トラル王
謁見の間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
高い天井に反響する靴音がやけに重く響き、まるで俺の鼓動まで晒されているかのようだった。
玉座はひときわ高い段に据えられ、そこに腰掛ける男は一目で「王」とわかる存在感を放っていた。
豊かな銀髭をたくわえ、深海のように澄んだ蒼の衣をまとい、背筋を真っ直ぐに伸ばす。
その眼光は雷鳴を孕んだ海原を思わせ、地球の神話で読んだ海神ポセイドンを彷彿とさせる。
手にした金の杖は波を象る彫刻が施され、まるで海そのものを統べているようだった。
俺は反射的に背筋を正す。
圧倒される──それが正直な感想だ。
「……遠きアゼルの地より来た異邦の旅師よ」
王の声は低く響き、謁見の間全体を震わせた。
ただの言葉のはずなのに、まるで潮が満ち引きするように胸の奥を揺さぶられる。
ナイトが一歩前に出て俺を守るように立つが、俺
は静かに首を横に振った。
これは俺自身が受けるべき呼びかけだ。
大理石の床に片膝をつき、声を絞り出す。
「……お招きに預かり、光栄に存じます」
謁見が、始まった。
「……おかしい」
謁見の間へ向かう途中、ふと胸にひっかかるものがあった。
──俺、まだアゼル王にすら会っていないんだよな……?
国に仕えているわけでもなく、正式な臣下でもない俺が、こうしていきなり隣国の王の招待を受けている。
普通なら順番が逆だろう。
先にアゼルの王に呼ばれ、功績を報告し、そこから外交の橋渡しで他国に招かれる──そういう流れのはずだ。
なのに、今こうして足を運んでいるのはトラル王国の王城。
どこか胸の奥で、現実感が剥がれ落ちていくような感覚がした。
(……それだけ、リタンの件が大きかったってことか)
俺は無理やり自分を納得させる。
(……しかも俺は、公表していないだけで聖域国家マステルの王だ)
そう、アゼルの王にすら会っていないどころか、本来なら俺自身が“迎える側”の立場。
今は王座を離れ、好き勝手に旅をし、遊び呆けているだけにすぎない。
だが──だからこそ、こうして「一介の旅師」として他国の王に呼ばれるのは、どこか妙にこそばゆい。
(俺の正体を知ったら、このトラル王も一体どんな顔をするだろうな……)
内心でそんな苦笑を浮かべながら、俺は謁見の間の扉が開かれるのを待った。
俺は自然と、頭を下げていた。
……違う。これはただの礼儀ではない。
目の前に座す男の放つ重圧が、そうさせたのだ。
威圧でも恐怖でもない。
存在そのものが「王」として完成された、揺るぎない威厳。
思わず心の奥で苦笑する。
聖域国家マステルの王である俺が――だ。
王が王に頭を垂れるなど、どんな絵面だよ、と。
だが同時に理解してしまった。
俺はまだまだ経験不足で、王の指先にも触れていない。
王座を離れ遊び歩いているうちに、王であることの重みをどこか忘れていたのかもしれない。
本物の王は、ここにいる。
「翔真と申したな?この度はリタンを救ってくださり、誠に感謝する」
トラル王は堂々とした声でそう告げると、次の瞬間――その大きな身体をゆっくりと折り、深々と頭を下げた。
「……え」
俺は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
王が、頭を下げている。
本来なら、頭を垂れるのは俺の方だろう。
それなのに、世界の大国を背負う王が俺に感謝の礼を示すなんて。
「いえいえ、そんなとんでもない!こちらこそ、すいません!」
思わず口から出たのは、場違いなまでに軽い日本語の謝罪だった。
……よりによって、謝る必要もない場面で「すいません」。
日本人の悪い癖が、こんな異世界の王宮で炸裂するとは。
王の豪快な笑い声が王座の間に響き渡った。
「ダハハハ!!こりゃ見事だ。その護衛、名は?」
ナイトはきちんと背筋を伸ばし、礼儀作法を伴った口調で答える。
「はっ。ナイトでございます」
磨き上げられた甲冑の輝き、剣を扱う所作、そのすべてが単なる鉄の塊ではなく、一つの生命体としての威厳を放っていた。
トラル王の目は興味深そうにナイトを見据える。
「ナイト。面白い。ご主人とどちらが強い?」
「ご主人様であらせられます」
その声には迷いも嘘もなく、鋼鉄の信頼が宿っていた。しかし王の目は鋭く、さらに問いかける。
「なんと、じゃあ、今弾き飛ばしたのは」
「ご主人様が一瞬のうちに目で合図したので飛び出しました。私が名声を買ってくれたのでしょう」
ナイトの言葉は、完全なる嘘である。実際には、俺は何も指示していないし、名声を買ったわけでもない。
──しかし、嘘をつくその余裕と、俺の株を意図的に上げる戦略性に、思わず唸るしかなかった。
ナイトはただの護衛ではない。学習し、考え、判断し、俺を守りながら自己表現すらできる存在に変わりつつある。
冷徹な機械だった鉄の塊が、確実に生命を帯びつつあることを、王もきっと理解したのだろう。
俺は少し顔が熱くなるのを感じながら、ナイトの成長を誇らしく思った。
そして、心のどこかで――
(このやつ、完全に俺より賢くなるんじゃねぇか……)
そんな不安さえ浮かんでしまうほどだった。
王は肩を揺らして再び豪快に笑う。
「なるほど……面白い!楽しみになってきたぞ、翔真よ」
その笑い声の奥には、試す者としての好奇心と、戦士としての敬意が入り混じっていた。
「褒美を遣わす。トラル王国の永住権、王国の土地三割、王城の財宝三割をあげよう」
王の言葉は、玉座の間に集う者すべての耳を疑わせた。
ざわつきが一瞬にして広がり、家臣たちが互いに顔を見合わせる。王国の三割の土地と財宝――それは王の権威すら揺るがすほどの大盤振る舞いだ。
俺はその異様な空気に押されそうになりながら、思わず口を開いた。
「……、いや、要りません」
その場に冷風が吹いたかのように、ざわめきが止む。
家臣のひとりが「な、何を言っている……!」と声を上げ、別の者は「無礼だ!」と顔を真っ赤にした。
しかし、俺は視線をそらさずに続ける。
「俺は旅の途中の身です。土地も財宝も、この場で受け取ったところで持て余すだけ……。それに、永住権をもらうというのは、この国に縛られることを意味する。俺にじゃなくて、公共事業に寄付してやってください」
一瞬、空気が張り詰めた。だがその沈黙を破ったのは、トラル王の豪快な笑い声だった。
「ダハハハハ!!よい、よい!その心意気こそが欲しかったのだ!」
玉座に響く笑声に、家臣たちは再び息を呑む。
王はトライデントを軽く掲げ、まるで戦友に対するかのように俺を指した。
「富を望まず、名誉に溺れず、己の道を行く。貴様、ますます気に入ったぞ!翔真よ、そなたはただの来訪者ではない。我が王国における客人として、いつでも迎えよう!今日は1杯やるかー!」
王の目には、疑念も侮りもなく、純粋な敬意だけが宿っていた。
――俺はその視線に背筋を伸ばしながら、心の中で小さく呟いた。
(やっぱりこの王様、ちょっとネジぶっ飛んでるけど……悪い人じゃないな)
要らない、と言ったはずなのに、逆に得体の知れない「信頼」と「縁」を得てしまった気がした。




