16.一つだけ残された復讐の道
三日後。
落ち着いた陽光が窓から差し込む午後、グレモア家の屋敷の貴賓室にロザリア様はいた。
目の前に座っているのは、リリスの父親──バラン・グレモア。彼の顔には困惑の色が浮かんでいる。
その隣には、明らかに血の気が引いた様子のリリスがいた。どこか怯えた目をしており、顔色はまるで蝋人形のように青白い。
そしてロザリア様の背後には、私を含め四人の女性が立っている。そのうちの一人はカノンである。全員ヴァレンティーノ家のメイド服に身を包み、静かに控えていた。バランは恐る恐る口を開く。
「ロザリア様、本日はどのような……」
「貴方のご息女が、私のブランドと商品を模倣した疑いが出ています」
「なっ……!」
父親の目が見開かれた。
すぐに隣に座るリリスへと鋭く目を向けるが、彼女は目を伏せたまま身を縮めている。
バランはぎこちなくロザリア様の方に視線を戻した。困惑と動揺を押し殺しながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「な……何か証拠でもおありなのでしょうか?」
「先日のパーティで私はリリス様だけに、アイシャドウに入れた素材を教えましたの。まぁ嘘だったのですが。
そして後日、市場を出回った模倣品から、リリス様に教えた素材が検出されました」
「そんなもの、何の証拠にもなりません!」
バランは勢いよく立ち上がり、ロザリア様を睨みつけた。
顔は真っ赤に染まり、娘を疑われた怒りに満ちている。逆上する父親の一方で、リリスは震えたままだ。ただ下を向き、顔をあげようとしない。
「えぇ、私もそれだけで証拠になるとは思っていませんわ──リリス様?」
ロザリア様が呼びかけると、リリスは大きく肩をふるわせた。
「ルジェ・モンフォールに何を言われたんです?」
「!」
リリスの顔色が明らかに変わった。まるで冷水を浴びたかのように表情が凍りつく。
同時に、私の隣にいたメイドたちもぴくりと体を震わせた。
「な、なんのことだか……」
「タイムリミットが迫っているでしょう?」
リリスはばっと顔をあげた。唇は震え、歯の根が合っていないのかガチガチと鳴っている。
何が起きているのか分からず、バランは声を荒げた。
「ロザリア様! 一体何を──」
「リリス様は、娼館で働けと命じられています」
部屋に沈黙が襲った。誰もが声を発せず、息を呑んでいる。
やがてバランは信じられないといった様子で、かすれた声を出す。
「しょう……かん?」
「えぇ。リリス様、違いますか?」
「おい、リリス! 何のことだ! そんなの嘘に決まってるだろう!?」
バランはリリスの肩を強く掴み、動揺を隠しきれないまま揺さぶった。しかしリリスは何も答えられない。
その沈黙が肯定だと解釈したバランは、言葉を失う。
ロザリア様は淡々と説明を続ける。
「おそらくアイシャドウの模倣を失敗したせいで、『責任をとれ』と命じられたのでしょう。モンフォール家はサンベルク家に訴訟を起こされて、今頃火の車でしょうし」
ロザリア様はくすりと笑う。
その姿を見て、リリスは絶望に満ちた目で彼女を見上げた。
バランは震えた声でロザリア様に尋ねる。
「な、ぜ、娼館に……」
「マージンを受け取るためです」
「マージン……?」
訳が分からないとばかりに言葉を繰り返す。ロザリア様は頷いた。
「ルジェ・モンフォールは、高級娼館に女性を紹介することで、紹介料──いわゆるマージンを受け取っているんです。そしてそのお金はおそらく、メントリア派の活動資金に使われています」
「なっ……!」
「え!?」
驚きの声をあげたのはバランと、私の隣にいた女性たちだった。
突然の反応に、バランは思わず女性たちの方へと目を向ける。彼女たちは全員、衝撃を受けた様子で口元を押さえ、信じられないといった顔で立ち尽くしている。
「な、何なんですか? 彼女たちは」
「ルジェのために、娼館で働いている女性たちです」
「!」
全員が驚いたように顔を見合わせた。
空気が凍りついたように静まる中で、それぞれの表情には「まさか」という疑念が浮かんでいた。
私以外の三人は全員、高級娼館から連れてきた女性たちだった。あえて詳しい事情を伏せ、カノンと同じように金貨を渡し、今日ここに来るように指示していたのだ。
するとカノンは今にも泣き出しそうな声で言った。
「で、でもルジェ様は私だけが特別だって……恋人は私しかいないって……」
すると、違う女性がカノンに噛み付くように声を張り上げた。
「ふざけないで! ルジェ様が愛しているのは、私よ!」
耳をつんざくような怒鳴り声が重なり、部屋が混沌に包まれる。リリスの目は呆然とし、次第に焦点を失い始めていた。彼女もまた、同じような言葉に縋っていたのだろう。
怒声。泣き声。喚き声。まるで嵐のような激しい感情が部屋に渦巻いていく。
その時だった。
ロザリア様は扇を、ぱしん、と音をたてて閉じた。その一閃の音が、室内の喧騒を切り裂くように響き、静寂が訪れる。
そして扇の先をリリスの方に向けて、冷ややかに問いかけた。
「貴方は娼館で働きたいの?」
「い、いえ……嫌です……私……そんな……!」
「じゃあ助かる道は一つね」
ロザリア様は一切の情けを挟まず、淡々と命じる。
「ロレア関連の書類をすべてここに持ってきなさい。今すぐに」
その命令に、すべてを悟ったのだろう。リリスはゆらりと立ち上がり、無言で部屋を出て行った。誰もが言葉を発することなく、その背を見送る。
そして数十分後、リリスは何枚かの紙束を手に戻ってきた。
「こ、こちらで、全てです」
「これはザビラの発注書ね……あとはルジェからの指示書。責任逃れのためにサインを取らせようとしたんでしょうが、裏目に出たわね」
手にした書類を一枚持ち上げると、バランに視線を向けた。
静かに、だが言葉の奥に厳しい追及の気配を滲ませながら尋ねた。
「さぁグレモア様。どのように責任をお取りになるつもりですか?」
「……っ!」
バランは引きつった顔で、ロザリア様を見つめる。
額にはじわりと汗をかき、完全に焦っていた。喉がひくりと動き、言葉にならない息が漏れる。
「ろ、ロズ商会の商品を優先的に取り扱いを……」
「足りませんわね」
ロザリア様は足を組み直し、見下ろしながら言った。声は冷え切っている。
「私のブランドを汚し、泥を塗った詫びがそれですか? 誠意が感じられませんわね」
「ど、どうすれば……」
「ソレイユ」
ロザリア様が私の名前を呼んだ。すかさず一枚の書類を渡す。
テーブルを滑らせるように、バランに差し出した。書類には薬草名がいくつか記されており、バランは訝しげに眉をひそめる。
「こちらは……?」
「化粧品に使っている一部素材ですわ」
ロザリア様はにこりと笑う。
バランは何を言われるのか分からず、戸惑っている。ロザリア様は告げた。
「こちらの素材を五年間、原価で『ロズ商会』に卸しなさい」
「なっ……!」
バランの声が引きつった。書かれた薬草の種類は、十種類。しかも希少価値の高い素材ばかりだ。
それらを商会の利益を乗せず、ロズ商会に卸せといわれたのだ。その反応になるのも当然だろう。
しかしロザリア様は一歩も引かず、バランに容赦なく告げた。
「ご息女の責任を追及せず、娼館送りという結末さえも防ぎました。その恩を返すには安すぎる対価では?」
「し、しかし、それでは我が商会は……」
バランの声が詰まる。ロザリア様はふうと一つ息を吐き、静かに提示する。
「では、三年。これ以上は譲れませんわ」
その言葉がトドメだった。
絞り出すような声で「承知、しました……」と言い、頭を垂れた。
その様子を見た私は、内心舌を巻きながら、ロザリア様とダミアンの会話を思い出していた。ここへ来る前日のことだ。
バランとの交渉の流れを確認していた際、ダミアンは言った。
「はじめは五年と吹っかけた方がいいでしょう」
「五年ですか? その条件だと、相手は呑まないと思いますが……」
「それでいいんです。『では、三年で』とこちらが言えば、『譲歩してくれた』と向こうは条件を呑みやすくなる」
「ちょっとしたテクニックです」そう言って、ダミアンはにこりと笑った。
そして私は、リリスにそっと視線を移した。
リリスが犯人だと分かった瞬間、グレモア家のことも詳しく調べた。
リリスには三歳年上の姉がいたという。
姉は幼い頃から優秀で、容姿にも恵まれており、家の期待を一身に背負っていたようだ。
しかし姉は五年前に男と駆け落ち。
慌てた両親は残されたリリスに全ての希望を託すようになった。そして、リリスもその期待に応え続け、今ではバランの仕事の一部を任されるほどの信頼を得ているという。
けれどずっと比べられてきた彼女の心は、もうボロボロだったのだろう。そんな時にルジェと出会ってしまい、甘い肯定の言葉に縋り、執着してしまった。
(姉妹揃って男に振り回される人生なのね……)
皮肉な巡り合わせを思いながら、深く息をついた。
リリスはずびずびと鼻水を垂らし、声にならない謝罪を繰り返している。
バランはそんな娘をちらりと見ようともしない。商会が被る損害への苦悩の方が、はるかに色濃く滲み出ていた。
「リリス様」
ロザリア様が静かに名前を呼んだ。
リリスは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。そこにいたのは、冷たい怒りを宿したロザリア様の瞳だった。
「悔しくはないですか?」
「え?」
「カノン、ダリア、バーバラ、貴方たちも」
ロザリア様はちらりと視線を背後に移し、私の横に立つ女性たちに呼びかけた。
彼女たちは何のことだが分からず、戸惑いの色を浮かべている。
「ルジェ・モンフォールのことよ」
「!」
「リリス、貴方はまだマシな方よ。彼女たちは家族とも縁を切られ、帰る場所すら奪われてしまったのだから」
娼婦たちは居たたまれないように目を伏せ、俯いた。
カノン以外の娼婦たちも同じような状況だった。
共通するのは、金に困ったタイミングで与えられる優しさと依存先。ルジェは情と執着を利用し、彼女達を娼館へと追い込んでいった。
居場所も、家族も、彼女達の尊厳さえも、彼の欲望のために奪われたことになる。
(本っ当に最低野郎……っ!)
私は拳を握り締める。悔しさと怒りと、どうしようもない無力感が胸を満たしていた。
おそらく彼女たちも、心のどこかで何かがおかしいと感じていたはずだ。だけど──
「ルジェ様を疑ってしまったら、私には、何が残るの?」
これはバーバラが言ったセリフだ。
そう、彼女たちは、自分の選択を正当化しようとしていた。「自分は間違っていない」と信じるために、ルジェへの執着を心の支えにしていたのだ。
静寂の中、ふいにカノンは拳を握り締め、言葉を吐き出す。
「悔しい……悔しいです……!」
喉の奥から絞り出すような声だった。リリスもダリアもバーバラも、同じような表情を浮かべて頷いている。
ロザリア様はニッと笑う。そして力強い声で言った。
「復讐できる道が、一つだけあるわ」




