空席
ヒュル、ヒュル、と。
見覚えのない白い包帯が、身体から勝手にほどけていく。
幾重にも巻かれていたものが落ちるたび、眩しい光が差し込み、自然と目を細めた。
――太陽だ。
だが、いつもの通学路やアルバイト先で見上げる灰色がかった空とは違う。
もっと澄み渡り、肌を焼くほど力強い。
「ここは……?」
口にした瞬間、周囲の景色に息を呑む。
果てしなく広がる草原。
青緑の草が光を受けて金色に瞬き、風に揺れる。
地面には、アリのようでアリではない小さな生物がせっせと青く澄んだ蝶の羽を運んでいた。
まるで世界の秩序を守っているかのように。
包帯がすべて落ちきった瞬間、世界が音を立てて開けた。
頭の奥で歓喜の電流が走る。
第一声は、思わず「よっしゃぁぁぁ!」と叫んでいた。
宝くじ一等どころではない。
血管は鼓動ごとに膨れ上がり、全身の細胞が歓喜の咆哮を上げる。
虚無に沈んでいた心は、一瞬で光に引き上げられた。
「あぁ……世界が喜んでいる」
雑音の止んだ静寂が、まるで新しい物語の始まりを告げる鐘のように胸の奥で鳴った。
「人類はこの星をゲアと名付けた」
──声
草原の向こうから響く。
誰もいないはずなのに、確かに聞こえる。
「なるほど、この星はゲア……ん?誰……誰だ!?」
──沈黙。
風が草をなぶり、草原がざわめくだけ。
「気のせいじゃないだろ!? どこに隠れてるんだ」
「黙るのはやめろ」
「すまんすまん。お主からは見えん」
「喋った!? 雑音の次はおっさんの声かよ」
「おっさんとは失礼な。私はアトラー、惑星アトラーを統べる王であり、お主の執事だ」
「執事!?」
翔真は頭を抱えた。
「いやいや、待て待て。俺は翔真、地球のただのフリーターなんだけど……この体、俺のじゃないよな?」
「その通り。この身体は元々、リリス・ウェルという名の王のもの」
「王様!?」
慌てて自分の掌を見る。小さい。骨ばっている。少年の手。
「マステル帝国の王であった」
「……あった? ってことは滅んだ?」
「あぁ。安心せよ、滅んだのは千百二十年前だ」
「全然安心できねぇよ!」
苦笑が漏れる。
見渡せば草原の先に廃墟が眠っている。
崩れた城壁、白骨のような塔、石畳の割れ目から生える草。
風が吹き、残骸を鳴らす。
まるで「ここにかつて文明があった」と囁くように。
「……本当に滅んだんだな」
「無論。お主が今立っている場所も、かつては王宮の庭園だった」
ついさっきまで、バイトで客に怒鳴られ、親に「現実を見ろ」と言われ、ぐちゃぐちゃの頭で眠りに落ちただけなのに――。
目覚めたら、滅んだ王国の王。
「皮肉にも程があるな。地球でもここでも、俺に期待してた人はみんな消えてるってことか」
「いや、期待はまだ続いている。お主がここに呼ばれたのは偶然ではない」
「呼ばれた?」
「そうだ。リリス・ウェルの魂は去った。しかし“空席”は残った。その空席に、お主が座ったのだ」
風が吹き、包帯の切れ端が草の上を転がり、やがて空へと舞い上がる。
まるで、新しい運命の幕開けを告げる合図のように。
「……空席、ね」
翔真は呟いた。
確かに、自分の人生はずっと“空席”だったのかもしれない。
大学進学の話題に入れず、就職も親の言うがまま。
心の奥では何か別のものを求めていたのに、それを形にできなかった。
耳にまとわりつく雑音も、医者にとっては「気のせい」で片付けられる存在だった。
「……俺が埋めるしかなかったってことか。リリス・ウェルの椅子を」
「その通り」アトラーの声は低く、風のざわめきに重なって響いた。
「お主は選ばれたのではない。呼ばれたのだ。欠けた席が、お主を必要とした」
翔真は掌を見下ろす。
小さく、少年というより子供に近い。
だが血管の脈動は、今、自分を「ここに生きている」と告げていた。
「じゃあ、俺は何をすれば……」
「懿徳となることだ」
「懿徳……?」
「美徳でも善意でもない、魂を揺さぶる重みだ。ゲアだけでなく、軸内に困窮する民もいる。救済するか否かはお主の自由。しかし、それは我らの切実な願いでもある」
翔真は掌を見つめた。
小さく、頼りない、戦いの経験も無い少年の手。
泥にまみれ、震える指先。
こんな手で誰かを救えるのか――胸が冷たくなる。
──沈黙。
だがその沈黙こそが答え以上に重く、胸に圧をかける。
そして、再び低音の響きが世界を震わせた。
「最後まで話を聞きたまえ。マステル王国の再建。そして、ゲアに散らばる維持石を元の場所に戻すのだ」
「維持石……?」
幻影がよぎる。
崩れ落ちる城壁、光を放つ石、途方もない大地をさまよう民。
「……分かった。とりあえず、マステル再建からやってみるよ」
不思議なことに、言葉は自然と体に馴染んだ。
「恐ろしく現実味がないけどな」
苦笑。
アトラーの声もわずかに調子を緩めた。
「安心せよ。すべては縁起で繋がっている」
温かくも冷たくもある声。
希望と不吉を同時に孕む響き。
翔真はしばらく黙り、遠い鐘の音のように残る
「縁起」という言葉を胸に刻んだ。