絆
──この人だ……!!
イリーナの胸が高鳴る。
図書館で出会った黒髪の青年、その存在感が脳裏から離れない。
忘れ物を届けてくれたその瞬間、日常の空気が微かに揺らぎ、静かな緊張が波紋のように広がった。
「あっ、あの。忘れ物届けてくれてありがとうございました」
頬を赤らめ、深くお辞儀をする。感謝の言葉を伝えるだけなのに、鼓動は耳まで届きそうだった。
「どういたしまして、イリーナさん」
──その声が、図書室の静寂を一層際立たせる。
「待って!!」
「ん? どうしたの、アイシェ?」
オルガはわざとらしく首を傾げ、探るような視線を送る。
「いや、なんでこの子の名前が分かるの?」
アイシェの声は鋭く、問いは逃れられない刃のように響いた。
「あぁ、学園の生徒の顔と名前くらい把握しとこうと思って」
「くらいって……」
イリーナは心の奥で唸る。全員を? 本当に?
「そこにいる彼、翔真は君たちが思う以上に異質だからね」
オルガは筆を走らせながら低くつぶやく。
(実際、そんな風には見えない……ただの好青年。でも……翔真って……。まさかね……)
胸がざわつく。視界の端で、翔真の動きが際立っていた。
「この学園、何人いると思ってるのさ」
「今年で3235人です」
「流石、イリーナ!」
アイシェの笑みが一瞬、柔らかく揺れた。
「奇術師なんだよ、翔真は」
オルガが低く言う。空気が一瞬、張り詰めた。
──そして、翔真は動いた。
「さて、皆さん。茶はいかがですか?」
驚くべきことに、手元には精巧な茶器が揃えられていた。光を受けると淡く輝く、細やかに装飾された茶器。
「待って?!今どこから出したの?!」
アイシェとイリーナの目が揃って飛び出す。
「驚くのも無理はない。ちなみに茶器は俺が作った物だ」
涼しい顔で差し出す手には、隙がない。
「ふぅん。オルガって本当に器用だよね」
イリーナは茶の表面を舌で掠める。
「熱っ……!」
湯気が頬を撫で、思わず声が漏れた。
「こう見えて、意外と寂しがり屋なんだ、彼」
窓の外を見つめる翔真を、イリーナはじっと見返す。
(お礼を言いに来ただけなのに、どうしてこんなに長居してしまうんだろう……)
内心、ソワソワして落ち着かない。
「あなた達の関係はどういう関係?」
アイシェからの突然の質問。オルガが筆をピタッと止めた。
「んん……友達でありながら、君主とその部下。僕はあくまで翔馬の右脳さ」
オルガはジリジリと空気を割くような真剣な眼差しでアイシェを見つめる。
「ふぅん。……全然、分からん?!リナ、代弁して!」
「……つまり、その。仕事仲間でありながら、友達ってことでしょ?もっと言うなら、いつでもどこでも一緒の二人、ってことじゃないかしら?」
──まるで、見えない糸か何かで繋がれているようだ。寂しがり屋と何か関係があるのかもしれないが、私には関係ないか……。もしかして、カップルというのも有り得る。
「いやぁ、イリーナさん。その通りです。流石ですね。しかし、君は気づいていないかもしれないけど、君の魂波動は特に今、濃くドロドロと流れている」
翔真がイリーナを見据え、拍手をしながら、ゆっくりと立ち上がる。
「まさか!?私に!?」
「実は、私にもリナの脈が見えるんだ。見えている人は見えていると思うけどね……、ただ普通は正確な五星波動なんてのは分からないけどね。
──君さ、本当に何者……?」
アイシェの視線も翔真を捉える。
その瞳は挑戦的ではなく、確かめるような冷静さだけを帯びていた。
──緊迫感が、三人の間に波紋のように広がった。
アイシェがふと下を向く
──かと思いきや
シュバッッッ!!!
鉄定規が翔真めがけ、ナイフの軌跡で飛ぶ。
──しかし直線ではない。
空中でわずか15センチ停止し、ぐにゃりと曲がる鉄定規。まるで意思を持つ生き物のように、宙で形を変え、空間を切り裂く。
イリーナは息を詰め、目を離さず観察する。
オルガは筆を走らせながら、薄く微笑む。
──何かを悟ったかのように。
アイシェは冷や汗を浮かべつつ、状況そのものを楽しむかのように顔を上げる。
──ステップ、蹴り、ひねり。
アイシェは壁を蹴り、宙で身を翻す。
舞う鳥のような軽やかさ。冷徹な瞳に、狡猾な計算と遊び心が光る。
「まだまだ、行くわよ」
呼応するかのように、木製のキャンバススタンドが宙を斜めに飛び、画筆は刃の如く、パレットナイフは槍の如く翔真の周囲を縦横無尽に旋回。
小さな鉛筆の雨も微細な弧を描きながら迫る
──が、翔真の前でぴたりと停止。
アイシェは踊るように軽やかに動き、指先一つで軌道を微調整。空間全体を掌握し、旋律のような攻防を繰り広げる。
「ほら、これでも楽しめるでしょ?」
微笑む口元、揺らがぬ視線。
──空間を支配するその動きに、翔真も息を呑む。
鉄定規も画具の雨も、すべてはアイシェの意図した旋律の一部に過ぎなかった。
──そして、この光景は静かな戦いというのに相応しかった。
「見事」
翔真の低い声が、美術室の静寂を切り裂く。
──その瞬間、空中に止まっていたすべての道具が光を纏い縮み、跡形もなく消える。
まるで空気そのものが道具を抱き込み、吸い込んだかのようだった。
「後ろを見てご覧」
オルガの声に従い、三人が振り向く。
──そこには、空中で舞っていた道具が最初からあったかのように整然と並ぶ。
キャンバススタンドは定位置に、画筆は筆立てに、鉛筆も揃えられている。
不可能を可能にした光景に、イリーナの瞳は大きく見開かれる。
──アイシェも息を呑む。
狡猾に操った戦場は、たった一声で静止画のように戻った。
計算は、この青年には及ばなかった。が満足気な笑みを浮かべていた。
──「イリーナ、アイシェ、今日から君達は俺の絆だ」
その低く、しかし揺るがぬ声は、美術室の空気を切り裂き、三人の心に深く刻まれた。
静かな波紋のように広がった緊張は、突然の宣言によって鋭く尖り、目に見えぬ糸で結ばれるかのように、三人を新たな運命へと引き寄せていく。
イリーナの心臓は高鳴り、アイシェの瞳は微かに光る。
──翔真の存在は、もはや単なる好青年ではなかった。
この瞬間から、三人の関係は確実に、不可逆なものへと変わったのだ。