12.チェックメイト
(何を話してるんだろう……)
ロザリア様のすぐ背後にいる私にさえ聞こえないほど小さな声だ。会場のざわめきが、言葉の輪郭を曖昧にしている。必死に聞き耳を立てるが、やはり断片的にしか聞こえない。
するとロザリア様は「……分かりました」と頷いた。
「……と……素材……です」
「……! はじめて……ましたわ」
リリスの目が、ふいに大きく見開かれた。
ほとんど周囲のざわめきでかき消されてしまったが、「素材」とロザリア様が言っているのは聞こえてきた。私の背中に一筋の汗が流れる。
(まさか、素材名を明かしたの……?)
一瞬浮かんだ最悪の可能性を、頭の中で追い払う。
あんなことがあったのだ。素材を簡単に明かすはずない。自分にそう言い聞かせ、落ち着かせる。
一方、ロザリア様の答えにリリスは満足げに微笑み、その場を去って行った。
パーティも中盤に差し掛かっていた。
会場の空気は暖まっていたが、私はそれどころではなかった。
ロザリア様の顔色が悪い。会話の合間で、何度か肩で息もしている。
元々、体調が万全ではなかったのだ。そのうえ立ちっぱなしで、笑顔を保ち続けていれば、疲労が蓄積するのも当然だった。
(少し、お休みになった方が……)
そう声をかけようとした瞬間だった。
ロザリア様の体が、ぐらりと揺れた。
「ロザリア様!」
ロザリア様の体が力を失い、地面に倒れ込む。乾いた衝撃音が響き、周囲の誰かが小さく悲鳴をあげた。
気づけば足が勝手に動いていた。ロザリア様の傍に駆け寄り、膝をつく。
血の気が引いていく。息がうまくできない。
震える声で、何度もロザリア様の名前を呼んだ。
(落ち着け、まず医師を、)
(どうしよう、ロザリア様、死なないで、)
(大丈夫、落ち着け)
思考が嵐のように頭を駆け巡る。呼吸が浅くなり、視界がぐにゃりと歪んだ。
このままロザリア様が、もし目が覚めなかったら、私は、私は──
「……っ!」
右手で自分の腕を、思い切りつねる。鋭い痛みが、思考の渦を断ち切った。
(落ち着け。今は、私が動かないと……!)
私は顔をあげて、周囲を見渡した。
メイドに向かって声を張り上げる。
「医師を連れてきて!」
私の叫びに、メイドは頷いて慌てて屋敷へと向かっていった。
倒れたロザリア様を、祈るような気持ちで見つめる。
痩せこけてしまった頬、血の気のない肌、かさついた唇──
見るからにやつれてしまった姿に唇を噛みしめる。悔しさで喉が焼けるようだった。
その瞬間、招待客のざわめきが耳に届いた。
「……あんなことがあったからね」
「この間の騒ぎで、相当焦っていたんでしょう?」
「新商品なんて無理して出さなきゃよかったのに……」
それはロザリア様への容赦ない非難だった。
怒りが体の奥で煮えたぎった。怒鳴り返したい気持ちが、喉元までこみ上げてくる。
しかし私は唇を噛み、必死に堪えた。ここで私が感情的に動けば、ロザリア様の名誉に泥を塗ることになる。
(どうか、この声がロザリア様に届きませんように……!)
私は祈りながら、彼女の細く冷たい手を握った。
*
パーティが終わり、生きた心地がしない日が続いていた。
ロザリア様は体調を崩しがちになり、学園を休む日が続いた。久しぶりに学園へ通えば、ブランドについて噂される。陰で囁かれる声は、日に日に鋭さが増していた。
そして私のもとにも、詳しく聞こうとする貴族が増えた。前と同じように追い返してはいるのだが、不安や焦りが顔に出ていたのだろう。「大変そうねぇ」と嫌な笑いと共に、皮肉をぶつけられることもあった。うまく演技ができない自分が情けない。
そして、一ヶ月が経ったある日のこと。
私は、三番地にある店の前で呆然と佇んでいた。
「ロレア」と掲げられたレンガ造りの店。店舗に飾られた看板には、「新作の真珠入りアイシャドウ発売!」と書かれている。
「中で試したけど、すごく発色がいいの!」
「真珠入りでこの値段ならこっち買うよね」
店から出てきた女性たちは、手にした紙袋を揺らしながら、無邪気に笑っている。
怒りが全身を駆け巡る。今すぐ暴れてやりたかった。この偽物だらけの店を、跡形もなく壊してやりたかった。
激しい怒りのあとにやってきたのは──恐怖だった。
地面に倒れ、二度と目を覚まさないロザリア様を想像してしまい、私の目に涙が浮かぶ。
(またロザリア様が──)
ルストレアの店舗までの道を、私はほとんど無我夢中で走っていた。
今日は休業日のため、裏口から入る。そしてロザリア様とダミアンがいる部屋へと向かい、扉を開けた。そして机の上に置かれていたものを見て、ひゅっと息を呑む。
紛れもない、ロレアのアイシャドウだった。
「そ、それ……」
私は震える声で、アイシャドウを指さす。
先ほどまでの怒りと悲しみが混ざり合い、心臓が嫌な音を立てる。
だが激しく動揺している私とは対照的に、ロザリア様とダミアンはチェスを続けていた。まるで机の上のアイシャドウが、何の問題もないかのように。
思わず声を張り上げてしまう。
「ろ、ロザリア様……! なぜそんなに冷静で……!!」
「冷静じゃないと、奴らを仕留められないからよ」
ゆっくりと指先でクイーンをつまみあげたロザリア様は、迷いなくダミアン側のキングの前へと駒を運んだ。そして薄く笑ったロザリア様は、静かに勝利を宣言する。
「チェックメイト」
お待たせしました。
次回から反撃です!




