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苗字という名の烙印

「あぁ、ハーデンという名の氏族は、戸籍上この国には存在しない。

 つまり、表向きには存在していない者だということになる」


 公爵アポスは静かに言葉を置いた。


 その声音は穏やかだが、まるで静かな湖面に潜む刃のような間があった。


 翔真は紅茶を口に含み、香りを一息吸い込む。

 わざと時間を稼ぐように、カップをソーサーに戻す。


 一瞬だけ視線を落とし、そしてまっすぐに公爵を見返した。



「私は本人から農民だと伺っておりました。

 大前提として、アゼル王国自体、難民たちが築き上げてきた国家です。

 姓が変わる──あるいは消える──というのは、おかしいことではないと思うのですが」


「確かに、理屈としてはそうだ。」


 アポスは頷きながらも、その目は笑っていなかった。


「しかし、アゼル王国の難民は皇軸歴一四〇〇年、最西端の地で国を建国した。

 その記録の中に“ハーデン”という名は一度も出てこない。

 移民台帳にも、税記録にも、土地譲渡書にも、だ。」


 翔真の指先が、机を軽く叩いた。


 その音はごく小さいが、波動を含んで空気を微かに震わせた。


「……なるほど。随分とお詳しい。さすが公爵殿」


「調べるのが、我々貴族の務めだからな」


 アポスは口元に微笑を浮かべた。だが、その奥に潜む光は冷たい。


 沈黙。


 二人の間の空気が、まるで空間そのものを測っているかのように静止する。


 やがて翔真は、微かに笑ってみせた。


「公爵殿には敵いませんよ。……私には全く、彼女の素性が理解できません。

 そして──それは、彼女自身も理解していないでしょう」


 アポスの瞳がわずかに揺れる。

 探るような、あるいは測るような視線。


 翔真は紅茶の残りを飲み干し、ゆっくりとカップを伏せた。


 ───


 最後の言葉は、単なる弁明ではない。


 絆であり、左脳であるイリーナ。


 彼女自身が自分を知らないということ。

 それはつまり、翔真にとっても“未知”なのだ。


 理解できない。心当たりもない。


 だが、何かが隠されているという確信だけが、静かに胸を打った。


 夜。雪が音もなく降り積もる学園の庭園。


 吐く息が白く、視界の端でランプの光が揺れている。


 彼女を庇いたい。


 それは、感情の上では当然だ。


 ──だが、なぜ庇う、という言葉が最初に浮かんだ?


 庇うとは、罪を前提とする言葉だ。


 俺は、無意識のうちに「彼女に何かある」と確信しているのか?


 思考が雪の結晶のように静かに降り積もり、やがて一点で重なり合う。


 心の奥に沈んでいた違和感が、ようやく形をとった。


 ……あの時だ。


 イリーナの寮室。


 ランプの火が揺れていた。


 机の上に──確かに、あった。


 ──【禁書】。


 封蝋の色、紙の匂い、装丁の重さ。間違いない。

 王国でも限られた者しか触れることのできない予言の書。


 大司祭、王族、そして……神殿最奥の記録官。


 彼女が持っていた理由がわからない。

 しかも本人は、その存在すら「知らない」と言った。


 あり得ない。

 知らずに持っていられる代物じゃない。


 頭の中で、無数の線が繋がっては、ちぎれ、また絡まる。


 思考が熱を帯び、視界が滲む。


 ──もし、イリーナが彼女自身を偽っているのではなく


 そこまで考えた瞬間、脳のどこかでプツンと音がした。


「あっ……これ、アカンやつだ」


 思考の糸が切れた。


 寒気がする。


 まるで、誰かに思考の続きを読まれるのを恐れるように──。


 考え過ぎかもしれないが──

 恐らく、彼女は王族の末裔だろう。


 禁書を盗み、アゼルへ逃れた。


 北の大都、ファーデン王国。

 ファーデンとハーデン──語呂が似すぎている。

 そして“ハーデン”という姓は、北方では田中や佐藤のようなもの。

 ありふれていて、誰も気に留めない。だが──アゼルには、一つも存在しない。


 だからこそ、公爵アポスが気づいた。

「存在しない姓」は、それだけで“異邦”の匂いを放つ。


 イリーナがその事実を気にも留めていないのは、むしろ当然だ。

 異国から逃げ延びた者にとって、姓は“盾”でもあり“呪い”でもある。


 ──それに、俺も。


 姓には、ろくな思い出がない。

 誰かに与えられた烙印。


「翔真」という個人よりも、先に貼られる札。


 だから、彼女が笑いながら「姓なんてどうでもいいですよ」って言えるのが、心底羨ましかった。


 羨ましいくらい、自由だった。




 ──回想。




「それでは、自分の先祖を調べてくださいねー」


 社会の授業。

 陽だまりの差す教室で、白髪の先生がチョークを掲げた。

 まるで“先祖を掘り返す”ことが、義務でもあるかのように。


「えー、めんどくせぇ」

「だよなぁ」

「うちのばあちゃん、ウチは武士だったって」

「私は田中だから絶対農民だ〜」


 笑い声が、窓の外に吸い込まれていく。

 黒板には「系譜」「歴史」「家系」と並ぶ白い文字。


「翔真、お前の苗字、かっこいいよな」


 斎藤が尋ねた。

 いつものように、軽いノリで。


「え?そう?」


「うん。なんかさ、強そう。勝ち組って感じ」


「お静かに」

 先生が軽く咳払いをする。


 あのとき、俺は無邪気に笑っていた。



 ──放課後、河原の家に帰る。



 築六十年の木造二階建て。


 広いが、どこか寂しさの残る家だった。


 軒先には干された洗濯物と、陽に焼けた柴犬のチャップルがいた。


 両親は、俺が小学校を入学した頃に海で心中した。


 理由は、誰も教えてくれなかった。


 だから俺は、母方の祖父母とチャップルの四人で暮らしていた。


「お爺ちゃん!お爺ちゃん!」

「おぉ、どうした翔真」

「俺のご先祖様って、どんな人なの?」


 ノー天気なお爺ちゃんが、湯呑みを置いて笑った。


「んん……あぁ、えっと、えた、えた」


「えた?」


「お父さん、違いますよ。非人です」


 掛け軸の影から、おばあちゃんが静かに出てきた。


「そうだった、そうだった。まあ、あまり気にするな」


 祖父は照れくさそうに笑い、茶をすする。


 俺は「非人」という言葉の意味も分からず、

 なんか強そうだ。と思って、ノートにそのまま書き込んだ。


 当然だ、小学生コミックとギャグ番組ばかり見てる小僧に嘘がつけるはずもない。


 ──ページの隅に、鉛筆で書かれた文字。


『ご先祖様は、ひにん。強そう』


 それが、俺の最初の家系図だった。



 ──翌日の授業。



 生徒たちはまだ眠そうに目を擦りながら、黒板に書かれた文字を見つめている。


「私の御先祖は豪農です!」


 元気いっぱいに発表する生徒に、ぱちぱちと拍手が響く。


「僕の御先祖様は織田家に仕えていた武士と言っていました。これが織田木瓜です」


「すげぇ!」


 教室のあちこちで驚きの声が上がり、再び拍手が湧き起こる。


「いやぁ、織田木瓜とは凄いですね〜。じゃあ、次は翔真君、お願いします」


 翔真は少しだけ息を吸い込み、黒板を見据える。


「はい。僕の先祖は非人です!!」


 教室が一瞬、静まり返る。


「な、何それ……?」

「強そうだな……」


 視線が翔真に集まる中、彼は微笑みもせず、ただ真っ直ぐに前を見据える。


「皆さん、拍手を」


 その言葉に、何とも言えない空気が教室を包む。

 微かなざわめきと戸惑いの中、次第に生徒たちは手を叩き始めた。


 拍手は、驚きと尊敬と――そして少しの恐怖を帯びていた。


 翔真は静かに頷き、授業を進める。


 彼の声には一切の後ろめたさがなく、むしろ誇りすら感じられた。


 この瞬間、彼の個性と歴史、そして物語の核が、生徒たちの心に確実に刻まれたのだった。



 ──



 翌朝の教室は、まだ眠気の残る空気と昨日の余韻が混ざり合っていた。窓の外の冷たい光が机の角を淡く照らす。


「斎藤、昨日の漫才の件だけど…」

「何だ、田中?」

「消しゴム返してくれよ」


 軽口が飛び交う。最初はただの揶揄だと思った。だが、輪が広がるにつれて、辺りの空気が微妙に変わっていくのを俺は感じ取った。


「拓斗!」

「加奈子!」

「満!」

「涼介!」

「佐伯!」

「大隅!」

「やぐっち!」


 一人二人の呼び声が合唱になり、誰かが笑いを漏らす。目が合うたびに、視線がそこへ集まる。


 俺の胸の中で、小さな炎がじわりと育っていくのがわかった。


 違和感は確信へと変わった。


 机の下、拳が震える。腹の底から沸き立つ熱が、身体の隅々まで行き渡る。


 冷静になれと言い聞かせる間もなく、俺は立ち上がってしまった。


 力任せに机をひっくり返す。木の音が教室中に響き渡り、灰色の朝が一瞬で割れた。


「「お前ら!!!なんで俺のこと、無視すんだよ!!!《《クソ野郎》》共!!!」」


 声は自分でも驚くほど大きかった。


 普段は冗談めかしているだけのクラスメイトたちが、急に怯えたように縮こまる。


 喉の奥が焼けるような感覚。言葉が刃となって放たれる。


 一斉に静まり返る教室。誰もが息を詰め、視線を床に落とす。数秒の静寂の後、ざわめきが小さな波となって広がった。


 誰かが低く笑った。誰かが舌打ちをする。だが、その笑いはもはや自信のある笑いではなかった。揺らぎ、綻びている。


「痛っっっ……」


 投げた筆箱が教室の一角で、山田の後頭部に命中する。山田はそのまま前のめりになり、床に倒れた。


 血の気が一瞬で引いた。


 俺はそこで初めて己の行動の激しさを実感し、冷たい後悔が胸を掠める。だが感情の波は既に大きく、亀裂を入れていた。


「先生!呼んできます!!」


 誰かが声を上げ、数人の生徒が慌てて教室を飛び出す。


 廊下の扉が乱暴に閉まる音が、遠雷のように響いた。


 残された者たちの顔は、恐怖と好奇、そしてどこか後ろめたい興味で歪んでいる。


 視線が俺へ集中し、彼らの瞳が僕を測るように冷たく光った。


 胸の鼓動が早まる。


 思考は急速に整理されていった──まず山田の容体、次に教師への説明、そして、この場の収め方。


 教室の外、全て、頭の片隅で別の声が囁く。


 ――こんな形でしか、自分の存在を示せないのか、翔真。


 沈黙の中、教室は時間を取り戻すように呼吸を始める。


 壁時計の針が淡々と進み、現実がゆっくりと戻ってくる。気まずさと緊張が残る教室で、誰もが互いの距離を再計測するように席に着いた。


 その時、扉が静かに開き、担任の目が教室を一周した。


 深い静寂のあと、彼は低い声で言った。


「翔真君、事情を聞こうか」


 言葉は簡潔だが、その重みが教室全体に染み渡る。


 俺は息を整え、顔を上げた。


 怒りの余韻が冷めると、代わりに静かな覚悟が残った。


 これが結果か──。


 他人の視線、噂、軽い嘲笑が人の心を迅速に冷却する。だが、同時に何かを溶かし、新しい形を作ることもある。


 俺はその境目に立っているのだと、骨の髄で理解した。


 その後、じんわりと理解できた。


 いや、はっきり言おう。《《クソ野郎》》なのは、他でもない俺自身だと。


 血筋でも環境でもなく、根本的に、性質としてクソ野郎だと認めざるを得ない。


 所詮、《《クソ野郎》》から生まれた《《クソ野郎》》。


 言い訳も理屈も通用しない。


 あの頃、無邪気に笑っていた自分も、笑っていられたのも、単に運が良かっただけに過ぎない。


「カエルの子はカエルの子」──そう、体に染み付いた本質は、誰に似たのかではなく、俺自身にある。


 教室の空気を支配した恐怖と混乱の余韻が、俺の中で妙に腑に落ちる。


 怒り、羞恥、悔恨、すべてが一つに重なり、今の自分がどこに立っているのかを教えてくれた。


 そして思った。これが「俺」という存在のリアルだと。


 他人に向かって放つ言葉も、態度も、全部自分の反映。


 逃げても隠れても、この《《クソ野郎》》という烙印は消えやしない。

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