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悪夢②

──



 草原に寝転がり、青空を仰ぐ。雲の流れが、まるで時間そのものの形を変えていくように見えた。


「お主は元々、微生物であった。つまり我々が開発した生命体の一部に過ぎなかった。しかし──お主は違った。知性があり、心もあった」


 声は風のように耳へ染み込み、どこか現実感が希薄だった。


「つまり、このリリス・ウェルの身体が“家”で、本体は微生物ってことね」


 半ば冗談のつもりで口にする。だが返答は即座に、そして冷徹だった。


「そういうことだ」


 胸の奥がざわつく。冗談では済まない響きが、体温を少しずつ奪っていく。


「人外かぁ……。これから人外生の始まりってことか」


 自嘲を込めて笑ってみるが、声が震えていた。


「ん?でも待て。なんでそうしたら微生物の時の記憶が無いんだ?」


「我々が消去した」


 無機質な答えが返ってくる。その一言に、心の奥がじわりと冷えていく。


「……記憶のゴミ箱って、どこにあるのさ」


「お主──いや、リリス・ウェルの脳だ」


 言葉が止まる。頭の中を撫でられたような、不快にも似た感覚が走った。


「えっと……、つまり」


「夢で記憶を体験できる」


「嫌だな、それも……」


 口では否定しながら、夢の中で過去を覗いてしまう自分の姿が脳裏に浮かぶ。吐き気に似た恐怖が喉の奥に残った。


「交換だ」


 声が静かに告げる。


「お主は無敵状態だ。微生物の時の力をそのまま使えるし、宇宙人とも交信が可能。我々との接触も果たせる」


 ──世界が冗談のように拡張していく。


 だが同時に、狭い檻に閉じ込められたような息苦しさも胸を締めつけた。


「寝てみるよ」


「良いのか? 今なら尋常ではない苦痛と痛みを味わうことになるぞ」


「それでも、体験してみる価値はある」


 軽い気持ち、というにはあまりにも薄情な決意で、俺は瞼を閉じた。


「お主にとっては本当の修行となるだろう」


 その声が遠ざかっていく。


 ──


 目を開けた瞬間、世界の輪郭が壊れていた。

 足が、いつもの感触が、そこにない。


 床を蹴る力も、地に立つ確かさも、手の先にあるはずの安定も、すべてが無くなっていた。


 代わりにあるのは、身体の内側から否定されるような深い空洞感だけだ。


 爪先から伝わる違和感は、時間とともに冷たい不在へと変わっていく。


 皮膚の下で何かが這うような、締め付けられるような痛み。叫びたいのに声は出ない。


 喉の奥で言葉が砕け散り、助けを求める力だけが空回りする。


 視界は断片になっていく。断片ごとに思い出されるのは、暖かかったはずの記憶の表面が次々とはがれていく感触だ。


 痛みは数値化できないほど鋭く、だが同時にその正体を突き止められない。説明の付かない灼熱と冷えが同居し、全てが意味を失う。


 意識は抜けそうで抜けない。身体が崩れていくのに、なぜか意識だけが残される。


 まるで自分が何度も何度も引き戻される実験台のようだ。結末が何度繰り返されても、終わりは来ない。


「助けて」──声にならない祈りが、口の中で砕ける。


 当然、外からの応答はなく、時間だけが容赦なく流れ、同じ景色が延々と巻き戻されるように繰り返される。


 何度も消え、何度も戻される。生き返る度に記憶の一片が焼き取られ、痛みだけが残る。存在の輪郭は薄くなり、心は擦り切れていく。


 また生きる。

 また抜け殻になる。

 また生きる。


 そのループは終わる気配を見せず、ただ一つだけ確かなのは──痛みが経験となり、経験が何か別の用途に変換されていくということだった。


 そして、いつか来るだろう移行の瞬間を待つように、俺はまた目を閉じるしかなかった。


 無限に続くような悪夢は、翔真の精神をぎりぎりまで削り取っていた。


 戻ってきたとき、身体はそこにあっても、どこか部品がひとつ抜け落ちたような虚ろさが残っている。


「どうだ? 辛かっただろ?」


 アトラーの声はいつも通り冷徹で、一本の線のように真っ直ぐに響いた。


 その口調に刺激されて、本当に痛みがあったかどうかを確かめたくなって、翔真は反射的に体を確かめる。


「あっ……え?ここは?痛くない……」


 言葉にすると不思議な軽さが返ってくる。


 夢の中の記憶は鮮烈で、映像は頭に残っている。だが、身体が実際に受けたはずの痛みは、どこか遠くに流れ去ってしまっている。


 そこに残るのは、痛みの輪郭だけがぼんやりと残された影のようなものだった。


「世間一般ではこれを呪いと言う。お主は、それが修行に変わっただけだ」


 説明の言葉は理屈としては聞こえるが、心にはまだ届かない。


 代わりに、全てがどうでもよく思えてくるような、奇妙な脱力感が胸の底で広がっていった。


「そうだったのか……不思議だ。なんか物事がどうでもよく思えてくる」


 言葉は軽く、だが内側では何かがざわついている。たとえば、明日の予定、誰かとの会話、昨日の食事――


 そういった小さな事柄が、すべて紙屑のように軽く扱われてしまう感覚。良く言えば肩の荷が下りたようでもあり、悪く言えば自分が薄くなっていくようでもある。




 ──




 月明かりが窓から差し込み、壁に浮かぶ自分の影を見つめていると、隣に座る彼女が静かに体を寄せてきた。


 全てを話したわけではない。細部は言葉にしなかったし、言葉にできないものまで抱え込んでいることも自分でも分かっている。


 でも彼女は、聞かれた以上のことを汲み取るような顔をしていた。眉間に寄るしわ、少しだけ厳しい口元の線、その奥にある優しさが見えた。


「弱いところを見せて悪いね。君に迷惑かけるつもりは――」


 言葉を切ると、彼女はためらいもなく翔真を強く抱きしめ、ふたりで布団の中に潜り込んだ。抱きしめられた瞬間、森の奥深くの花と木の匂いがふわりと押し寄せる。


 現実の匂いではなく、記憶の奥底に眠る匂いをなぞるような感触だった。胸のあたりで鼓動がゆっくり寄り添い、冷えていた体温がじわりと戻ってくる。


「──」


 彼女の声は、小さな子にかけるような温度で、しかしそれだけでは片付けられない重みがあった。


 労いの言葉を越えた、存在の確認にも等しいその言葉が、苦痛で引き裂かれかけていた心の繊維を、丁寧に撫で直していく。


 驚いたのは、それが粒子よりもずっと小さな、自分のもっと奥底へと届いたことだ。


 言葉は表面を流れ、体の底へ底へと伝播して、やがて記憶の隙間に沈んでいた何かを揺り動かした。そこにあったのは、言葉にし得ないほど小さく、でも確かな温度だった。


 翔真は目を閉じ、胸の中でそれを確かめる。冷たくて硬かった何かが、ほんのわずかに柔らかさを取り戻す。


 月明かりの縁がゆっくりと揺れる。外では遠くで夜の虫が一度だけ鳴いた。


 翔真はそのまま、彼女の腕の中で息を整えた。


 悪夢の残像は脳裏に焼き付いているが、痛みは遠くなり、代わりに何かが生まれつつあるという直感だけが確かにあった



「そう言えば、君の名前まだ聞いていなかったね」


「フロルよ。フロル・キル・ロッド」

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