借る狐のようなゾンヒが完全復活しているオルゼン様を前にして勝てようはずもなく。戦意消失した彼らは何一つ成果を上げることなく項垂れた。

 さらには虚偽により告発、偽造文書作成、おまけに事前にオルゼン様が調べておいたルベライナの不祥事の数々を証拠も揃えて異端審問機関に提出。今頃ルベライナ家は家ごと引っくり返るほどの鬼の調査が行われていることだろう。


 つまり、この一連の騒動は、無事に終わりを迎えたのだった。


「……よかった」


 ほっと胸を撫で下ろす。ルベライナ家は滅び、ゾンヒは二度と私や私の仕事を蔑むことはできないだろう。よかった。本当に。体から力が抜けていくのを感じる。

 同時に思うのだ。

 私ももう、ここにいる必要はない。

 オルゼン様の危機を防ぐことはできた。これ以上、最高位の公爵の隣という相応しくない場所に留まるべきではない。


 この数週間、彼のために尽力してきたけど、結果として私の髪は以前にも増して汚れた色になってしまった。もはや泥色どころではなく、この世のものとは思えないほど悍ましい色をしている。だからもう、そろそろこの関係も終わりにしよう。


「オルゼン様。大変申し上げにくいのですが、私を実家に戻していただけませんか」


 決意を固めて、真っ直ぐに公爵の目を見た。

 対し相手は、私に向けた薄紫色の瞳を細める。そして落ち着いた声で口を開いて。


「何をもってその発言をしたのか問いたい」

「……もちろん、ゾンヒ・ルベライナから助けていただいたことは感謝しています。そしてその御恩に報いるためにも、私なりに公爵様へ尽力してきました。既に小池の滞留も浄化しています。私の役割は終わりました」


 オルゼン様はゆっくりと立ち上がり、執務机に置かれていた分厚い報告書を指差した。


「まだ終わっていない。君には、今後もアズールの財政を支えてもらう仕事が多々ある」

「ですが……」


 言葉に詰まる。

 しかし、言わなければならない。ここで逃げてはいけない……!


「こんな泥髪の女は、オルゼン様には相応しくないですよ。そろそろ、終わりにしましょう」


 私はそう言って顔を伏せた。別れの言葉だ。

 最高位の公爵の隣には、美しく、聡明で、そして清潔な髪を持つ女性こそが相応しい。この「泥髪」は、彼の名声を汚す種になるだけだ。私は道具として拾われたのだから、用が済めば静かに去るべきなのだ。

 重い沈黙が流れる。私は公爵が「わかった」と冷たく言い放つのを覚悟した。

 だが、予想に反し、オルゼン様はふっと口元に笑みを浮かべるだけだった。


「泥髪か。確かにそういう言い方もあるだろうが、確認もせずに勝手に決めつけているのは愚かなことだ」

「……?」


 確認? 何の? 彼の言葉の意味が理解できず、私は顔を上げた。オルゼン様は、私に背を向けていた鏡台へゆっくりと歩み寄ると、その装飾的な鏡を丁寧に持ち上げ、私に向かって差し出した。


「何色に見えるか、確認してほしい」


 映っていたのは、私、カリナ・ルベライナだった。

 しかし、視界いっぱいに広がっていたのは、見慣れた泥色では……ない。

 光を反射し、つやつやと輝く、まるで春の花びらのような──


 淡く美しい桃色の髪だった。


「ひ……え?」


 情けない声が漏れる。鏡を二度、三度と確認した。見間違えではない。確かに、私の髪は、あの忌まわしい泥色から、鮮やかな桃色へと変わっていたのだ。


「うそ……」


 慌てて自分の髪を掴み確認すると、確かに桃髪だ。この色を私は知っている。当たり前だ、お母様から受け継いだ髪色なのだから。

 私の髪がまだ泥色に染まる前の髪色。もう見ることは叶わないと思っていた……煌めく桃の髪。


「な、なぜ、こんなことに……?」


 なぜ、という単語がポンポンと頭に浮かぶ。答えはわからない。この泥髪は“安寧の旋律”を何度も使用し相手から不要のルカを吸い取った証でもあるのだ。

 だから、泥色が悪化するならまだしも、当初の髪である桃色に戻るなんて……!? そして、この時点でようやく当たり前の疑問が追いついてくる。


「そ、そもそも! オルゼン様のルカを吸い取ったのに、どうして私は無事なのですか? あの呪いは、私の体が耐えられるはずのない、強烈なルカでした! なのに、なぜ……なぜ私は、絶命していないのですか?」


 私は鏡から顔を上げ、公爵をまっすぐに見つめる。彼の瞳は、私の動揺をすべて見透かしているかのようで、不思議な気持ちになる。

 オルゼン様は私の問いかけに対し、わずかに口角を上げたまま、冷徹な仮面を一枚剥がしたかのような声で……囁く。


「まだ、わからないのか?」

「えっと、全然……」

「やれやれだ」


 少し楽しそうにオルゼン様は笑って、深呼吸をするように息を吐き出す。

 そして私の頬に優しく手を添えて、ゆっくりと告げられた。


「簡単なことだ。君の体内に滞留している不要なルカを『私が吸い取った』のだ」

「……はぃ?」

「あの呪いのルカは君の体内で爆発的な反応を起こしたが、君が意識を失う直前に、私も“安寧の旋律”を君に発動した」


 オルゼン様の言葉が、凍りついた思考回路をゆったりと溶かしていく。

 春の温もりのように。

 


「私も、癒呪魔法の使い手だ」



     ◇



 数週間前。毎晩、彼に“安寧の旋律”を発動して治療している最中、この魔法について事細かに尋ねてきたのを覚えている。

 魔法の生い立ちやコツ、習得の心得などを熱心に語った時、彼は冷徹な眼差しのまま「興味深いな……」と呟いていた。


 あれは、単なる興味本位の言葉ではなかった。

 自身が会得するために聞いたものだったのだ。

 口をあんぐり開けている私を前に、頷きながら言葉を紡ぐ公爵。


「随分と時間を要したが、ようやく会得できた。ぶっつけ本番だったが上手くいって本当に良かったと思っている。君の命を救い、そして泥色に染まっていた髪を本来の美しい桃色に戻すことができたのだから」

「わ、私から吸い取ったルカはどうしたのですか!?」

「小池に転化しておいた。すまないが、また小池の浄化を頼む。一応、このために用意しておいた」

「どうして……どうして、そこまで……!」


 理解できない。そこまでする必要など皆無だからだ。彼は私を道具として採用したのではないのか。だからこそ私も彼の役に立てるよう尽力したというのに。

 わ、私を驚かせるために言っているのかな? 困惑と疑問が脳内でダンスしている中で、私の問いかけにオルゼン様は「愚かだ」といつもの口癖を呟いて。その声は低く、甘い響きを帯びていた。


「ここまでしないと、わからんか」


 瞬間、視界は暗くなった。

 オルゼン様との距離がゼロになり、彼の逞しい胸板に私の体が押し付けられる。

 鼻と鼻が触れ合う距離。

 彼の吐息が、私の頬を優しく撫でる。

 初めて感じる熱に……思考が停止する。

 温かい優しさが、私の唇に触れている。ありとあらゆる感情が、同時に胸の中で爆発した。


 え、なにこれ。どうなってるの?

 色々と爆発しそうなんだけど……。私、かっ飛んだりしないよね?


 あまりの展開に心がついていかず、呆然とするしかなかった。唇は離れ、オルゼン様は私の額にそっと自身の額を重ねた。薄紫色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。ゾクゾクするほどの眼差しだ。


「愛している、カリナ・ルベライナ」


 その言葉は、もはや私を道具として扱っていた冷徹な公爵のものではなかった。

 愛を囁く、一人の殿方の声だった。


「同じ癒呪魔法を扱う者として、君の存在を早くから知っていた。あの見惚れるほど美しい桃髪を厭わず、献身的に“安寧の旋律”を使う君は、ただただ眩しかった」


 彼はそこで一度言葉を切ると、目で私の髪を見る。

 触れていいか? という意思表示だった。コクリと頷くと、私の桃髪を優しく撫でて。触れる前に確認を取るところが、いかにもオルゼン様らしいと思う。


「アプローチをしたかったが、生憎と君には婚約者がいたので、今まで黙って見続けることしかできなかったのだ。よかったよ、あの阿呆が君の心を見ていなくて。婚約破棄された瞬間は飛び跳ねそうになるほど嬉しかった。そして直ぐに行動へ移したのだ。たまたま小池のルカが滞留していてよかったよ。災い転じて福となすだな。あとは、君の髪を治療するため私が“安寧の旋律”を習得することに専念するだけだ」

「も、もっと早くそれを言ってくれれば、私も協力しました……」


 必死にそう尋ねると、オルゼン様ははっと息を飲み、私の質問から逃げるように顔を横に向けた。

 そして、右腕で自分の顔を隠す。しかし、私の視界には、彼の耳の先から首筋にかけて、鮮やかな赤色が広がっているのがハッキリと見えた。


 あの、冷徹な公爵ことオルゼン・シャルロッティアが、赤面している……。

 普段の完璧で冷徹な表情はどこへやら、恋に戸惑い、告白に勇気を振り絞った一人の殿方の姿があった。


「……あー、まぁ、そうだな。それはそうなのだが。愚かなことだが」


 彼は咳払いをして、なおも顔を隠したまま、震えるような声で言葉を続けた。


「君の美しい桃髪も戻してから、伝えようと思っていたのだ。愚かにも、中々“安寧の旋律”を習得するのに時間がかかったが……。かえって夜に君と話す口実ができた。僥倖と言えようか」


 私はオルゼン様の腕の中にいながら、ただただ驚きに目を見開くしかなかった。彼のこれまでの全ての冷徹さ、寡黙さ、そして「泥髪」の私を囲い込んだ行動が、すべてこの告白のための準備期間だったのだ。

 私が道具として捧げたかった献身は、とっくの昔に、彼からの純粋で切実な愛に包まれていた。


「オルゼン様……」


 隠そうとする腕をそっと引き下げ、私は彼の赤面した顔を覗き込んだ。真っ赤なお顔。

 汚れた道具として捨てられた私を、彼は誰にも代えがたい至上の宝物として、最初から最後まで愛し続けてくれていた。


「と、いうわけで、だ」

「え?」

 

 そのまま彼は私の体を押して、ベッドに押し倒す。

 今さらながら気付いた。ここは私の部屋じゃない。

 さっきからオルゼン様の匂いしかしない。ここは彼の寝室なのだ。


「形式上は結婚ということにしているが、正確には未だ婚約者だな。愚かなことだ」

「あ、あの……」

「もはやこれらの意味は逸した。ならば、あとはやることをするのみだ」

「そそ、その、ちょっと……」

「何を慌てる必要がある。カリナ、君が言ったことだぞ?」


 何を、と言おうとするも、何故か瞬時にその言葉が脳裏をよぎった。

 それは、私が初めてオルゼン様へ“安寧の旋律”で治療した際、彼から何か対価を渡したいと言われて返した言葉だ。それは──


『今度からは、ご自身のベッドで安らぎを得てくださいね』


 安らぎ……。


「これ以上の安らぎを私は知らないぞ。カリナ」


 オルゼン・シャルロッティア様の低い声は、どこまでも私の心に張り込んできて共鳴する。

 寝室で発せられる彼の声が、甘く、穏やかで、それこそ私に安らぎをくれた。

 もう、泥髪と揶揄されることはないのだろう。で、でも……!


「まずは、お互いを知るところから!」

「……」


 頑張って起き上がり、オルゼン様を見つめる。

 しばし固まった彼は、ちょっとだけ吐息をして、コクリと頷いて。


「では、今日から新しい一日を始めるということで、いかがだろうか」


 そっと手を、私の手へ……。

 二人の手が、重なる。

 一つになる。

 安寧なる旋律が、どこまでも心の中で響いていた。




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