悪夢①
「あなた、父上に弄ばれたわね」
落ち着き払った声音。視線は鏡に映る自分から逸らさず、冷静沈着なまなざしのまま。
翔真の胸に、冷たい水を垂らされたような感覚が広がった。
今、父上って言ったか……?
一瞬で脳裏にさっきの光景──紅の大賢者アルデビドと並んでいたフードの人物──が蘇る。
「あの、どっかで会ったことあります?」
翔真はぎこちなく口を開く。問いかけながらも、答えを予感してしまっていた。
「さっき父上の隣にいたでしょ。あれが私」
少女は何の感情も込めず、淡々と事実だけを告げる。その横顔は、夜空を閉じ込めたような紫の瞳のせいか、ひどく幻想的に見えた。
「ふぅん。そうなんだ……」
どう返すべきか分からず、曖昧な相槌しか出てこない。内心では警戒と好奇心がぐるぐると渦巻き、落ち着きを保つのに必死だった。
すると少女は、ふいに鏡から翔真へと振り返った。口元には微笑みとも無表情ともつかぬわずかな動きがある。
「おいでよ。黒髪君。この箱へやの中に私一人は、なんだか寂しいな」
広い部屋の静けさが、彼女の言葉をさらに重くする。
誘いなのか、試しなのか。
翔真の胸に不安と期待が同時に湧き上がり、足先が自然と前に出そうになるのを、必死で堪えた。
「分かった。でもさ、とりあえず、上着着た方がいいよ。ここで何言われても説得力にかけるからさ」
翔真は出来るだけ視線を逸らそうとする。だが意識すればするほど、逆にそこへ吸い寄せられる。
髪を結いかけたままの彼女の姿は、妙に生活感があって、同時に神秘的で。人間らしさと異質さが混じり合い、直視するには眩しすぎる。
理屈では「見てはいけない」と分かっているのに、心の奥で何かが勝手に惹かれてしまう。
「上着よりもあなたの視線の方がよっぽど無防備よ。しかも、ちゃっかり入ってきてるし」
言葉は淡々としているのに、その瞳はじっとこちらを射抜いてくる。
まるで逃げ道を塞ぐかのように。扉を閉めたのは俺だけど。
すぐに乾いた笑みで誤魔化すしかなかった。
「俺は紳士だからね」
口をついて出たのは軽口だった。
本当は落ち着いた態度を装うための方便に過ぎない。
彼女の目は、悪戯っ子のように「バレてるぞ」と囁いている。
「それ紳士って言わないから」
小さく呆れたように吐き捨てる彼女。翔真はその微妙な揺らぎを聞き逃さなかった。
──
二人は並んでベッドに腰を下ろしていた。距離はわずか数十センチ。けれど、その間に漂う空気は、どんな廊下よりも長く、深く感じられた。
──心の中。
「あの、アトラー様、何か話題はありますか?」
「お主は本当にヘタレだな。だが、人は他人の話を好む。オルガについて触れてみるがよい」
「……ありがとう」
頼る自分に呆れつつも、翔真は軽く息を吐いた。
「知り合いに芸術家が居てね。絶対、君をモデルにしたいって騒ぐよ」
唐突に言葉を放ちながらも、すぐに心臓が跳ねる。
なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、隣に座る彼女の横顔が、どうしても「作品」として頭に浮かんでしまったのだ。
光を纏う金糸の髪、夜の深みを湛えた紫の瞳。その存在感は、誰かの筆で永遠に刻まれるべきものだった。
「その知り合いは?」
短い問い。けれど、そこには明らかな興味が含まれていた。翔真は少し肩をすくめ、自然体を装いながら口を開く。
「オルガって知ってる?」
その名を出した瞬間、彼女の表情がぱっと変わる。紫がかった瞳が驚きに見開かれ、呼吸さえ浅くなるほどの反応だった。
「オルガ?オルガって、あの……貴方と同じ黒髪の?!てことは……アイシェちゃんも知ってるの?!」
食い入るような眼差し。思わず前のめりになる仕草。彼女の声には、長い間会いたかった人の名前をようやく耳にしたような熱がこもっていた。
翔真の胸に妙な感覚が広がる。
「やっぱり知ってたか」──その確信と共に、自分の歩んできた道と、彼女の歩んできた道が思いがけぬところで交わる奇妙さ。
まるで見えない糸が舞台裏で結ばれていたような、不思議な縁を感じずにはいられなかった。
「そうそう。ていうか仲間なんだ、俺たち」
努めて軽く答える。だが、心の奥では小さな高鳴りが続いていた。
「ちなみにアイツらなら、今は修行の旅に出てるよ」
その一言に、彼女はふっと表情を緩める。
ほんの小さな笑み。
けれど、その目には夜空の星を凌ぐほどの輝きに映った。
「修行ね……。て言うか、もう夜遅いけど、あなたは寝ないの?」
彼女の問いは軽やかに響いた。
だが、翔真の胸の奥では、その一言が妙に重く沈んで聞こえる。
寝る──その当たり前の行為が、いまの自分にとっては最も遠いものだから。
「悪夢を見る呪いにかけられてね。寝られないんだよ」
笑いに変えてしまおうとしたが、その声は冗談めいて響くどころか、むしろ静かな告白のように夜に溶けた。
「ふーん。年頃って奴か」
彼女は軽く受け止める。その無邪気さに救われる反面、胸の奥の痛みが逆に浮き彫りになる。
「どれどれ、顔見せてみ」
彼女が身を寄せる。
距離はほんの数ミリ。吐息が頬にかかるほどの近さ。翔真は反射的に目を逸らそうとしたが、その前に彼女の瞳と真正面からぶつかった。
──その瞬間、彼女の動きが止まる。
驚きが走ったのが分かった。瞳孔がが一瞬大きく開かれ、呼吸が微かに震え、唇がわずかに固まる。
「え……」と声にならない声を吐きそうになったが、すぐに飲み込む。
翔真の表情は、まるで戦地に立つ騎士が死の覚悟を宿した時の絶望の表情。
外の風が窓をわずかに揺らす音だけが聞こえる。
彼女は一瞬、何かを言いかけて、唇を閉じた。驚きが過ぎ去ったあとに残ったのは、複雑な色の表情。
戸惑い、同情、あるいは確信。
「……ごめん」
思わず彼女が言葉をこぼす。何に対して謝っているのか、自分でも分からない。
しかし、刺激してはいけないナニカに刺激してしまったような、そんな感覚だけが身体中を駆け巡る。
翔真は目を逸らすことなく、ほんの少しだけ首を振った。
「……俺こそごめん」
ただ、見られてしまった「弱さ」そのものに対しての謝罪だった。
その声音は驚くほど静かで、しかし確かに翔真の
深淵から滲み出ていた。
互いに理由の分からない謝罪を交わす。
傍から見れば、かなり奇妙なやり取りだ。
彼女の声が、夜気に溶けるように響いた。
「あなたは……一体、何を見てきたの?」
その問いは、ただの好奇心ではなかった。目の奥で揺れる光が、恐れと憐れみと、そして理解への渇望を滲ませていた。
俺は答えられなかった。
答える言葉を探そうとすればするほど、心の奥底に沈殿しているものが顔を覗かせ、言葉にすれば壊れてしまう予感だけが強まる。
今流れている沈黙は拷問のようなものではなく、互いの距離を埋めるための時間のようにも思えた。
息が詰まりそうになるのを、必死に堪えながら
──ただ、彼女の瞳を見返していた。




