11.深紅のルージュの執着
冒頭はルジェ視点です。
***で視点が切り替わります。
薄暗い部屋の中、ルジェはワイングラスを傾けた。芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、彼は満足そうに笑う。
ソファーには少女が寝転んでおり、頭をルジェの膝の上に預けている。彼は猫に触れるように、優しく彼女の頭を撫でた。
「パーティへの潜入、見事でしたよ」
「ルジェ様に喜んでいただけるなら、何でもしますわ」
少女──リリス・グレモアはうっとりと答えた。
リリスは頭を撫でられる至福を味わいながら、目を細める。
グレモア家次女であるリリス・グレモア。
彼女は幼い頃から、美貌で知られる姉といつも比較されていた。
「陰気」「地味女」「姉は美人なのに」
そんな言葉を浴びせ続けられた少女は、いつしか厚い前髪で顔を覆い、俯いて生きるようになった。
そんな彼女に、化粧という魔法をかけたのはルジェだった。
「この赤は、君にだけ許された色。他の誰も知らない、特別な色」
真っ赤なルージュを唇に彩りながら、ルジェは甘く囁く。
リリスは鏡に映った自分の姿に、信じられないと見開きながら見つめた。
彼女は呆然とルジェを見上げると、彼はきれいな微笑みを唇に象った。リリスの頬が真っ赤に染まっていく。
リリスがルジェに心奪われた瞬間だった。
その日から、彼女の人生はルジェのものになった。命令には絶対服従。どんな仕事も、彼のためなら喜んで引き受けてきた。
ルジェは満足げに、ワインを一口含む。
「……くく、ロザリアも随分とやつれていましたね。そのまま壊れてくれたら楽なのに」
低い笑い声が、薄暗い部屋に響き渡る。
リリスは恋する乙女のような表情で、彼を見上げている。ルジェの喜びが、自分の幸せであるかのように。
「ロレアの商品、素晴らしかったですわ」
「モンフォール家の技術を使えば、造作もありませんよ」
ルジェは唇を歪ませる。
モンフォール家は、古くから化粧品業界で名を馳せてきた家だった。
技術も資金も豊富にあり、「ロズ商会」のパウダーに似た製品を作ることも、リリスが持ち出した容器と酷似したパッケージを作ることも難しくはなかった。パウダーに真珠など入っていなかったが、客たちは面白いほどに騙されてくれた。
そのときリリスが体を起こし、思い出したように言った。
「ロザリアがまたパーティを開き、新商品を披露するみたいです」
「また? 懲りないですね」
「それほど焦っているのでしょう」
痩せ細ったロザリアを思い浮かべて、ルジェはなるほどと頷いた。
ダミアン・サンベルクが、ヴァレンティーノ家との真珠独占契約の解消を検討しているという噂も入ってきている。計画は順調だ。
だが、まだ足りない。もっと苦しめなければ。完膚なきまでに叩き潰さなければ。そうすれば……
「あの……」
甘美な想像をしていると、リリスの声で遮られた。彼女は頬を赤らめ、何かをねだるような目をしている。
ルジェは彼女の期待に応え、唇にそっとキスを落とした。
唇が離れると、リリスはわずかに唇を開き、もう一度と言いたげに息を吐いた。恍惚とした表情で、彼を見上げている。
しかしルジェは、指先でそっと彼女の唇に触れた。
「……続きは、ロザリアの新商品を持ち帰ったときに」
「はい……」
残念そうに呟いたが、すぐにまた微笑む。褒美への期待が、目の奥で光っていた。
そんな彼女にルジェは微笑みを返す。リリスは満足そうに笑みを浮かべ、軽い足取りで部屋を出て行った。
彼女の足音が遠ざかり、完全に消えたことを確認してから──ルジェは乱暴に唇を拭い去った。
「馬鹿な女だ」
吐き捨てるように言い、唇を歪ませる。ルジェにとってリリスは、ただの便利な駒でしかない。利用価値があるから、飼っているだけだった。
ルジェは懐から、ロケットペンダントを取り出す。カチリと蓋を開けば、中にはフィローレの肖像画がおさめられていた。甘い香りがふわりと漂う。フィローレをイメージして調合した香りだった。
「誰よりも美しい。僕だけの女神」
ルジェは陶酔しながら、小さな肖像画に唇を押し当てた。
「必ず約束を果たします。ロザリア・ヴァレンティーノの全てを破壊し、全て奪い取って見せます。あなたの手を、汚しはしません」
歪んだ忠誠心を滲ませながら語りかける。
肖像画のフィローレはやわらかに微笑んでいる。
「そしたらもっと褒めてくれますよね、フィローレ様」
***
新商品披露のパーティ当日。
空は重く、庭園の上には分厚い雲が垂れ込めていた。
今回招かれた客は前回と同じだったが、会場の空気は明らかに異なっている。
みな、「ルストレア」で起きた騒動を察しているのだろう。口元には笑みを浮かべていても、どこか遠慮と戸惑いが見え隠れしていた。
ロザリア様は招待客の前で堂々と立ち、挨拶を述べたあと、新商品の紹介をはじめた。
「真珠入りのアイシャドウ」という言葉を発した瞬間、会場に小さなどよめきが広がる。ロザリア様は説明を続けた。
「こちらの商品には特別な素材を調合しております。ルストレアが試作を重ねて、ようやく辿り着いた素材です」
「企業秘密ですが」と付け加えた瞬間、招待客がいっせいに落胆の表情を浮かべる。
発表が終わると、ロザリア様のもとへ招待客が集まってきた。彼女のまぶたを彩るアイシャドウを見て、感嘆の声をあげる。
「とても発色がいいのですね!」
「えぇ、調合した素材のおかげですわ」
今回の新作は、ゴールドとパープルの二色展開だ。
今、ロザリア様が纏っているのはゴールドのアイシャドウだった。肌の上で輝くパウダーは、一目で分かるほど発色が良く、微細なグリッターが遠目からでも美しく輝いていた。招待客の視線が自然と吸い寄せられている。
しかし化粧で整えてはいたが、ロザリア様の疲労は隠しきれていなかった。
顔色は青白く、頬はセルドア様と食事したときよりも明らかにこけている。眠れない夜が続いているのか、目の下には濃いクマが浮かんでいた。
さらに今日は天気も悪く、気圧も低い。
ただ立っているだけでも、体は鉛のように感じているだろう。
(ここにいる誰かのせいで……)
私は会場に集まった招待客たちを見渡した。
笑顔で談笑している人、感嘆の声を漏らす人、みな新商品のアイシャドウに心を奪われ、満足げに頷いている。
けれどこの中に、ロザリア様の努力を踏みにじり、ブランドを台無しにした張本人が混じっているのだ。
そう思うだけで、胸の奥がひどくざわついた。私は拳を握り締める。
(絶対に許さない……!)
怒りを胸に、私は会場の様子を見つめ続けていた。些細な変化すら見逃すまいと警戒を強める。
すると、リリスと父親が近づいてくるのが目に入った。
二人とも笑顔を浮かべながら、新作アイシャドウを賞賛する。ロザリア様も穏やかに答えており、特に不自然な様子は見られなかった。
だがその時、リリスの父親が声を潜めて言った。
「……先ほどの特別な素材っていうのは、一体何なんですかな?」
彼が静かに問いかけた瞬間、ロザリア様が纏う空気が一瞬だけ張り詰めた。私も息を呑み、答えを待つ。
けれどロザリア様は慌てる様子もなく、ほんの少しだけ首を横に振った。そして落ち着いた口調で、言葉を選ぶように微笑む。
「それは企業秘密ですので」
「はっはっは、失礼失礼。いやあ、スパイスや薬草を扱ってるもんだから、どうも成分の方が気になってしまってね」
ロザリア様はにこりと笑みを浮かべる。その後も和やかに談笑し、二人は去って行った。
胸を撫で下ろしたのもの束の間、リリスが急に踵を返し、ロザリア様のもとへ戻ってきた。
そして何か小声で囁いている。ロザリア様はそれを聞いてわずかに眉をひそめ、考え込むような素振りを見せていた。




