11.錆びついた記憶
ジュール視点です。
「はぁ……はぁ……」
息を切らしながら建物に入り、ドアに背中を預けた。
久々に走ったせいで呼吸が苦しい。胸が焼けるように痛む。
「……クソ」
低く吐き捨てて、額を押さえる。脳裏に浮かぶのは、先ほど出会った二人の姿だった。
自分の商品がすべて売れたと聞いた瞬間、胸の奥にざらついた不安が広がった。そして、待ち合わせた場所に現れた女を見て、不安は確信に変わった。
(コイツは、貴族だ)
言葉を交わすまでもなく分かる。
口調の端々に滲む品の良さ、無駄のない洗練された所作、わずかな仕草のひとつひとつが平民とはまるで違う。面倒な相手に違いない、関われば厄介なことになる。
それがまさか、よりにもよって、エルフェリア王国の貴族とは。
二度と聞きたくなかった国の名前だった。
気づけば魔法をぶっ放し、逃げ出していた。
貴族相手に魔法を使ったと知られれば、俺の首が飛ぶ。だが逃げ足には自信がある。この街の構造も抜け道も、俺の方が知り尽くしている。あの二人が追ってくることはないだろう。
「はぁ……」
呼吸が整ってきたので、立ち上がって作業台を撫でた。ここは普段使っている場所とは別の、隠し工房だった。知っている者も極わずかしかいない。
雑然とした部屋。作業台の上には、金属片や宝石の欠片が散らばっている。炉の傍には、使い古された金槌が転がっていた。
ふと、奥底に押し込んだ記憶が蘇る。
耳を裂くような叫び声と、振り上げられる手。「出来損ない」と吐き捨てられた言葉。
──そして、怯えたような弟の泣き顔。
「……っ」
記憶とは、どうにも始末の悪い代物だ。
時が経てば風化すると思ったのに、錆のようにこびりついて離れない。心臓の奥で、今も鈍く疼き続けている。
手を動かせば、少しはまぎれるかもしれない。そう思って彫刻刀を握る。
そして座ろうとした瞬間、扉が開く音がした。
「悪いが、今日はやって──」
「ご機嫌よう」
そこに立っていたのは、先ほど追っ払ったはずの女だった。
深紅の瞳がこちらを捉え、静かな笑みを浮かべている。獲物の逃げ場を確認するような表情に、背筋がわずかに震えた。
何故ここが……そう思った瞬間、外から賑やかな声が響いた。
「ジュールじいちゃん! この人すごいぜ!」
「金持ちだ金持ちだ!」
「りんごあめと、みかんあめと、いちごあめ、全部くれたんだ!」
無邪気な歓声が、作業場の空気をこじ開けるように流れ込んでくる。
近所に住む子どもたちの声だった。
雪玉を当てられたときから、こっそり魔法でやり返してから、つきまとわれていたのだ。ズキズキと痛む頭を押さえながら、俺は叫ぶ。
「買収されてんじゃねえ!」
俺の叫びはむなしく響いた。
*
子どもたちを追い払うと、部屋には静寂が戻った。
まだ頭が痛む。鈍い痛みをこめかみに感じながら、椅子に腰を下ろした。
ちらりと、ソファーに座るロザリアと名乗った女を見る。
年は十八か十九といったところだろうか。見るからに上等な服を着ており、仕草一つにも育ちの良さが滲んでいる。エルフェリア王国からやってきたということは、おそらく自分の素性を知っているはずだ。
思わずため息交じりで呟いてしまう。
「十五年も経っているのに、今更何の用だ……」
「十五年?」
意外な反応が返ってきた。俺は訝しげな目線を向けるが、ロザリアは本気で分からないというように目を瞬かせている。
(……何も知らないのか? じゃあ一体なぜ、こんな辺鄙な街に?)
疑問が胸の中で渦を巻いたその時、ロザリアの背後に立っていた女が一歩前に出た。そして俺を指し示しながら、ロザリアに説明した。
「ロザリア様。おそらくこの方は、サンベルク家の次男──ジュール様だと思われます」
「え」
「なっ、知らなかったのか!?」
思わず声を張り上げた瞬間、しまったと口を塞ぐ。
これでは、サンベルク家の次男だったと認めているようなものだ。
ロザリアは戸惑いの視線を向けてきた。どうやら本当に何も知らなかったらしい。
さらに頭が痛くなる。なんだか全て面倒になってしまい、考えることを放棄した。
彫刻刀を手に取り、大理石を削り始めた。ゴリ、ゴリ、と音が響く。石を削る音を聞いていると、だんだん心が落ち着いていくのが分かった。
やがてロザリアはぽつりと声を発する。
「……本当に貴方は、サンベルク家の方だったのですか?」
「信じられないか? まぁ無理もないか」
皮肉めいた笑みを浮かべる。
彫刻刀の先が石をなぞり、削られた粉が白い霧のように舞った。石の中から、女性の横顔が少しずつ浮かび上がってくる。まるで、最初からこの石の中で眠っていたように。
俺は指先で横顔の輪郭をなぞりながら、口を開く。
「俺が家を飛び出したのは、十五の時だ。この街で拾われて、十五年が経った。屋敷で過ごした年月を、ここで過ごした」
「なぜ屋敷を……」
その瞬間、彫る手が少しだけ乱れた。金属と石が擦れる音が響く。
小さく舌打ちをして、刃先を整え直す。
「あの屋敷の話はあまりしたくねぇ。彫る手が鈍る」
「……」
ロザリアはそのまま押し黙ってしまう。
貴族相手に不遜な態度だとは分かっている。だけど今更だ。
殺されるなら殺されるで別に構わない。
そう思っていたのだが、ロザリアの口から飛び出たのは驚きの言葉だった。
「私はダミアン様と『ルストレア』というブランドを立ち上げました」
彫る手が止まった。
呆然とロザリアを見ると、彼女は真剣な表情で、まっすぐこちらを見つめていた。
脳裏に、泣きじゃくる幼いダミアンの姿が蘇る。あの屋敷のことは、何ひとつ思い出したくはない。だがダミアンだけは違った。どうしても切り離せなかった。
俺のわずかな表情の変化を見逃さなかったらしい。ロザリアは言った。
「……ダミアン様の話はしてもいいみたいですね」
心の奥を覗かれたようで、なんだか腹が立つ。
しかし嘘を重ねるのも面倒で、諦めるように口を開いた。
「あの家は全く好きじゃないが、ダミアンに関しては借りがある」
「借り?」
ロザリアの問いに、答える気は起きなかった。それ以上は語る気はないとむっつりと黙る。
聞いても無駄だと判断したのか、ロザリアはため息を殺し、話題を切り替えた。
「セドリック様には何か借りがあるのですか?」
「懐かしい名前が次々出てくるな。セドリックには、借りも義理もねぇ。名前を出さなきゃ、一生思い出すこともなかった」
名を口にしただけで、胃の奥がむかつくような不快感が広がる。
その嫌悪が表情に滲んだのか、ロザリアはくすりと笑った。
「同感ですわ」
部屋の空気がふっとゆるむ。ふと浮かんだ疑問をぶつけた。
「もしかしてアンタ、ダミアンの恋人か?」
「……セドリック様と同じことを聞かれるんですね。さすが兄弟ですわ」
皮肉を返され、苦虫を噛み潰したような味が口内に広がった。
少しの沈黙のあと、ロザリアは目を伏せながら言う。
「私はダミアン様のことを何も知りません。セドリック様のことも、貴方のことも……彼のことは何一つ知らなかった」
「アイツらしいな」
手を動かしたまま淡々と返す。
言葉の意図が掴めなかったのだろう。ロザリアが静かにこちらへ視線を向けた。探るような眼差しから逃れたくて、言葉を続ける。
「ダミアンがあの家の話を避けていたのは、アンタを遠ざけたいとか、嫌ってるとか、そんな理由じゃねぇよ。十五年も顔合わせてねぇから憶測でしか言えないが」
「……励ましてくださるのですか?」
「そんなんじゃねぇ」
そっけなく返した俺の言葉に、ロザリアは小さく笑みを漏らした。
「セドリックはあんな性分だし、俺は公爵家の『落ちこぼれ』。まぁ一番の理由は──母親だろうな」
「母親?」
「あぁ。──俺が屋敷から飛び出したのは、あの女のせいだ」
ロザリアの息を呑む音が聞こえた。
「俺は逃げた。公爵家の肩書きも、血筋も、全部捨ててな。でも時々思うんだ」
作業の手を止め、独り言のように呟いた。
「あの母親と戦い続けたダミアンの方が……よほど地獄だったんじゃねぇかって」
誰にも話すつもりなんてなかった。
こいつらには、なおさらだ。
なのに、蓋をしていたはずの言葉が、堰を切ったみたいに流れ出してくる。
(もしかして、俺は……)
ずっと、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
長いこと押し込めてきた、あの記憶も、感情も、後悔も。
ずっと錆び付いたまま、置き去りにしてきたそれらを。
*
幼い頃から俺は、勉強にもマナーにも興味が湧かなかった。
そのくせ、庭師が枝を整えていく手つきや、絵画職人が色を置く瞬間には、妙に心を奪われた。
何度言われても、周囲と歩調を合わせることができない。
椅子に座るだけで体はむず痒くなり、じっとしていれば思考がどこかへ飛ぶ。
そんな俺を、母親は何とか「正しい形」に矯正しようとした。
セドリックが優秀だったのもあるだろう。
母親は俺も同じように、優秀な跡継ぎになると信じ込み、執拗なまでに躾を繰り返した。叩かれた回数も、怒鳴られた日も、数え切れないほどに。
対照的に、父とセドリックは早々に「無理だ」と諦めの目を向けていた。だが、母親だけは最後まで俺を矯正できると信じて疑わなかった。
そんな中で、ストレスの逃げ場になったのが金細工だった。
親戚が軽い気持ちで教えてくれただけの技術だったが、不思議とその細かい作業だけは集中できた。気づけば夢中で、ひたすら手を動かしていた。
母親に見つかったら、間違いなく取り上げられる。だから屋敷中が眠りにつく頃、灯りを小さくして、金属片と向き合い続ける。黙々と削り、磨き、形を整える作業は俺の心を静めてくれた。
そんなある日のことだ。
「兄さん、何を作ってるの?」
ひゅっと息を呑んだ。
傍には、八歳のダミアンが寝間着のまま立っていた。どうやら夢中で作り続けてしまったらしい。
母親にチクられれば終わる。
唯一の心のよりどころが奪われてしまう。
誤魔化さなくてはと分かっているのに、息が詰まり、手が震え、逃げ道すら思いつかない。
何か言葉を発さなくてはと口を開いた、その時だった。
「すっごく綺麗だね。兄さん、すごい!」
満面の笑顔。曇りのない賞賛がまっすぐに俺に向けられている。
その笑顔に、完全に毒気が抜かれてしまった。
(……何だよ、その顔。ずるいな)
俺よりずっと聡い弟だ。
母親に言わない方がいいことも、もし告げ口したら俺が傷つくことも、全て分かっているのだろう。そのうえで、ただ純粋に褒めてくれた。
そして否定され続けてきた俺にとって、アイツの一言は涙が出そうなほど嬉しかった。
気づけば作品の中で、一番よく出来た指輪をダミアンに手渡していた。アイツは馬鹿みたいに喜んでくれた。
その頃から、母親が俺に対して少しばかり優しくなっていた。
もちろん叩かれもするし、怒鳴られもする。だが回数が明らかに減っていた。当時の俺は、深く考えようとはしなかった。ほんの少しでも平穏になれば、それで十分だったのだ。
そして十五歳になった、ある日だった。
学園の退屈な授業をやり過ごし、気怠い足取りで部屋へ戻ったときだった。
自分の部屋に入った瞬間、そこには母親がいた。
鬼のような形相を浮かべて、俺の机の近くに立っていた。
(バレた)
一瞬で把握した。
俺の引き出しは二重構造になっていて、そこに作り溜めた金細工を隠していた。
見つかる可能性は限りなく低い。なぜ見つかった?
混乱で頭が白く染まりかけたとき、鼻をすするような嗚咽が耳に刺さった。視線を向けると、そこにはダミアンがいた。顔は涙でぐちゃぐちゃになり、頬は赤黒く腫れ、床にはダミアンに渡した指輪が、無残に散らばっていた。
「ごめ……ごめんなさい、兄さん……」
その謝罪を聞いた瞬間、全てを察した。
母親が緑の目で、俺を見下す。
「ジュール、これは何? 出来損ないな上に、こんなものに手を出して……」
その後の言葉は、正直よく覚えていない。
いつも以上に人格を否定され、意味の分からないことを怒鳴られた気もする。言葉は鋭く、痛かったはずなのに、不思議と心には何一つ残っていなかった。
俺の視線は、ただ一人に向けられていた。
目を真っ赤に腫らし、声を殺して泣きじゃくるダミアン。俺の存在そのものが、アイツを追い詰めていた。それだけは確かだった。
拳をぎゅっと握り締める。
(このままじゃ、ダミアンが壊れてしまう)
(俺が……俺がここにいたせいで)
一週間後。俺は部屋にあった金目のものをすべてかき集め、誰にも告げずに屋敷を飛び出した。
そして辿り着いたのが、ここ、タタンだった。
──それから十五年、俺はこの街で生きてきた。
「これが俺の顛末さ。くだらない話だっただろう?」
語り終えたあと、部屋には長い沈黙が落ちた。




