9.二つのイヤリング
貸し切りにした学園の談話室は、午後のやわらかな日差しに包まれていた。大きな窓から差し込む光が、磨き上げられた床に金色の模様を描いている。
中央に置かれたマホガニーのテーブルを挟んで、アランとロザリア様が向かい合って座っている。二人の間には、私が用意したティーセットが置かれ、紅茶の香りがかすかに漂っていた。
エスコートの件を言い放ったアランは、落ち着きなく指で膝を叩いている。ロザリア様は白い陶器のカップを手に取り、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。そして一言だけ告げる。
「かしこまりました」
「なっ……!」
「ご用件はそれだけですか?」
ロザリア様は淡々とした口調で言い放つ。
アランの顔はみるみるうちに真っ赤に染まり、体全体を小刻みに震わせた。あの様子だと、ロザリア様から理由を求める声や、考え直すよう懇願の言葉が出ると思っていたのだろう。期待が完全に外れたことへの屈辱が、全身からあふれ出ていた。
彼は歯を食いしばり、拳を握りしめて怒りを抑えた。そして懐から小さな皮張りの箱を取り出すと、乱暴にテーブルの上に置いた。
「こちらは?」
「エスコートができないからな。せめてもの詫びだ」
「そうですか」
素っ気ない返答に、アランは顔を歪ませた。椅子を蹴るように立ち上がり、大股で歩いて談話室を後にする。廊下に消えていく足音が、彼の怒りを物語っていた。
嵐が過ぎ去ったあとのような静寂の中、ロザリア様は口を開いた。
「ソレイユ」
「はい」
「それ、開けて」
ロザリア様の指示に従い、アランが置いていった革張りの小箱を手に取った。留め具を外して蓋を開けると、深紅のベルベットの上に、一対のルビーのイヤリングが収められていた。燃えるような赤が、窓から入る光を受けてきらりと煌めく。
「一応、私の瞳に合わせて買ったのでしょうね。そこの気遣いはできたようでよかったわ」
「……ロザリア様」
「どうせランシェ家の令嬢にはエメラルドの宝石を贈るのでしょうけど」
先ほどまでロザリア様を睨みつけていた、アランの翡翠のような双瞼を思い出す。
ちょうどその時、開け放たれた窓から風が吹き込んできた。ロザリア様の紫色の髪が風に揺れる。
髪が撫でるその横顔があまりにも寂しげで、胸が締め付けられる。こんなに美しく、努力家で、誇り高い婚約者を惨めな気持ちにさせるアランが、心の底から許せなかった。
*
学園が休みの日、ロザリア様はダミアンから招かれ、ポルーノの町を訪れていた。
馬車から降りると、海から反射する光に思わず目を細めた。眼前には青くきらめく海が広がり、海風が肌を撫でた。港には帆船が並び、カモメたちが頭上を楽しそうに飛んでいる。
牧歌的な風景を眺めていると、聞き慣れた声が名を呼んだ。
「ロザリア様!」
ダミアンが屋敷から出てきて、興奮おさまらない顔で駆け寄ってくる。いつもの落ち着いた表情ではなく、無邪気な子どものようだ。
そんな姿を見るのは初めてだったからか、ロザリア様も目を丸くしている。
「どうされたのですか?」
「あぁ、すみません。どうぞ中に」
紳士らしく振る舞おうとしているが、興奮は隠しきれていない。首を軽く傾げるロザリア様の背中を、促すようにして屋敷の中へ導いた。
屋敷の奥、いつもの貴賓室へと案内される。深い色合いのソファーに腰をおろすと、すぐさま一枚の書類を差し出した。ロザリア様が文字を追いかけ、赤い瞳が驚きに染まった。
「ポルーノで真珠が見つかった……!?」
「えぇ、そうなんです! 調査したところ、艶も大きさも申し分ないそうです」
ダミアンは高揚を声に滲ませながら説明する。
私は真珠が見つかる展開を知っていたとはいえ、想像よりも時期が早いと驚いていた。原作だと半年はあとじゃなかっただろうか。
「正式に公表すれば、エルフェリア国の新たな特産品として認められるでしょう」
「そんな重要な情報を、私に明かしてしまってよろしいのですか?」
「えぇ。むしろロザリア様にこそ最初に伝えたかったのです」
ダミアンの言葉の真意がつかめなかったのか、ロザリア様は首を傾げた。
彼は椅子から身を乗り出し、まっすぐに彼女の瞳を見据えた。
「これは提案なのですが、ヴァレンティーノ家と独占契約を結びたいのです」
ロザリア様の瞳が大きく開かれる。少しの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「よろしいのですか? 王家に恩を売るという手もあると思いますが」
「構いません。ここで真珠が見つかったのも、ロザリア様がポルーノの魚を選んでくださったからです。取引が決まって以来、港で働く漁師たちも張り切るようになり……きっとそれが真珠の発見に繋がったのですから」
原作より早い時期に見つかったのはそれが要因かと納得する。
ロザリア様の決断が漁師の士気を高め、真珠という成果を引き寄せたのだろう。
同時に、信じられないような会話が目の前で進行していて、私は固唾を呑んだ。
(真珠の独占権って、とんでもないことでは……!?)
もし真珠の独占権をヴァレンティーノ家が手にすることになれば、その影響力は計り知れない。
真珠は世界各国で需要が高い宝飾品だが、天然ものが採れる地域は限られている。各国の貴族たちが血眼になって欲しがる「富の象徴」だからだ。
原作でダミアンは王家と取引契約を結ぶが、独占まではさせなかったはずだ。
彼は鞄から書類を取り出し、テーブルの上に広げた。どの書類にも事細かに文字が書いてある。
「密漁防止の対策や、港での警備強化、そして真珠の価格調整案などはすべてこちらにまとめています」
ロザリア様は書類を手に取り、数枚めくったあと、ふと目をあげた。
「ここまで、すでにご準備を?」
「自分ができるのは、せいぜいここまでですから」
ダミアンは淡く笑い、言葉を続けた。
「真珠の価値をどう高めていくかは、きっとロザリア様の方がずっとお上手でしょう。ですからこの先は託したいのです」
その声には、誇張も媚びもなかった。ひたむきな信頼が、静かに滲んでいるだけだった。
ロザリア様の赤い瞳が見開かれ、わずかに潤み、窓から入る光できらりと光った。
そのまま胸元に手を添え、心に何かを刻むように深く息をする。
そして覚悟を決めたような眼差しで、ダミアンを見据え、静かに微笑んだ。
「必ずご期待に沿える結果をお持ちしますわ」
「はい、期待しています」
ダミアンはどこか照れたように、けれどまっすぐな気持ちを隠すことなく、やわらかく微笑んだ。
私はというと──その尊さに耐えきれず、心の中で両手を合わせて拝んでいた。
尊い。ダミロザあまりにも尊い……!
するとダミアンはソファー脇に置いた鞄へと手を伸ばし、紺色の小箱を取り出した。小箱を開けたそこには、月を閉じ込めたかのように艶めく、大粒の真珠のイヤリングが収められていた。
「最近採れた中で、最も上質なものを選び、加工しました。もしよろしければ、ロザリア様に受け取っていただけたらと」
ロザリア様は小箱を受け取ると、中のイヤリングを見つめた。大粒の真珠が、午後の光を受けて静かに輝いている。ロザリア様はその輝きに見入ったまま、まるで時が止まったかのように動かなくなった。
戸惑い、喜び、驚き──あまりにも多くの感情が押し寄せて、言葉にできない。それらすべてが絡み合い、涙にも言葉にもならず留まっているようだった。けれど彼女のわずかに開いた唇と、浅くなった呼吸から、確かに心が動かされたことが伝わってくる。
やがてロザリア様はゆっくりと顔を上げ、私の名を呼んだ。
「ソレイユ」
「はい」
「つけてくれる?」
彼女の命令に驚きつつ、私はすぐに動いた。ロザリア様の耳元に手を伸ばし、今つけている翡翠のイヤリングを外す。それから小箱の真珠のイヤリングを手に取り、そっと付け替えた。
「どうでしょう?」
ロザリア様は紫の髪をかき上げて、耳元のイヤリングを見せるように首を傾けた。純白の真珠が、窓からの光を受けて上品に煌めいている。
ダミアンの瞳が一瞬大きく見開かれ、息を呑むような表情を見せた。すぐに我に返ると、温かい微笑みに変わり、「とてもよくお似合いです」と優しい声で答えた。