フロルと絆
──2か月前の朝。
翔真が突然、姿を消した。
目を覚ましたときには、彼の部屋は静まり返り、ベッドの上に置かれていたのは、羽根ペンと紙切れ一枚だけ。
──「少し、行ってくる。」
それだけだった。
簡潔すぎる言葉に、フロルの胸がざわめいた。
「翔真君……?」
フロルは屋敷中を駆け巡った。
食堂にも、訓練場にも、庭にもいない。
焦燥が声を震わせる中、背後から静かな声がした。
「翔真君なら行ったよ」
振り返ると、紅の大賢者──いや、父アルデビドが立っていた。
いつものように紅のローブを翻しながら、淡々と告げる。
「何処へ行ったの……」
フロルの声は小さく震えた。
アルデビドは少し目を細め、窓の外の東の空を見上げる。
朝靄の向こう、陽が昇りかけた空に淡い光が差していた。
「東へ向かったよ」
「……東に?」
「そうだ。あの青年は、この世界の流れを見てしまった。
誰も見ようとしなかったものを、見てしまった者の目をしていた」
フロルは沈黙した。
彼が何を考え、どんな目的を持って東へ向かったのか、何も分からない。
ただ、心の奥底で理解していた。
──止めることはできない、と。
「本当に……行ってしまったのね」
風がカーテンを揺らす。
遠くで鐘の音が鳴る。
アルデビドは背を向け、ゆっくりと歩きながら言った。
「心配はいらないよ。彼は導く者だ。お前の光になる」
その言葉に、フロルは静かに頷いた。
けれど胸の奥では、どうしようもない寂しさが燻り続けていた。
──東の空の向こうで、今、君は何を見ているの?
彼女は窓辺に立ち、朝日を見上げた。
その光が、彼の進む道を照らしていることを信じながら。
──あれから、しばらくが経った。
現在、私はいつものようにアゼル王立学園に通っている。
今日はアイシェちゃんと新しくできた王都の料理店へ行く予定だ。
「フロルちゃん、お疲れ〜!」
アイシェが手を振りながら小走りをしてくる。
「アイシェちゃん、お疲れ」
私はあの時から、翔真君の事が頭から離れず、上の空だった。
「それじゃ、行こうか」
──
店はこぢんまりとしているが、壁や照明の配置まで妙に洗練されていて、どこか知的な温かさを感じる。
微かに聴こえる音楽。
どうやって流しているのかは分からないが絶対に何処かから流れている。
ふわりと漂う香草の匂い。
見慣れぬ料理名が並ぶメニュー表。
「いらっしゃいませ。お客様」
その声に顔を上げると、絹のような銀髪の美少女が一礼した。
冷たいほど整った瞳に、一瞬、場の空気が締まる。
「リナちゃん!」
「……あれ? アイシェちゃん!来てくれたの? 嬉しいな!」
「そこのハーフエルフちゃんは?」
「フロルです。イリーナさんって、もしかして……学園随一の天才って言われてる!?」
「まぁ……そう呼ばれるのは、少しおこがましいけどね。フロル・キル・ロッドちゃん、で間違いないかしら?」
「はっ、はいっ!」
(なぜ、私の本名を知っているんだろう?)
「そう。ご注文は? お金は取らないから、安心して」
イリーナがメニューを渡してくる。
どれも初めて見る料理ばかり。聞いたことのない単語すらある。
「え、いいんですか? じゃあ……このハンバーグって料理でお願いします」
「了解。──オルガ! ハンバーグひとつ、それとアイシェちゃんはヒレカツね!」
「えっ、今……オルガって言いました……?」
フロルが思わず聞き返す。
「オルガのこと、知ってるの?」
イリーナの瞳孔が開き、肩が僅かに上下に揺れる。
「そうそう、私たち幼なじみなんだ」
アイシェが気だるげに椅子にもたれ掛かる。
「そうなんです」
フロルが頷くと、イリーナは少し視線を逸らした。
「なんか……庶民生まれの私には場違いね」
イリーナが小さくため息をつく。
「そんなことないよ〜」
なだめるフロルとアイシェ。
「あ、そうそう。実はこの二人──」
アイシェがなにかを言いかけたところで、イリーナがエプロン姿で突然、手を伸ばす。
「あぁっと!!研究仲間だから……!」
イリーナの耳は真っ赤で、目がクルクルと回転しているように思えた。
わかりやすいにもほどがある。
「リナちゃん、顔真っ赤〜。かなり濃厚な研究してるのよ、この二人」
アイシェが試すようにニヤリと笑う。
「へぇぇ……」
フロルは思わず興味津々。
そのとき、厨房から声が響いた。
「はいよー、お待ちどう!」
「はっや!」
思わず三人の声が重なる。
「オルガ君、ノリノリだね。私の事、覚えてる?」
黒いコック姿のオルガはフロルをつま先から頭のてっぺん、体の隅々までじっくり目で観察する。
「わかった!!もしかしてフロルでしょ!!」
「正解!オルガは学園で会わないけど、何してるの?」
「そりゃそうさ、俺は学園に殆ど居ないからね。居るとしても精々、美術室か工房だね」
「オルガ、器用だもんね〜」
こうして──
4人はテーブルを囲み、笑いながら過ごした。
騒がしいほどに賑やかで、どこか懐かしい時間。
その笑い声が、五星と月が覗く王都に小さく溶けていった。
「いけない!もうこんな時間」
アイシェが壁にかかった、時計を見ると皆の視線も時計に集まる。
「それにしても、随分、変わった感じの良い、お店ね」
フロルが椅子にもたれ掛かりながら、朗らかな笑みを浮かべつぶやく。
「だろ?時計に限らず店の外観、内装、小物、見える部分は全て俺が作ったんだ」
「私が見えない部分。つまり数字だとか、戦略や情報だとかを担当してるんだ」
オルガとイリーナは得意げな笑みを浮かべ距離感がさらに近くなる。
──
私はアイシェちゃんと共に、同じ屋敷へ帰る。
外はひんやりとした空気。
吐いた息が白く滲み、冬の気配がもうすぐそこまで迫っていることを教えてくれる。
「あの二人、付き合ってるのかな?ところで濃厚な研究ってなに?」
(まだ、引きづってたんだ……)
「フロルちゃん、ごめん。これは、ちょっと、ここでは言えないかな」
空は黒いようで、どこか青い。
月がぼんやりと滲んでいた。
「ただいま〜」
「ただいま〜」
「アイシェ様、おかえりなさいませ。お風呂になさいますか? それともお食事を?」
玄関に出迎えたのは、長年仕える召使いのエルナだった。
「お風呂に入りに行きます」
「左様でございます。──フロル様、身支度が整い次第、アルデビド様がお呼びです」
「……父上が?」
少し驚いた。
珍しい。いつもは学園や研究で忙しく、呼ばれることはそう多くない。
──
レヴァン(ラベンダー)の香りがやわらかく漂う湯船。
温かな湯気の中で、フロルは静かに目を閉じる。
ここ数日の出来事が、頭の中で泡のように浮かんでは消えていった。
湯から上がり、雲草のタオルで髪を乾かして身支度を整えると、足早に父の部屋へ向かう。
「父上が……何の用だろう?」
「フロルちゃん、悪いことでもした?」
廊下の角で出くわしたアイシェが、にやにやしながら問いかける。
「してないわよ」
そう言いつつ、耳の先がほんのり赤くなる。
その仕草が可笑しくて、アイシェは小さく笑った。
「それじゃ、私は自分の部屋に行くね。──また明日」
「うん。また明日」
──
三度ノックをして、重厚な木製の扉を押し開ける。
部屋の中は、灯の柔らかい明かりと香の煙がゆらめいていた。
「失礼します」
「おっ、来たか」
低くも柔らかなアルデビドの声が返ってくる。
4人の影が見えた。
「久しぶりだな、フロル」
すると、キラリと緑色の宝石が散りばめられた指輪が安心の輝きを放つ。




