2.ロザリア様の犬にしてください!
「二週間、休暇をあげるわ。講師も手配するから、私の顔に泥を塗らないように練習してね?」
ロザリア様は意地悪そうな顔で笑った。私の血の気が引いていく。
(な、なな何ですと──!?)
心の中で悲鳴をあげながら、私は顔面蒼白になった。
次の日から、地獄のようなダンス特訓がはじまった。
「次ターン! ちゃんとリードして!」
「は、はい!」
「ほら、足と手が一緒に出てるわ! 貴族の前で踊ったら笑いものよ!」
「すみません!」
四十代くらいの女講師の厳しい声が響き、心臓が跳ねる。ステップを踏み損ねるたびに、汗が首筋を伝っていく。巨大な鏡に映る私の姿は、もはや優雅さとはほど遠い。手足はガクガクと震え、全身の穴という穴から汗が流れ落ちている。干からびたモップのようだ。
ソレイユも貴族として最低限のステップは覚えていたが、それはあくまで女性用のステップだった。リードする側の足運びは反対だし、体重の移動も呼吸の取り方も異なる。
ひいひいと泣きそうになりながらステップを踏んでいく。
「はぁ、はぁっ……」
気づけば、ほぼ一日中踊り続けていた。汗でシャツが張り付き、足は重く、呼吸する度に胸が焼けそうだ。床に両手をつきながら肩で息をする。
汗が滴る床に、影を落とすように講師が立ち、静かに問いかけた。
「どうする? もうやめにする?」
「……いえ! やらせてください!!」
私は顔をあげて、息を切らしながら叫ぶように言った。講師の唇が満足げに弧を描く。
足は鉛のように重く、息を吸うたびに肺が焼けるようだったが、私は立ち上がった。
(ロザリア様の華麗なステップを、邪魔するわけには行かない!)
私は闘志を燃やしながら、再び講師の手をとった。
──そして二週間後。
「あら、痩せた?」
「えぇ、まぁ……」
ロザリア様の一言に、苦笑しながら答えた。痩せたというより、削れたに近い。
二週間、みっちりと続いた地獄のダンス特訓。
リード、ターン、テンポ、姿勢、表情と覚えることは多岐に渡った。
しかもダンスというのは想像以上に全身運動であるということを、私は嫌というほど知った。足だけ動かせばいいと思っていた二週間前の自分を殴りたい。腰も腕も背筋も、挙げ句に笑顔の筋肉まで使うのだ。おかげで頬が筋肉痛である。
さらに運動のしすぎで食欲がない私に、「食べないと倒れるわよ」と講師に食料を詰め込まれたのだ。そのためやつれてはいなかったが、かなり痩せた。
「ふふ。練習の成果、楽しみにしているわ」
声をあげ、楽しげに笑いながら馬車の外を眺めた。
ロザリア様はネイビーを基調にしたドレスを身に纏っていた。胸上から首元までは繊細なレースで覆われている。真珠のネックレスの中央には、リボン型のジュエリーが輝いていた。耳元にも同じリボンの形をした真珠のイアリングが淡く輝き、気品を与えている。
アクセサリー単品だと可憐なデザインだが、ロザリア様が身につけると圧倒的な品格に変わるのは何故なのだろう。思わず見惚れてしまう。
(ロザリア様の美しいお姿を見れて幸せ……!)
二週間の苦しい練習も、筋肉痛も、この一瞬で全てが報われた気がした。
馬車が到着し、私が先に降り、手を差し出す。ロザリア様が手をとって馬車を降りると、ドレスに刺繍された銀糸が煌めいた。まるで女神が舞い降りたようだ。
夕日はすでに沈みかけていて、辺りは薄い群青色に染まっていた。パーティはすでに始まっており、爵位の高い者ほど遅く到着するのが慣例だった。会場にはもうほとんどの招待客が集まっているだろう。
そして会場に到着した瞬間、会場の給仕が恭しく扉を開けた。眩いシャンデリアの光が流れ込んできて、一瞬だけ目を細める。
次の瞬間、人々のざわめきと視線が、一斉に集まるのが分かった。
「ロザリア様だわ……!」
「今日もお綺麗だわ……」
憧れ、羨望、嫉妬──様々な感情を宿した視線が、まるで一つの潮流のようにロザリア様を取り囲んだ。そのどれにも、彼女は微笑みさえ返さなかった。ただまっすぐに見据え、凜とした歩みで会場を進んでいった。
その姿に貴族たちは小さく息を呑む。空気が一変する。ロザリア様の存在だけで場を支配しているのが分かった。
すると、後方から再び歓声が湧き上がった。
ちらりと後ろを振り向き、そこにいた人物に目を見開く。
そこには桃色のドレスに身を包んだフィローレがいた。隣ではアランがエスコートしている。
(前回に飽き足らず、今回も参加するなんて……! いくらロザリア様と婚約破棄したとはいえ……!)
怒りでわなわなと震える私。ロザリア様はそんな私を見て、冷ややかに口を開いた。
「放っておきなさい」
「……はい」
感情の一切をそぎ落としたような声だった。そこには怒りも、悲しみも、未練もない。
私はそれ以上何も言わずに頷く。ロザリア様がそう言うなら、私は従うだけだ。
(せめてロザリア様の視界に、あの二人を入れないようにしよう……!)
密かに決意する。だが、そんな配慮は無用だった。
彼女の周囲に、男性の人だかりができたからだ。
「ロザリア様! 今夜のダンスの相手はぜひ僕と!」
「いえいえ、私が!」
競うようにアプローチしてくる男性たち。爵位も家柄も関係なく、ロザリア様と少しでも言葉を交わそうと必死になっている。
一方で会場の隅では、彼らがエスコートしてたであろう令嬢たちが、じとりと視線をこちらに向けていた。冷ややかな目でシャンパンを煽っている。
(放置するから、令嬢たちがヤケ酒してるじゃない!)
心の中で毒づきながら、ロザリア様を守ろうと私は前に出る。しかし相手は貴族の青年たちだ。筋力差のせいか跳ね飛ばされ、バランスを崩してしゃがみこむ。もっとムキムキに鍛えればよかった……!
悔しがっていると、誰かの体が勢いよくぶつかってきた。鋭い痛みが二の腕に走る。
「……っ」
一瞬、痛みに呻いていると、視線を感じた。顔をあげると、ロザリア様の赤い瞳と視線が交わる。彼女の顔に一瞬だけ激しい怒りを浮かんだ。
そして彼女はゆっくりと周囲を見回し、盛大にため息をついた。次の瞬間、周りの男たちの空気が張り詰める。
ロザリア様の視線が、男たちを順に射貫く。赤い瞳に見つめられた彼らは、言葉を失い、口を閉ざした。
そして彼女は扇をゆるりと持ち上げ、男を何人か指し示した。
「貴方と、貴方……それと貴方も、覚えがあるでしょう?」
ロザリア様は扇を開き、口元を隠した。
「半年前、私の名を肴に笑っていたわね」
「なっ……そ、そんなことは!」
「ご、誤解です!」
男たちの弁解も途中で凍った。ロザリア様の瞳がわずかに細まったからだ。
冷ややかな声が落ちる。
「では、私が嘘をついているとでも言いたいの?」
氷より冷たい声に、男たちは口をつぐんだ。ピシリと空気が凍っている。
私は慌てて立ち上がり、ロザリア様の近くに駆け寄る。
すると一番前にいた小太りの男が、私をきっと一瞬だけ睨んだ。確か男爵家の貴族だったはずだ。名前は知っているものの、関わったことは一度もない。
男はロザリア様に視線を向き直し、名前を呼んだ。
「ロザリア様!」
「……何でしょう?」
ロザリア様が淡々と尋ねると、男は私を指差しながら叫んだ。
「私はこの犬よりもよっぽど有能です! ぜひ私を犬にしてくださいませんか!?」
突然の爆弾発言に、会場がざわついた。




