6.ダミアンと兄
ダミアン視点です。
ロザリア様と分かれ、馬車に乗り込む。車窓から見える、王都の街並みをぼんやりと見つめていた。その単調な景色に紛れ込むように、先ほど尋ねられた問いが浮かんだ。
「前の奥様とは、どのような関係だったのですか」
何と答えれば良いか分からなかった。だから嘘をついた。その言葉を放った瞬間、彼女の目の奥にわずかな翳りが差す。
間違えたと、すぐに思った。
(何と答えるのが、正解だったのだろう)
街灯の光が滑るように流れていく。彼女の問いの答えは見つからないまま、ただぼんやりと外を眺めていた。まるで水中にいるようだった。思考がゆらゆらと意味もなく漂っている。
すると不意に、馬車が停まった。
軽い衝撃とともに体がわずかに揺れ、眉をしかめた。まだ屋敷には到着していないはずだと扉へ視線を向ける。その瞬間、冷気とともに見慣れた影が姿を現した。
その人物を見て、胸の内に暗雲が立ちこめる。
「……兄さん」
「夜遊びか? ダミアン」
片頬だけ吊り上げる。
セドリック・サンベルク。自分の兄であり、サンベルク家の現当主。
母譲りの黒髪に、自分とよく似た灰色の瞳。その鋭い眼光を向けられるだけで、責められるような圧を感じてしまう。
ふと馬車の外へと視線を移すと、従者が気まずそうに立ち尽くしていた。サンベルク家の主人には逆らえなかったのだろう。彼に非はないと言い聞かせ、指先で「出発してくれ」と合図する。従者はほっとしたように頭を下げ、やがて馬車がゆっくりと走り出す。
兄は足を組むと、わずかに顎を持ち上げた。自分を見下すようにして話し始める。
「次はあの女か」
「……違います。彼女とは、そんな関係ではありません」
こめかみ辺りが重く疼き、痛みを放った。
しかし兄は自分の言葉など何一つ信じていないようで、「そうか?」と言った。
「バーで二人で会っているのに?」
「珍しい酒が入ったと聞いたので、店の案内をお願いしただけです」
「ふうん」
興味がなさそうに相づちをうち、懐へ手を伸ばした。取り出した銀色の金属ケースには、サンベルク家の紋章が刻まれている。兄はケースを開き、紙巻き煙草を一本取り出す。そして真鍮のオイルライターを取り出し、カチ、と鳴らして火をつけた。
煙が馬車内に広がり、空気が重くなる。自分は耐えきれず、馬車の窓を静かに開け、外気で煙を逃がした。兄は特に何も言わない。
その沈黙にほっとしつつも、胸の奥の緊張はほどけなかった。
「ロザリア・ヴァレンティーノの何が不満なんだ? 家柄も若さも、申し分ない。優秀な跡継ぎを残せるだろう?」
「何度も言いますが、彼女とはそんな関係ではありません」
先ほどより強い口調で言った。言葉を続ける。
「彼女は年齢以上に大人びてはいますが、まだ学生で、経験も浅い。私はただ、自分ができる範囲の手助けをしているだけです」
兄の目が細まった。刃物のように冷たい光が走り、反射的に視線を落とす。
昔から苦手だった。あの冷ややかな視線も、こびりつくような煙草の匂いも──そして、人を物のように扱う独善的な言葉も。すべて胸の奥をざらりと逆撫でする。
「──お前はいつもそうだな」
軽蔑を含んだ声色だった。
「母親に『優しい子でいてほしい』と望まれては、その通りに振る舞う。前の妻に『理想の夫』を求められれば、そう装う。お前自身の意志なんて、最初からどこにもない」
乾いた、笑いとも息ともつかないものが喉の奥からこぼれた。
煙がじわじわと馬車内を浸食していく。苦い煙草のにおいは、嫌でも幼少期の記憶を蘇らせた。金切り声をあげる母親。無関心を貫く兄と父。そして公爵家を飛び出して消えたもう一人の──
煙の向こうで兄は淡々と、しかし容赦なく告げる。
「だからお前は誰にでも利用される。どれほど尽くしても、誰の心にも残らない」
白い煙をぼんやりと見つめる。
彼の言葉は、煙草の煙と同じだった。こちらが拒んでも、肺の奥に入り込み、じわりと重く広がっていく。
兄は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「──哀れな奴だ」
これほど見下されても、これほど貶されても、怒りは湧かなかった。
悔しさも反発も、何も出てこなかった。
ただ兄の言葉が、心の底へ沈んで行くのを感じていた。
(仕方がなかった。それ以外、生きる術はなかった)
言い訳のような言葉が滲んで、自嘲の笑みを浮かべた。
誰にも迷惑をかけず、誰からも疎まれず。
他人の期待に応え続けることでしか、生きて来れなかった。本当に、それしかなかったのだ。
(……本当に?)
暗く深い心の底から、誰かが囁いた。兄ではない。
その声が自分自身だと気づいた瞬間、ぞくりと背筋が冷えた。
触れられては困る。目を逸らしてきた理由が崩れてしまう。
今まで直視せずに生きて来れたのだ。だから今回も大丈夫、やり過ごせる。
そう言い聞かせていると、馬車が停まった。屋敷の門が見え、薄い安堵が広がる。
「では、失礼します」
形式的な言葉だけ残して馬車を降りた。兄が何も答えないのは予測済みだ。重い空気から逃げるようにして、早足で屋敷へと向かう。
だから、背後で兄が面白そうに呟いた言葉が、耳に届くはずもなかった。
「……ロザリア・ヴァレンティーノか。面白い。少し、つついてみるか」




