7.ダミロザしか勝たん!
ある朝、穏やかな朝の雰囲気が、突然の来訪者によって一変した。メイドから人物の名前を告げられた瞬間、ロザリア様の表情が目に見えて曇る。
「今すぐ準備して」
命じられた通りに、私は急いで準備に取りかかった。紺色のドレスに着替え、髪を整えたロザリア様は、早足で貴賓室へと向かった。
扉を開けると、不機嫌そうな顔で足を組むアランがいた。ソファに深く腰掛け、苛立ちを隠すこともなく待っていた。まるで自分が待たされたことが不満と言わんばかりの態度である。
「アラン様、ご機嫌よう……何か急ぎの用でしたか?」
「婚約者に会いに来るのに理由がいるのか?」
その言葉で私の額に青筋が浮かび上がった。腹立たしさで拳を握りしめる。
夏季休暇に入る前日、馬車での言い争いをして以来、ロザリア様とアランは一度も顔を合わせていなかった。彼から手紙が来ることもなく、てっきりフィローレと仲良くやっているのだろうと思っていたのに。
(いきなり来ておいて、その態度は何なのよ!)
私が内心煮えたぎっているのと裏腹に、ロザリア様は涼しい顔をしていた。アランの向かいに腰を下ろし、まっすぐ彼を見据える。
アランは表情一つ変えないロザリア様に苛立ちを募らせ、不満を滲ませながら口を開いた。
「一通も僕に手紙を出さなかったな」
「え?」
「長期休暇のたびに『会いたい』と手紙を送りつけてきただろう。会えば毎回、『アラン様と会う日だけが唯一の楽しみです』『もっと私に会ってください』と言っていたじゃないか」
その瞬間、ロザリア様の耳の先が真っ赤に染まっていく。
照れているのではない。侍女やメイドの前で「男に縋っていた哀れな女」のように語られた屈辱に怒っているのだ。
アランの失礼な発言は続く。
「どうせお前は級友にも会わず、家庭教師と閉じこもっているのだろう? たまには息抜きが必要かと思って、わざわざ来てやったんだ」
(は、はぁ~~~~~~~~!??!!!?)
私は脳内で鉄パイプを振り回し、アランをボコボコにする妄想をして必死に怒りを押し殺した。
「花キミ」で絶大な人気を誇っていたアラン・グランセール。眩いほどの美貌と優雅な立ち振る舞い、そして知的で優しい完璧なヒーロー。まさか正体がこんな自己中心的な男だったとは。騙されていたという怒りが全身を駆け巡る。
すると、ロザリア様は嘲笑を浮かべた。軽蔑と皮肉を交えた、冷ややかな笑みだった。
「いえ、今は別件のおかげで、毎日楽しく過ごしていますの」
「別件?」
「お手紙を出さなかったのも、そちらの件に夢中で、アラン様の存在を忘れていたからです」
今度はアランの顔が真っ赤に染まる番だった。プライドを傷つけられた悔しさからか、憎々しげにロザリア様を睨む。そして我慢できずに問い詰めた。
「その件とは何なんだ!?」
ロザリア様は唇に微笑を象って、人差し指をそっと添えた。見ているだけで立ちくらみしそうなほど妖艶な笑みだった。
「秘密です」
アランの顔から血の気が引き、真っ白になった。赤くなったり白くなったり忙しい人だ。
彼は勢いよく立ち上がると「失礼する!」と叫んで退出しようとする。しかし扉の前で立ち止まり、彼女の方を振り向くことなく吐き捨てた。
「僕の知らないところで君が好き勝手やってるなら、僕もそうさせてもらう」
アランはそのまま扉を乱暴に開けて退出した。怒りに任せて歩く靴音が廊下に響き渡り、やがて遠くへ消えていく。
音が消えたのを確認すると、ロザリア様はようやく体の力を抜いた。ソファーの背もたれに深く身を預け、大きく息を吐き出す。
「疲れたわ」
「……温かいお茶をお持ちします」
ロザリア様に心底同情しながら言う。
私がカップにお茶を注いでいるとき、ロザリア様は独り言のように言った。
「昔はあんな人じゃなかったわ……」
「え?」
「アラン様のことよ。熱くなりやすい性格ではあったけど、誰かを傷つけるようなことはしなかった。思いやりがあって、物事を広く見渡せる、尊敬できる人だったの」
ロザリア様は天井を仰ぎながらぼそりと呟く。
「すべて変わったのはあの転入生が来てから……」
その言葉を聞いた瞬間、私は背中がふるりと震えた。理由は分からない。ただ何か不吉なものが這い上がってくるような、言いようのない恐怖を感じたのだ。
桃色の髪を持つ天真爛漫なヒロイン──フィローレ・ランシェを思い出す。彼女の吸い込まれそうな水色の瞳が今は何故か酷く恐ろしかった。
*
それからロザリア様の事業は着実に進んでいたが、表情が曇る日も明らかに増えていた。
アランが押しかけてくる前は、生き生きと働いていたロザリア様。あの男の心ない言葉が、ロザリア様の心に影を落としているかと思うと、やりきれない気持ちでいっぱいになる。
(なーにーがー「僕の知らないところで君が好き勝手やってるなら、僕もそうさせてもらう」よ!? ロザリア様がやっているのは立派な事業よ! アンタがやっているのは浮気! 天と地の差があるでしょーが!!)
海に向かって叫び散らしてやりたいが、万が一聞かれたら王家への反逆罪で打ち首になってしまう。怒りを発散することもできず、もやもやとしたわだかまりを抱えながら毎日を過ごしていた。
侍女である私でさえ、これほどの怒りを抱いているのだ。
ロザリア様は私の何倍もの怒りと悲しみを心の奥底に押し込めているに違いない。その苦しみを想像すると、胸が押しつぶされそうになる。
(いっそアランへの想いを捨てれば……)
そこまで考えて、私は首を横に振った。
幼少期から婚約者だった二人だ。幼い頃から将来を約束され、共に時を重ねてきた。そんな長い絆を完全に断ち切るのは難しいだろう。
それにロザリア様の呟きも引っかかる。
原作のアランは、正義感が強く、優しいヒーローだった。それなのに今の彼は身勝手に欲望のまま動いているようにしか見えない。私がこの世界に介入したとはいえ、人の性格がここまで変わるものなのだろうか。
思案に耽りながらも、手は動かし続ける。ティーポットを持ち上げ、空のカップに紅茶を注いでいると、ダミアンの声が響いた。
「ロザリア様? どこか気分でも悪いのですか?」
「……いえ、大丈夫ですわ」
時々上の空になるロザリア様に、ダミアンが不安そうな眼差しを向ける。ロザリア様は誤魔化すようにカップに口づけた。
今日はポルーノからカゼッタへの魚を仕入れてから、初めての報告会だ。
報告によれば、魚の品質は上々で、味も申し分ないとのことだった。客からの反応もよく、リピーターも増えているらしい。
「何かありましたか?」
「いえ……」
「そうですか……」
ダミアンは何も言えずに押し黙ってしまう。ロザリア様は人に頼ることが極端に苦手だと彼も分かっているのだろう。
ダミアンはあくまでビジネスパートナーだ。公爵令嬢というプライドもある中で、ロザリア様が彼に弱みを見せることはないだろう。そう分かっていても、もどかしい気持ちになる。
しばしの沈黙のあと、ダミアンは再び口を開いた。先ほどとは打って変わって、明るく弾んだ声で提案する。
「もしよろしければこの後『カゼッタ』へ行ってみませんか?」
「カゼッタへ?」
「えぇ。客の反応を肌で感じられますし、『カゼッタ』がさらに発展するヒントが得られるかもしれませんよ」
(ダ、ダミアン……!)
彼の気遣いに目頭が熱くなる。
無理にロザリア様から悩みを聞き出すのではなく、さりげなく励ます方法を選ぶなんて。さらに仕事の一環として誘うことで、ロザリア様が受け入れやすいようにしたのだろう。
あの浮気野郎(注:アラン)とは包容力がまるで違う。人としての器の差が歴然としている。
彼女は少し悩む素振りを見せたが、ダミアンの思いやりが、ロザリア様の心に届いたのかもしれない。最終的には「分かりました」と頷いた。
その時、私は気づいた。
(もしかしてこの展開、私が百回は妄想した「平民服デート」では!?!!!?)




