王都の朝
──昨夜、屋敷の応接間にて。
部屋の奥、重厚な窓から差し込む月明かりが、磨き込まれた木製の床に長い影を落としている。
壁には古びた油彩画が並び、暖炉の灰色の残滓がひんやりとした空気に静かな存在感を放つ。
家具は重厚そのもので、赤いベルベットのソファと背の高い書棚が整然と並ぶ中、微かに香る蜜蝋の匂いが空間を柔らかく包む。
「そうか……塔が現れたか」
アルデビドの声は静かに、しかし確実に応接間を満たす。横顔を月光が硬質に照らし、彼の冷徹さと沈痛さが強調される。
言葉に含まれる重みは、家具の角や床の木目にまで浸透するかのようだ。
「いやぁ、お陰様で脚一本持ってかれちゃいましたよ〜」
場の空気を一瞬にして壊す声が響く。
金髪に紫のピン留めをした男が、ソファの縁に軽やかに腰かける。左脚には厚い包帯が巻かれ、静かな月光がその傷を淡く照らす。
軽妙な笑みと対照的に、身体の一部に漂う痛みが逆説的に存在感を強めていた。
パルス・キデン。
ランドン聖騎士団第3階隊長であり、作家、実業家。
その二つ名──蒼雷のパルス──が、部屋の空気をより一層引き締める。
「しかし、よく生き残った団員全員を庇ったな。大したものだ」
ランドンの声は低く、しかし確信に満ち、部屋の壁に反響して微かに震える。
「ん?パルス君、塔に脚を持っていかれたんじゃないのか?」
アルデビドが口を挟む。
「さっき、騎士団員から話を聞いたんだが……、仲間を庇って『雷鳴の芯律』を発動させたら、脚があらぬ方向に曲がったらしい」
「ランドンさん、それ言わない約束だったのに……」
パルスの声に応接間の重みが再び戻る。家具も壁も、静かにその言葉を受け止めるかのようだ。
「……お前、カッコイイな」
アルデビドのぽつりとした声に、短い沈黙が落ち、応接間の月光と火の光が微妙に交差する。
パルスは肩をすくめ、軽く笑った。
「カッコ良さなんてものは、後付けでしかないですよ。現場はただ必死なだけでした」
その軽口の奥に、確かな重みが潜んでいる。
家具の角や暖炉の残り火、壁に飾られた絵画までが、彼の背負うものを静かに見守っているかのようだった。
仲間を、人々を、そして──「塔」に対する自分の役割を。
──
翌朝。3時52分。
まだ夜の冷気をたっぷりと含んだ空気の中、屋敷の敷地はしんと静まり返っていた。
そこに規則正しく響くのは、地面を蹴る靴音と呼吸のリズム。
アルデビドは肩を大きく回し、ゆっくりと腕立てをこなし、軽やかにジャンプを繰り返す。
ただの準備運動にすぎないのに、その姿は夜明け前の庭に舞う影のようで、見惚れるほど整っていた。
「きゃ、見て!アルデビド様よ!」
「なんて麗しいのかしら!」
「本当よね、あの動きすごくない!!」
召使いたちが窓や廊下から顔をのぞかせ、黄色い声を上げる。
だが当の本人は、淡々と動きを続けながら心中で小さくぼやいた。
(……いや、ただの軽いウォーミングアップなのだが)
その時、廊下から軽快な足音が近づいてくる。
「アルデビドさん、おはようございます」
「父上、おはよう」
揃って声をかけてきたのは娘のフロルと翔真。
アルデビドは一瞬だけ眉をひそめ、ふたりを見比べた。
「2人とも……おはよう?」
小さな間。
そして内心で苦笑する。
(いつ仲良くなったんだ、この2人……)
そう、昨夜翔真の部屋を指定したのは、他ならぬアルデビド自身だった。
すぐに気を取り直し、背筋を伸ばす。
「うん。仲が良くて宜しい」
そして小さく口角を上げると、声を張った。
「さて──3人で朝のウォーミングアップでもするか」
──
「遅いな、3人とも、俺も混ぜろ!」
重厚な重りを両足につけ、勢いよく庭を駆けてきたのはランドンだった。
鎧の隙間からは白い息が立ちのぼり、彼の豪放な声が夜明けの静けさを破る。
「おぉ、やるのか?ランドン!クソ、負けないぞ!!」
アルデビドが挑発するように笑い返す。
その瞬間、庭の中央はまるで戦場のような迫力を帯び、二人の大人が互いの背中を追い抜こうと必死に走り出した。
翔真とフロルはその様子をしばらく眺めていたが、やがて顔を見合わせて苦笑する。
走るのをやめ、庭の隅に腰を下ろす。
「……すごいね。あれ、鍛錬っていうより、ただの意地の張り合いだよね」
彼女は小さく笑い、髪を耳にかける仕草を見せた。
「仲良過ぎるよね」
翔真は軽くストレッチをしてから、肩を回しつつ言った。
「今日はこの辺にしておくか」
「そうだね……翔真君」
朝靄に包まれた横顔は、普段より少しだけ柔らかい。
「あの、今日なんだけど、一緒に王都、回らない?」
胸の奥をかすかに揺らす声。
翔真は嬉しさのあまり、思わず彼女の方を振り向いた。
「えっ、良いんですか?」
思わず声が上ずった翔真に、フロルは小さく笑ってうなずいた。
「もう、私からお願いしたんだからね。もし、断ったら怒るよ?」
冗談めかした言葉のはずなのに、その頬はほんのり赤い。
翔真は心臓の鼓動が少し早くなるのを感じながら、慌ててストレッチの手を止めた。
「じゃあ……ぜひ、お願いします」
その返事に、フロルはぱっと花が咲いたような笑みを見せた。
「見て見て、何、あれ?」
「フロル様と黒髪の男の子、可愛い!」
「えっ、なになに!」
「随分、初々しいわね」
窓の外、廊下からこっそり覗いていた召使いたちの声が、ひそひそと響く。
フロルは少し照れくさくなり、翔真も肩を震わせて笑った。
「……ちょっと、見ないでよ!!」
「だって可愛いんだもん!応援してあげたいの!」
その声に、二人の間の空気は自然と温かくなり、まるで小さな観客が見守る舞台のようだった。
──
アゼル王都の朝は、まだ薄暗い空の下で動き始めていた。
この国には労働基準法なるものは存在しない。しかし、長年の文化と混血国家としての歴史が、人々に早寝早起きの習慣を染み込ませている。
協調性を重んじる文化は、日常の細部にまで浸透しており、民衆の生活リズムや商取引、祭礼や市の活気にまで表れる。
石畳の通りには、早朝から商人や行商人が声を張り上げていた。
「新鮮なリンゴはいかが~! 今朝採れたて、甘さ保証!」
「焼きたてパンはいかが、バル銅貨5枚で朝ごはんにぴったり!」
翔真はその呼び声に思わず笑みを漏らす。
「うわ……この活気、まるで街全体が息してるみたいだ」
フロルも目を輝かせて答える。
「朝の市場は特別なの。王都では、朝早く動くことが礼儀でもあり、商売の基本。遅れると損をするわ」
二人が歩く脇を、荷車を押す行商人や、籠を抱えた果物売りが通り抜ける。呼び込みの声と掛け合いの掛け声が入り混じり、街全体にリズムが生まれていた。
「新鮮な野菜だよ~、今だけだよ~!」
「おっと、通してください!」
「バル金お忘れなく~、お支払いは早めにね!」
民衆は忙しそうに動きつつも、呼びかけには明るく応じ、短い会話を交わす。
商人の掛け声ややり取りは単なる売買ではなく、社会の調和を保つ合図のようでもあった。
翔真はふと立ち止まり、パン屋の屋台に並ぶ焼きたてのパンを覗き込む。フロルは小さく笑いながら手を引いた。
「ほら、買ってみようよ。こういう朝の楽しみも大事」
二人の視線の先で、民衆は街の秩序を保ちながら活気に満ちて動く。
荷車がぶつかりそうになれば小声で注意し合い、子供たちは軽やかに駆け回る。
新聞屋が声を張り上げると、人々は短く会釈して受け取る。
「おはようございます!今日の新聞をどうぞ!」
「一番早い情報はここに!」
翔真は街の人々の動きの中で、自分たちが溶け込んでいることを感じる。
足元の石畳の冷たさや、朝の風に混ざるパンやスパイスの匂い、遠くで鳴く鳥の声──すべてが生きていることを教えてくれた。
文化的な背景が日常のリズムに刻まれているからこそ、商人や民衆の掛け声や動きに違和感はなく、自然と二人は街に馴染む。
互いの存在を感じながら、朝の王都はただの背景ではなく、二人だけの特別な空間になっていった。




