13.白い世界、ただ一つの赤
ダミアン視点です。
広大な庭をぼんやりと歩いていると、指先の感覚がじんと薄れていく。そこでようやく、雪が降っていることに気づいた。
屋敷へ戻る気にはなれず、雪を被り始めたベンチに腰を下ろした。
サンベルク家の別荘は高台に建てられており、眼下には森が広がっている。終わりがあるのか分からないほど、どこまでも続く木々の海。
雪が静かに舞い落ち、景色を少しずつ白く染めていく。その様子を見ているとふと、母の姿が蘇った。
湖のほとり、ツバの広い帽子を押さえながら手を伸ばす母。
「ダミアン、こっちよ」
ここには昔から、避暑地として何度も来ていた。
母と父、セドリックと一緒に湖へ出かけたこともある。楽しげな会話と、穏やかな時間。傍目から見れば、幸福な家族の姿そのものだっただろう。
しかし、その輪の中にジュールはいなかった。
彼はいつも、サンベルク家の屋敷に残された。家庭教師と共に、まるで罰を受けるかのように閉じ込められていた。
「出来損ないのあの子に、来る資格なんてないわ」
母は、当然のように言った。胸のどこかがちくりと痛む。
本当はあまりここには来たくなかった。仕事だから仕方ないと割り切っても、幼少期に受けた傷は、忘れた頃に思い出したように疼く。
「ダミアン、あなたは本当に良い子ね」
それが、母親の口癖だった。
認められている。愛されている。母がそう言ってくれることが嬉くて、胸が弾んだ。
──でも、いつからだろう。
その言葉が、呪いのように感じるようになったのは。
一番はじめに思い出すのは、五歳の頃。
家族全員で晩餐を囲んでいた夜のことだった。
食事中、ジュールがフォークを落とした。カランと、軽い音が食堂に響く。
次の瞬間、優しい母が豹変した。
「この……出来損ないが!」
怒声と共に、ジュールの頬が打たれる。彼の小さな体が揺れ、髪を掴まれて無理やり顔を上げられた。
心臓が嫌な音をたて、呼吸が浅くなる。母親が悲鳴のように叫んでいる間も、父親とセドリックは平然と食事を続けていた。まるで目の前の異変が存在しないかのように。
母は床に落ちたフォークを、何の迷いもなく掴んだ。そのままジュールに向かって振り上げる。
自分は反射的に叫んでいた。
「お母様!」
母は動きを止め、こちらを見た。
「ぼ、僕……お、お母様とジュース飲みたい」
震える声で言うと、母親は一瞬で表情を変え、にっこりと微笑んだ。
そのままジュールを勢いよく突き飛ばす。彼は地面に倒れ込み、激しく咳き込んだ。
母はそんな彼に一瞥もせず、私のもとへやってきた。自分の背中を押しながら、優しい口調で言う。
「行きましょう」
それから母は、自分の部屋を『居場所』にし始めた。
焼き菓子とジュースを携え、毎日のようにやってくる。
語られるのは、終わりのない悪意だった。話題のほとんどはジュールへの罵倒で、時々、実家や父への積怨が混じった。セドリックの話は一度もしなかった。
そして最後に、必ず言うのだ。
「かわいい、かわいい……私だけのダミアン」
頭を抱きしめられ、逃げ場のない温もりに目を閉じた。
自分が十歳になる頃、父とセドリックは母を隠す選択をした。
母は「療養中」ということになり、屋敷の奥でひっそりと暮らすことになった。
逃げ場を失った分だけ、母から自分への執着は、より濃く、より深くなっていった。
それから三年後のことだった。
ジュールからもらった指輪を眺めているうちに、うたた寝してしまった。目を覚ました瞬間、鬼のような形相の母が視界に入る。全身の血の気が、一気に引いた。
次の瞬間、頬にすさまじい痛みが走った。
「こんなくだらないものを」
「ずっと私を裏切っていたのね」
「どこに隠していたの」
何時間も罵倒を浴び続けた。意識が朦朧としてくる。時間の感覚はなくなり、思考が切れ切れになり──そして自分は、話してしまった。
母がジュールの引き出しから、たくさんの金細工を見つけ出した。金属が転がる甲高い音が響く。その音が耳に届くたび、自分の心にも亀裂が入るようだった。
そして一週間後、屋敷からジュールが姿を消した。
「ジュール様の行方は、いまだ分からないままです」
執事がジュール捜索の結果を伝えたが、父親は新聞から目を上げることすらしなかった。
母もまた、何事もなかったように食事を続けている。カトラリーの音だけが、食堂に虚しく響いていた。
自分は何も言えず、膝の上で拳を握り締めた。
思考の海に沈んでいると、ふと目の前に人の気配がした。
顔をあげて、予想外の人物に目を見開く。
そこに立っていたのは、ロザリア様だった。
雪はいつの間にか激しさを増し、白い粒が視界を埋めている。その中で、彼女の赤い瞳だけがまっすぐこちらを見つめていた。
「ロザ、リア様……」
「ご機嫌よう」
言葉を失いながらも、問いかける。
「なぜ、来たのですか」
兄に責められても、自分は何一つ言い返せなかった。彼女を守ることも出来ず、沈黙を選んだ。
こんな情けない男のところには、もう来ないだろうと思っていたのに。
ロザリア様は答える代わりに、コートのポケットへ手を伸ばした。
取り出したのは、一つのブローチだった。
女性の横顔が大理石で彫られ、耳元には小さな真珠が添えられている。技術の高さに、思わず見入ってしまう。
すると彼女は驚くべきことを言った。
「ジュール様の作品です」
その一言に、ばっと顔をあげた。
「なぜ……」という疑問が、雪と共に溶けた。
ジュールは十五年前、サンベルク家の屋敷を飛び出した。そのまま行方不明になり、家は一週間で捜索を打ち切っていた。
しかし自分は諦めきれず、個人的に探し続けていたのだ。
(どれほど探しても見つけられなかったのに、なぜロザリア様が……)
その時、脳裏に浮かんだのはソレイユの顔だった。
ヴァレンティーノ家が、寂れたポルーノに目をつけたこと。
紙袋にブランドロゴを描くという、誰も思いつかなかった発想。
時折、まるで神に導かれるような先見の明を見せる侍女。彼女が関わっているのだと考えると、妙に納得がいった。
ブローチに視線を落とし、彫刻の輪郭をなぞる。
「素敵な作品ですね」
「それを『ルストレア』の新作に考えています」
「あぁ、それは……」
「良いですね」と言う言葉が、出てこなかった。
先ほどまで巡っていた思考が、喉の奥で言葉を押しとどめているようだ。
──考えろ、ダミアン。どちらがロザリアのためになる?
ふと、兄の言葉が浮かんだ。
答えは明白だった。
セドリックは、サンベルク公爵家の当主だ。その名と権力は、彼女を一気に高みへ押し上げるだろう。自分が関わるより、速く、確実に。
急に黙ってしまった自分を責めることなく、ロザリア様はただこちらを見ていた。
その視線に耐えきれず、唇に力を入れて、どうにか微笑みを作る。
「新商品の話をするため、ここまで?」
「いえ……」
ロザリア様は一瞬だけ目を伏せる。
迷いを振り払うように、もう一度顔を上げた。
「ダミアン様のことを知りたくて、ここまで来ました」
予想もしなかった答えに、思わず息を呑んでしまう。
浮かんだのは、ノワールでの夜だった。
「前の奥様とはどのような関係だったのですか」
ロザリア様は、そう静かに尋ねた。
それまで、彼女と交わしてきた会話はすべて仕事に関するものだった。私生活に踏み込むような話題は、一度もなかった。
音にならない声が、喉の奥で詰まった。
(何と、答えれば良いのだろう)
マリエッタとの離婚は、あまり良い理由ではなかった。
説明すればするほど見苦しくなる気がして、口が重くなる。
思い出すのは、長期出張から戻ったときのことだった。マリエッタは険しい表情で、感情を剥き出しにして問い詰めてきた。
「『毎晩違う男を連れ歩いている』とか『ふしだらな女』とか、ひどい噂が流れているの! どうして!?」
理由が全く分からなかった。調べた結果、母の仕業だと分かった。
「あの子はね、ダミアンがいながら不貞を働いていたのよ。罰を受けるべきだわ」
母は何の躊躇もなく、そう言った。
せめて謝罪をしようと、マリエッタのもとへ向かった。だが、彼女は自分の言葉に耳を傾けなかった。
「ひどい、ひどいわ」
「貴方がどうせ裏切ったのでしょう」
「ずっと、騙していたのね」
既視感のある言葉を、終わりなく繰り返す。
最後に、彼女は吐き捨てるように言った。
「ずっと思っていたわ。あなたには自分の意志がない」
「……」
「ただ私の望みを叶えれば、それで十分だと思っている」
マリエッタは一瞬の間を置き、言い放つ。
「とても傲慢だわ」
彼女は涙に濡れた瞳で、きっと睨みつけた。
他人の言葉を受け流すことには慣れているつもりだった。
だが彼女の言葉は、心臓に深く突き刺さった。
「……ダミアン様?」
ロザリア様から名を呼ばれ、我に返った。
ぼんやりと彼女の赤い瞳を見つめ、そのまま、うっすらと笑みを浮かべる。
「私のことを知ったところで、何も得るものはありませんよ」
「それでも、知りたいのです」
ロザリア様は静かな声色で言った。
どう答えればいいのか分からず、途方に暮れてしまう。困惑だけがゆっくりと積もっていく。
(恩義、だろうか)
一つの可能性に思い当たる。もしかすると彼女は、何か大きな恩を自分に感じているのかもしれない。
だがどんな困難が現れても、乗り越えてきたのは彼女自身だ。
彼女はいつだって、自ら考え、決断し、道を切り開いてきた。自分は、ただそこにいただけだ。救ったつもりなど、一度もない。
こんな自分に、恩義など感じる必要なんてない。
(あぁ……)
こういう思考になるとき、嫌でも痛感してしまう。
人の望みを叶えているつもりでいながら、自分を傷つけない選択肢ばかりとってしまう。
脳裏に浮かぶのは、母が死んだ日のこと。
彼女は階段から落ちて、あっけなく死んだ。
母が死んで最初に湧き上がった感情は──安堵だった。
その安堵に大きなショックを受け、必死に打ち消した。だってそうだろう。
母のせいで人生を狂わされたかもしれない。
その事実を認めてしまうことになってしまう。
母と出会えて良かったと思え。
そう言い聞かせて、この三年間生きてきたのだ。
「ロザリア様は……」
「?」
「自身の歩んできた道が、正しかったと思いますか?」
気づけばそう尋ねていた。
思わず皮肉めいた笑みを浮かべてしまう。
十も下の女性に何を聞いているんだと叱責する。
彼女はきっと、「正しい」と胸を張って答えるのだろう。
五大公爵家の一つ、そのただ一人の愛娘。美しさも、知性も、地位も全て持っている。困難に直面しても、乗り越えていける強さだって持っている。
視界が白く霞んでいく。雪が、強くなってきた。
自分は返事を聞かず、「戻りましょう」と告げようとした。
それより先に、ロザリア様は答えた。
「──分かりません」
はっきりとした答えだった。
言葉を放とうとした唇が止まる。
ロザリア様は言葉を続けた。
「私は、」
まっ白な視界の中、赤い瞳だけが炎のように煌めいている。
「私が歩んできた道を──正しいと信じるだけです」
声にならない音が、喉の奥から、漏れた。
答えそのものは、同じはずだった。
自分が辿り着いた答えと、言葉だけを見れば変わらない。
だが、違った。
彼女の言葉には、逃げがなかった。迷いも、恐れも抱えたまま、それでも前を向いている。
赤い瞳は鮮やかに燃えていた。雪の冷たさを跳ね返すように、煌々と燃え続けていた。
彼女の言葉が、赤い瞳の光が、胸の奥でするりと入り込み、温かな火となって灯る。
心の奥、凍りついていた何かが、わずかにほどけた気がした。
「……っ」
気づけば、両腕を伸ばしていた。止められず、彼女の体をゆるりと引き寄せる。
彼女の薄い腹に、額を押しつけた。熱と鼓動が伝わってくる。
頬に何か熱いものが伝っていくのを感じながら、絞り出すように呟いた。
「すこし……だけ、こうさせてください」
一瞬だけ、戸惑うような気配が流れる。
やがて、彼女の手がそっと自分の髪に触れた。
拒否されなかったことに驚くほど安堵する、自分がいた。




