14.「ルジェの悲劇」事件
冒頭はルジェ視点です。
***で視点が切り替わります。
コツ、コツ──
ルジェが床を踏みしめるたび、革靴の音が空気を裂いた。
ルジェはゆっくりとリリスに歩み寄る。リリスは逃げ場を失った小動物のように肩を震わせながら、一歩もそこを動くことができない。
「リリス……どういうことですか?」
名前を呼ばれた瞬間、彼女の全身がびくりと跳ねる。
視線の先にいるのは、いつも笑っていた優しい彼じゃない。怒りに満ちた、別人のようなルジェだった。
「ロザリアは『アイシャドウにはザビラを使っている』と言ったんですよね?」
「は、はい……! 貿易で取引している客を紹介する代わりに、素材名を教えてもら……」
「では何故、こんな事件が起きるのですか?」
ルジェはリリスの腹部を強く蹴りつけた。
「っ!」
鈍い音とともに、彼女はその場に崩れ落ちる。鋭い痛みが走り、苦しげに咳き込んだ。
倒れこんだリリスは、地面に手をつきながら涙目で見上げる。ルジェの目は血走り、激しい怒りで顔を歪ませていた。
パーティ当日、ロザリアが極度の疲労から倒れたと聞いていた。学園でのロザリアも明らかに疲弊していて、そばに仕えていた侍女も焦りや不安を隠しきれず、張り詰めた緊張感が滲んでいた。
ロザリアが追い詰められ、冷静さを失っているのは明白だった。
彼女はブランドを建て直すために利益を急ぎ、リリスの保有する「顧客リスト」に飛びついた。焦りの中で、ロザリアは素材名を漏らした──そう思っていたのに。
(まさかわざと……ザビラの名前を……)
ザビラはエルフェリア王国から遙か南の異国でしか採れない、希少な薬草だった。貿易商の娘であるリリスも化粧品会社の息子であるルジェさえも、名前を知らなかった。
ザビラを使った化粧品の試作工程は、ほとんど省いた。発表までのスピードが最優先だったし、限界に追い込まれたロザリアが口を滑らせたと確信していたからだ。
しかし待っていたのは──クレームの嵐とロレアの閉店だった。しかも問題はそれだけではない。
(ここぞとばかりに、サンベルク家が『素材偽装』の件で訴えてきた……!)
ルジェは苛立ちを隠しきれず、乱暴に髪をかき乱した。
「たとえ輸入した真珠を使用したとしても、あまりにも安価である。真珠の名を穢す偽装商品だ」とサンベルク家が訴えを起こした。輸入した真珠を使用した場合の適正価格の見積もりや、ロレアが王家に提出した帳簿の不自然な点など、多くの証拠を携えて。
(ヴァレンティーノ家と真珠独占契約を解除したいと言っていただろう? まさかそれも嘘だったのか?)
こちらを油断させるための罠だったと分かった瞬間、額に血管が浮いた。
サンベルク家の三男の顔がちらつく。無害そうに見えて、やることは狡猾だ。
タイミングは最悪だった。アイシャドウの事件の直後ということもあり、世論はヴァレンティーノ家とサンベルク家の味方に傾いていた。勝てる見込みは、極めて薄い。
ダミーの会社をいくつか噛ませていたとはいえ、ルジェの仕業だとバレるのも時間の問題だろう。もし負ければ、莫大な賠償金と失墜した信用が、ルジェに重くのしかかることになる。
「お前のせいだ……」
低く吐き捨てるような声が、部屋の空気を震わせた。
ルジェは怒りで血走った目でリリスを見下ろしている。
彼女は怯えきった目で、目線を外すこともできず、ルジェを見上げることしかできない。喉の奥で震えるような小さな音を漏らすが、言葉にはならなかった。
だが次の瞬間、ルジェは表情をがらりと変えた。口元に笑みを浮かべ、静かにしゃがみ込み、リリスの目の高さまで視線を下げる。
「ただな、お前が僕のために役立てる道が、まだ一つだけある」
「……! お、教えてください! わ、私! ルジェ様のためなら何だってします……!」
必死に懇願するリリスの前に、ルジェは一枚の紙を突きつけた。
「ここで働け」
リリスは紙に書かれた店名と仕事内容を見て、全身から血の気が引いていくのを感じた。目に涙を浮かべ、指先まで真っ白になる。
ルジェはそんな反応を見逃さず、釘を刺すように尋ねた。
「僕のために何でもできる、そう言いましたよね?」
「わ、私……っ!」
「嘘とは言わせねえぞ」
ルジェの声が一転して低くなる。
彼は何のためらいもなく、リリスの髪を乱暴に掴むと、その細い体を無理矢理引き起こした。リリスの顔が苦痛で歪み、かすれた声が喉から漏れ出る。
ルジェは冷たい目で彼女を睨みつける。
「一週間後の夜、屋敷を抜け出してこの場所まで来い
……逃げたらどうなるか、分かっていますね?」
淡々と告げられる脅迫の言葉。
リリスはその圧にあらがうこともできず、目から大粒の涙を流しながら、その場に崩れ落ちた。
***
「ミントティーです」
カップを差し出すと、ロザリア様は小さく首を左右に傾けた。
そして目の前の書類を眺め、静かにため息をつく。あまり表情は明るくない。
今、ロザリア様の手元にあるのは、セルドア様が用意した調査資料である。そこにはリリス・グレモアと関連する人物がリスト化されている。
ロレアの閉店から二週間、ロザリア様と私はまずリリスの調査からはじめた。「ザビラという素材をリリスに教えた」という証拠だけでは、追い詰めるには弱い。そのためまずは彼女の周辺を洗い出し、関係者や資金の流れなど、ひとつひとつ地道に情報を集めていた。
「これだけの人物を洗い出すとなると、時間がかかるわね……」
同意するように頷く。
リリスは貿易商の娘ということもあり、関わっていた人物も膨大だったのだ。ロザリア様はぽつりと呟く。
「せめて数人に絞れたらいいんだけど」
ロザリア様の声に悔しさが滲んでいて、私もやりきれない思いになる。リリスが犯人だと分かっているのに、追い詰めることができない。そんな苛立ちがじわじわと心を締め付ける。
私はふと、ロザリア様が広げていた資料に目を落とす。するとある人物の名前が目に飛び込んできた。
(ルジェ・モンフォール……!)
思わず心の中でその名を反芻し、背筋に冷たいものが走った。
原作の記憶が浮かび上がる。
ルジェ・モンフォールははじめ、アランの恋敵のような役回りで登場した。
整った顔立ちと丁寧な言葉遣い、どこかミステリアスな雰囲気。ファンになる読者も多く、「アラン派」か「ルジェ派」かとSNSではよく議論されていたほどだ。
しかし──
小説の最新刊で、信じられない事実が浮き彫りになる。
ルジェがとんでもないクソ男ということが発覚してしまったのだ。表向きは礼儀正しい好青年。実際には、自分の利益のためなら手段を選ばず、他人を踏みにじることに一切の躊躇がなかった。しかも彼のとった手段が、女性の尊厳を傷つけるような悪質なものだったのだ。
(ルジェの悲劇……忘れもしない……)
ルジェ界隈にいたフォロワーたちは、理想を裏切られ、キャラクター像が一瞬で崩れ去ってしまった。
大手SNSであるトリッターは阿鼻叫喚の嵐に包まれた。
削除アカウントが相次ぎ、日に三十回以上ルジェを称えていたフォロワーも、音も無く姿を消した。まるで集団失踪のような異常事態が発生した。
中には自作の同人誌を破いて写真を投稿する者も現れ、さらに一部の過激派は「作者に抗議を」と書き直し運動を展開するまでに至った。
つまり、とんでもなく炎上したのである。
あの騒ぎは「花キミ」界でも有名で、「ルジェの悲劇」と呼ばれている事件だった。
悪意ある噂の流出、ブランドの模倣……悪質な手口の数々に、私は確信する。
(間違いない。この事件、ルジェが必ず絡んでいる……!)
「ロザリア様」
「何?」
「このルジェ・モンフォールという男の調査を、私に任せてもらえませんか」
「……? まぁいいけれど。メントリア派の一員で、いずれは調べようと思っていたし」
ロザリア様の許可は下りた。
あとは原作で得た知識を持って、調べれば──きっと出てくるだろう。ルジェがやってきた全てが。
*
五日後──。
「ルジェ・モンフォールの調査報告書です」
「随分と早いわね」
「さらに今回の事件、ルジェが絡んでいる可能性がかなり高いです」
ロザリア様の目が驚愕で広がった。
彼が過去に何をしてきたのか、私は原作を通して把握していた。そのため、今回の調査も苦労することなく終わった。そして予想通り、ロレアに関わる証拠もいくつか出てきた。
ロザリア様がページをめくるたび、表情が徐々に険しさを増していく。そして資料を読み終え、吐き捨てた。
「クソ野郎ね」
「同感です」
原作を読んだときも、彼の行動に強い嫌悪を覚えた。だがあのときは、それがフィクションだと割り切れたからまだよかった。
しかし今は違う。この世界に生きる人々は、感情を持ち、傷つきながらも日々を過ごしている。そんな現実の中で、ルジェの醜悪な所業が実際に起こっている。胸の奥にどす黒いものが溜まり、吐き気さえも感じた。
ロザリア様は書類に書かれた店名をトントンと指さし、口を開く。
「おそらくリリスは、この店で働くよう指示されているわね」
「はい」
「ここへ行くのがいいかしら」
「そう思いまして、セルドア様を通じて、店のオーナーに面会の許可を得てもらいました」
オーナーからの手紙を手渡すと、ロザリア様は満足げに笑った。
「行くわよ」
「はい」
瞳に覚悟を宿し、ロザリア様は立ち上がる。次の一手を打とうとする女王の後を、私は追った。




