5.彼がついた嘘
ロザリア視点です。
二週間後。
私は「ノワール」の前に馬車を停め、窓の外を眺めていた。王都は夜の帳が降り、街灯の暖かい光が石畳を照らしている。
ほどなくして、従者が馬車の扉を軽く叩いた。来客を知らされ、扉がゆっくりと開かれる。
冬の訪れを感じさせるような冷たい空気に、そっと息を吐いた。
馬車を降りると、濃紺のタキシードを纏ったダミアンがいた。
「すみません、お待たせして」
「いえ」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
形式的な所作だと分かっているのに、なぜか指先が熱を帯びる。
その熱が「アストレイヤの会」の記憶を呼び覚ました。
「私がダミアン様だったら、どう思われますか」
あの時、素直に想像してしまった自分が憎い。そして反応を見せてしまった自分も。
(もう少しソレイユの足を強めに踏んでおくべきだったわ)
そんなことを考えながら、私たちは店へと向かった。
ダミアンの腕に導かれるように歩く。彼にエスコートをしてもらうと、とても歩きやすい。私の歩幅に合わせ、リズムも一定。私のドレスの裾が乱れぬよう、自然にリードしてくれている。
ふと、ウッド系の香水が鼻をかすめた。
私はダミアンの横顔を見つめる。栗色の髪はオールバックに撫でつけられ、端正な額のラインが街灯の光を受けて美しく際立っている。彼の横顔を盗み見ていると、グレーの瞳がこちらを射貫いた。心臓がびくりと跳ねる。
「どうかされましたか?」
「今日はいつもと香りが違うな、と」
「あぁ。実は、特別な日につける香りなんです」
悪戯めいた笑みを浮かべるダミアンに、思わず心臓が縮まる。私は言い聞かせる。
(お酒が楽しみって言っていたから、きっとそのことよ)
(アンタが変なことを言ったせいで、変なことを考えちゃうじゃない)
私は視線を逸らし、ここにはいない侍女に怒りの矛先を向けた。
ソレイユはここ二週間、妙に忙しそうだった。
仕事が終わった後、こそこそと屋敷から出ていく姿も見かけた。「ソレイユはいつも屋敷に引きこもっている」というのは、メイドたちの噂から聞いていた。珍しいこともあるものだと、彼女の後ろ背中を眺めた。
その時、ふと胸の奥を冷たいものがかすめた。
ソレイユには病弱の弟がいたはずだ。もしかすると家族の身に何かあったかもしれない。
だが、彼女のことだ。私に心配をかけぬよう、打ち明けられずにいたのかもしれない。私は小さく決意する。
(帰ったら、話を聞いてみるべきね)
「ノワール」の前に到着し、黒服を着た従者たちが恭しく扉を開けた。
──そこには、信じられない光景があった。
「お待ちしておりました」
出迎えてくれたのはカノンだった。こちらを見て、上品な微笑みを浮かべている。
しかし私はある一点から目が離せなくなっていた。
「……何でソレイユがいるのよ?」
店の奥で給仕をしていたのは、ここにいるはずのないソレイユだった。
絶句しながら言葉を漏らすと、カノンは顔を輝かせた。
「実は二週間前に、『ノワール』で臨時で働きたいと希望を受けまして」
「そんな短期間で給仕できるはずないでしょう」
「そう思ったのですが、ソレイユさん、本当に優秀で。飲み込みが早くて、とても助かったんですよ。
あと、何と言うのでしょうか……強い執念を感じましたね」
小声で説明してくれるカノンの声を聞きながら、こめかみがズキズキと痛み始める。
さっきまでソレイユを案じていた私の心配を返して欲しい。今すぐに。
その時、ダミアンが不意に身を寄せてきた。
「流石、ロザリア様の侍女ですね」
「……っ!」
低い声が耳元をかすめる。
思わず息が詰まり、耳の先がかっと熱を帯びた。深みのある香りが、心拍を狂わせていく。
私の反応に、ダミアンは心配そうな表情を浮かべた。
「大丈夫ですか?」
「はい……」
ノワールは静寂に近い雰囲気で包まれている。
グラスが触れあう微かな音と、客たちの囁くような声しか聞こえない。
ダミアンは店の雰囲気に、配慮しただけなのだろう。分かってはいるが、それでも不意打ちはやめてほしい。
カノンに案内され、店奥の席へと案内された。
深いバーガンディの革張りの椅子に腰を下ろし、ちらりと視線を店内に巡らせた。
「ノワール」が盛況というのは本当らしい。どの席も埋まっていた。ただ席と席の間には十分な距離があるため、騒がしさは全くない。貴族たちは酒をゆったりと傾け、煙草をくゆらせながら、思い思いに会話を楽しんでいる。
ダミアンはカノンに尋ねた。
「トリト国のウイスキーがあると聞いたんだが」
「えぇ、ありますよ。お持ちしますね」
「ロザリア様は?」
「同じものを」
「かしこまりました」
カノンは小さく頭を下げ、その場を去った。
店内に漂う煙草の煙を眺めながら、口を開く。
「煙草は吸われますか?」
「いえ。実は少し、苦手なんです」
ダミアンは肩をすくめ、困ったように笑った。
言われてみれば、彼が煙草を吸う姿を見た記憶は一度も無い。苦手だと言われ、納得がいく。
同時に、胸の奥にかすかな痛みが走った。
(私は、何も知らないのね)
ダミアンと出会って一年が経つ。
真珠の流通や、ブランド模倣事件、様々な出来事を共にしてきた。しかしそれはあくまで「仕事上の話」にすぎなかった。彼の好きな香りも、苦手なものも、何も知らないと気づいてしまう。
「彼には人の心がない」
マリエッタのセリフが記憶の底から浮かんだ。あのときは、被害妄想のようなものだと片付けた。
だけど断言はできなかった。
私はダミアンのことを何も知らないから。
仕事上の関係。互いに踏み込みすぎない距離。
本来それで──よかったはずだ。
なのに、寂しい気持ちが湧き上がるのは何故なのだろう。
「お待たせしました」
カノンの声で我に返る。
彼女は切り子細工のグラスを二つ、テーブルに置いた。琥珀色の液体の中には透き通った氷が沈んでおり、蝋燭の光を受けてゆらめいていた。
ダミアンはグラスを掲げ、唇に弧を描いた。
「ロザリア様。連れてきてくださり、ありがとうございます」
「いえ」
「乾杯」という声が、いつもより密やかで、思わずどきりとする。
グラスに口づけると、薬草のような匂いが鼻を抜け、熟成されたウイスキーの芳香が追いかけてくる。
ダミアンは満足げにグラスを揺らし、穏やかに微笑んだ。
「おいしいですね」
「えぇ。何だか薬草のような香りがするのですね」
「トリト国のウイスキーは、海辺で熟成を行っているんです。海藻や潮の香りが、木樽に染みこむと言われていますね」
なるほどと感心して頷く。
この一年、ダミアンと会話を重ねるたびに実感した。彼は単なる博識ではない。知識を積み上げ、体系化し、それを生かす柔軟さを持っている。
私は人差し指にはめた真珠のリングに視線を落とした。
きっと、ダミアンがいなければ「ロズ商会」はここまで大きくならなかった。
何度も支えられ、何度も助けられてきた。
感謝という言葉では言い尽くせないものが、胸の奥で疼いた。私は口を開く。
「詳しいのですね」
「酒は好きなので」
「トリト国に行ったことはあるのですか?」
「いえ、行ってみたいのですが、中々時間がとれなくて」
ダミアンはグラスに口づけ、問い返す。
「ロザリア様はどこか行きたい場所などあるのですか?」
「行きたい場所ですか……」
考えたことなどなかった。
私の人生は、最初から決められていた。敷かれた道を、ただ前だけを見て歩くしかなかった。
幼少期からアランの婚約者として教育され、周囲は「未来の王妃」として私を扱った。
押し寄せる勉学と礼儀作法、そして重苦しい責務。息苦しさを感じなかったと言えば嘘になる。
けれど、それが当然だと思い込んでいた。
弱音を吐くことは、責務を放棄する弱さだと信じていた。だから私は、感情に蓋をして歩き続けていた。誰かが描いた人生の中を、淡々と、ただ歩いていた。
(そういえば、いつからだろう)
私はドレスの上から右の太ももに触れた。
辛いと感じたとき、思考を断ち切るために行っていた自傷行為。いつからか、自然とやらなくなっていたことに気づく。
いつからだろうと考えて、あぁそうかと店内を見渡す。
店の中央ではソレイユが給仕をしていた。私の視線に気づいたのか、こちらを見て小さく微笑む。なんだかいつもより機嫌がよさそうだ。
(ソレイユとダミアンに出会ってからね)
「ロザリア様?」
「すみません。そうですね……寒いところが苦手なので、暖かい場所へ行きたいですね」
「いいですね。行ったことがある場所だと、ノルダニア国という場所が暖かくてよかったですね」
「へぇ、どなたと行かれたんです?」
軽い気持ちで聞いた質問だった。
だが、ダミアンの表情がわずかに揺れた。一瞬だけ答えに詰まる。
だがすぐに笑顔を取り戻し、穏やかな声で答えた。
「昔、友人と行ったんです」
私は察する。マリエッタと一緒に行ったのだと。
胸の奥で、何かがきゅっと縮む。ほんの針の先ほどの痛みなのに、妙に鮮明だった。
静まり返った店内に、グラスの氷が微かに音を立てる。濃いウイスキーの香りが、現実の輪郭を曖昧にしていく。
痛みがゆっくりと広がっていく。度数の強い酒のせいなのか、それとも──
思考がうまくまとまらない。脳みそがふやけてしまったみたいだ。
だからだろう。普段なら絶対にしなかった質問を、私は気づけば口にしていた。
「前の奥様とは、どのような関係だったのですか」
言葉が落ちた瞬間、空気がぴんと張り詰める。
ダミアンの顔が固まった。初めて見る顔だ。
「前の、妻ですか……」
わずかに掠れた声で繰り返し、彼は視線を落とした。
手に持ったグラスを見つめたまま、沈黙の中で言葉を探している。やがて丁寧にグラスをテーブルに戻した。
その仕草はなんだか、まるで時間を稼いでいるようだ。
取り繕うか、誤魔化すか、様々な感情が彼の中に渦巻いているのが分かった。私はまっすぐに彼を見据え、言葉を待ち続ける。
ダミアンの灰色の瞳が、私を捉えた。真意を探るように。
濃密な沈黙が、私たちを包んでいた。
そしてようやく、彼は言った。
「優しい方でした。自分にはもったいないくらいの」
胸が鋭く痛んだ。
ダミアンが私に嘘をついたことに。
サンベルク家のことは、ポルーノの件で関わり始めてから徹底的に調査していた。ダミアンとマリエッタの離婚理由も、その過程で当然把握している。
不貞行為で離婚したはずの妻を「優しい人」などと形容するはずがない。
そして彼も、私が調査していることは分かっていたはずだ。「調べる」という行為は、貴族社会における最も基本的な防衛手段だから。
(それでも彼は、嘘をついた)
私に嘘が通じないと分かっていながら、あえて言葉を選び、嘘を選んだ。
大きく、越えられない壁が作られた気がした。
(私なんかが、踏み込んでいい場所ではなかったのかもしれない)
全ての音が遠くなった気がした。
空間が薄膜に覆われたように静まり返る。
ダミアンはグラスの底に見つめながら、ぽつりと独り言のように言った。
「……彼女と離れたとき、痛感しました。自分は、誰かを愛する資格がないのだと」
低く、掠れた声だった。
それはまるで懺悔のようで。胸がひどく締め付けられた。
さっきの嘘が、ほんの一瞬でも彼の良心を痛めた証のように思えた。彼はとても優しい人だから。
そんな彼が嘘をついてまで隠したかった理由が分からなかった。
けれどその理由を、彼が教えてくれることはないのだろう。
それがどうしようもなく寂しくて、痛かった。




