我は可能なり
朝の陽光が薄いカーテンを透かし、部屋の中を柔らかく照らしていた。
フロルは窓辺で髪を結びながら、いつもの軽い調子で言った。
「翔真君、絶級課程の担任になるの!」
「そうなんだ。しかも──今日から」
彼はベッドの端で靴紐を結びながら答える。
淡々としているようで、その口元にはかすかな緊張が滲んでいた。
「私はね、怪しいって噂で応募しなかったけど……まさか翔真君が担任とはね」
「怪しいって……俺、詐欺商材か何かか?」
軽口を叩くと、フロルは笑いながら肩をすくめた。
その笑いに、ほんの少しの期待が混じっているのを彼は見逃さなかった。
──そして、廊下の向こうから明るい声が響く。
「おはよー、2人とも!」
手を振りながら駆け寄ってくるアイシェ。
その動きに合わせて髪が跳ね、日差しの粒が踊る。
「翔真君、今日から絶級課程の教授やるらしいんだって」
「えっ、本当に? 私、応募したのに……!」
アイシェの目が一瞬で輝きを増した。
まるで偶然を運命と信じて疑わない子どものように。
翔真は小さく息を整え、目線を合わせて言う。
「そうだ。──今日から君は、俺の生徒だ」
空気が張り詰める。
朝の静けさが、一瞬で学園の舞台に変わった。
フロルはニヤリと笑い、アイシェは胸の前で手をぎゅっと握りしめる。
学園の門をくぐった瞬間──
空気が変わった。
ざわっ……。
生徒たちの視線が一斉に俺へと向く。まるで見世物でも見るかのように。
両隣には、フロルとアイシェ。
確かに両手に花状態ではあるが、注目の理由はそこじゃない。
──「賢者」。
今の時代、若くしてその称号を得ることは、王家の血を継ぐよりも余っ程、価値がある。
つまり、俺は今日、教師である前に時代の化け物として見られているわけだ。
……いや、落ち着け。
その見られ方、あまり嬉しくはない。
本体が微生物の俺にとってかなり差別用語だ。
「私はコレで」
フロルは軽やかに片手を上げ、別棟へと向かった。
その背中を見送りつつ、俺とアイシェは絶級課程の教室へ。
──そして、そこで目を疑った。
教室の前にできた、謎の行列。
椅子代わりに地面に座り、茶を啜る者。
寝袋を敷いて「始発待ちですか?」みたいな奴までいる。
……ここ、本当に学園か?
この光景、どう見ても地元で一番人気のラーメン屋の開店前だ。
思ってたより、はるかに多いな。
いや、多すぎる。
──脳内に響く、静かな声。
《アトラー、人数は?》
《350人ちょうどだ》
《そうか。助かる》
相変わらず、正確で早い。
さすがは俺の見えない執事。
──教室に入ると、ざわめきが爆発する。
「ほんとに本人だ!」
「マジで若い!」
「隣、アイシェ様とフロル様じゃない!?」
「賢者が直々に教鞭だってよ!」
……はいはい、落ち着け。
賢者とかいう肩書きは、便利だけど騒がしい。
俺はゆっくりと前に立ち、手を上げた。
──パチンッ。
指が鳴った瞬間、空気が凍る。
音が壁に反響して、雷鳴みたいに教室を走った。
全員の視線が、一斉に俺へ。
息を呑む音すら聞こえる。
多分、今の思ってるんだろう。
「指パッチンの音デカ……!」って。
「えぇ──ここでの目標は一つ」
俺は黒板を振り返らずに言った。
「ここにいる全員で、賢者になる。以上だ」
その瞬間、教室の空気が一変する。
ざわ……っ。
「いやいや無理だろ」
「賢者なんて、世界に五十人もいねぇぞ……?」
「あの人、正気か……?」
視線、ざわめき、失笑。
全部、想定済みだ。
──だって、この目標、今考えたからな。
前列に座っていたアイシェが、肩を震わせて笑いを堪えきれない。
「ぷっ……ふふっ。翔真君、無茶ぶりすぎるってば」
俺は笑い返さずに、静かに教壇に手を置いた。
「ここにいるほとんどの生徒諸君は、不可能だと思っただろう?」
静まり返る教室。
笑い声も、息遣いも、ぴたりと止む。
「──俺からしたら、一般人も王族も賢者も、何も変わらない」
言葉が、音としてではなく、重みとして沈む。
黒板の前に立つその姿は、まるで誰よりもこの世界の理を見通しているようだった。
「違いがあるとすれば、ひとつだけだ」
「心の持ちよう。それだけだ」
その一言で、教室の空気が再び震えた。
誰もが感じた。──この男、本気だ。
ざわめきが消え、沈黙の中に熱が走る。
誰かが小さく呟く。
「……この人、もしかして、ほんとに導く気なのか?」
翔真は、ふっと口角を上げた。
「──あと一年で、神様も驚くほどの大革新を、この世界に起こす」
教壇の上、翔真の声が静寂を切り裂いた。
その宣言は、あまりに突拍子もないのに、誰一人として笑わなかった。
笑えなかった。
何かが、始まる予感があったからだ。
一拍の沈黙の後。
ひとりの少年が、恐る恐る手を挙げる。
王族特有の紋章を胸に刻んだ高貴な服。
声には緊張と好奇が混ざっていた。
「……心の持ちよう。とは、一体どういうことですか?」
翔真は答えない。
ただ、ゆっくりと歩きながら、生徒たちを見渡す。
「──やれば、分かるさ」
そう呟いた瞬間、空気がまたひとつ変わった。
まるで、見えない力が場を支配したかのように。
翔真は黒板の前に立ち、白いチョークを手に取る。
音を立てて、五文字の言葉を書き記した。
『我は可能なり』
「さぁ──毎日、これを復唱しようか」
生徒たちは戸惑いながらも、声を揃える。
「……われは、かのう、なり?」
その響きはまだ拙く、笑い混じりだった。
だが、翔真はゆっくりと目を閉じ、指を鳴らす。
パチン。
教室の空気が一瞬で変わる。
まるで周囲の時間が、ひと呼吸だけ止まったかのように。
「──信じる。という行為が、最初の魔法だ」
翔真の瞳が、どこまでも静かに燃えていた。
──不思議だ。
この世界に魔法なんてものは無いのに、皆すんなり受け入れてくれている。
「絶の試験を受けて、ひとつだけ痛感したことがある」
翔真の声が、低く響く。
生徒たちは息を飲み、耳を傾けた。
「どんなに能力があっても、落ちる者は落ちる。
それも──決まって同じ理由だ」
黒板の前をゆっくり歩きながら、翔真は続ける。
「いつもと違う環境。
知らない顔ぶれ。
そして、襲いかかる恐怖と緊張」
彼は指を軽く鳴らした。
──パチン。
音が鋭く響き、空気が張り詰める。
「そのたったひとつの歯車のズレが──
全ての能力を無に変える」
チョークが黒板を走る。
翔真はそこに、連なる線を描いた。まるで倒れていくドミノのように。
「恐怖は、思考を止める。
思考が止まれば、体が鈍る。
体が鈍れば、判断が遅れる。
判断が遅れれば、敗北する」
翔真は振り返り、生徒たちを一人ひとり見据えた。
「──能力が消えたんじゃない。
自分で無効化したんだ」
静寂。
その言葉は、教室の空気を凍らせるほどの重みを持っていた。
「俺は何人も見てきた。
力があるのに、恐怖に飲まれて崩れていった奴らを。
落ちた者は皆──そうだった」
翔真はチョークを置き、背を向けた。
その背中には、ただの教師ではない、戦場帰りの賢者の風格があった。
「──さて、長話はこの辺にしておこうか。」
翔真は軽く伸びをし、チョークを置いた。
生徒たちはメモを取り終え、安堵の息をついた
──その時だった。
「皆にはこれから、眠ってもらう。」
「「「……はい???」」」
生徒達が目を丸くする。
次の瞬間、教室中がざわめき立った。
「ね、眠る!?」
「授業始まったばっかりだよ!?」
「やっぱり賢者って頭おかしいんじゃ──」
「静かに!」
翔真は片手を上げるだけで、場の空気を一変させた。
「心を鍛えるには、夢の領域が最も手っ取り早い。
眠って、自分の深層を覗け。
恐怖も不安も、そこにしかいないからな」
教室が一瞬静まる。
その沈黙を破ったのは、アイシェの声だった。
「ちょ、ちょっと翔真君!?まさか全員を眠らせるつもり──」
「もちろんだ」
指を鳴らす。
パチン、と乾いた音が響く。
同時に教室の空気がふっと揺らぎ、次々と生徒たちが机に突っ伏していく。
「本当に寝てる……」
アイシェが呆然と呟く。
「アイシェは必要無いね」
翔真は静かに教壇に腰掛けた。
「さぁ──絶級過程、初日だ。
まずは夢で、己の限界を知れ」




