10.偽物のブランド
「落ち着いたかい?」
「ず、ずみまぜん……」
ルストレア店舗の奥にある控え室で、私は声を涸らしながら答える。
机の上にはルストレアの新商品とよく似た容器と、「Rorea」と書かれた紙袋があった。
しゃくりあげる私の隣で、ロザリア様は沈黙を貫いていた。偽物を手に取り、じっと考え込んでいる。しかし商品を持つ手がわずかに震えていることに気づいてしまい、私の胸は激しく痛んだ。
「状況を整理しましょう」
ダミアンは口を開いた。いつもの穏やかさは消え、鋭い声色になっている。
「王都の三番地で『真珠入りパウダー』が販売されていた。価格は我々の四分の一」
私は頷く。
ロレアを前にし、崩れ落ちた私。偽物だと叫んでやりたい衝動を、必死に抑え込んだ。
(落ち着け。泣き喚くことはいつでもできる。私が今やるべきことは……!)
震える足で立ち上がり、店に入って商品を購入し、店員との会話から情報を引き出した。そして急いで報告に戻ったのだ。
ロザリア様は感情を殺した顔で、商品を眺める。
「容器の形は似せてあるけれど、素材が明らかに安物だわ。それに……」
ロザリア様は蓋を開け、指先でパウダーをなぞった。
それを手のひらに塗り、光に当てながら観察する。
「真珠特有の艶がない。本当に入っているのかしら」
「そこなんです」
ダミアンは深刻な表情で頷く。
「エルフェリア王国の真珠の産地はポルーノに限られています。さらに、我々が独占している。輸入コストを考えると、こんな価格設定は不可能です」
「つまり虚偽の内容だと?」
「はい」
「訴えましょう!」
私は思わず立ち上がり、叫んだ。
この商品は、ロザリア様が何ヶ月も考え抜き、ようやく形にした魂の結晶だった。ブランド名とロゴデザインに悩んでいた夜。商品開発のための試行錯誤の日々。その一つ一つを間近で見てきた。どれだけの想いが込められているか、私が一番知っている。
それを偽物で潰されたことが何よりも悔しくて、腹立たしい。
しかしダミアンは首を横に振る。
「この商品の購入者は満足していた……そう言っていたね?」
ダミアンの問いに、私は唇を噛みしめながら頷く。
店に群がる令嬢たちの姿が、脳裏に焼き付いていた。今まで高くて手の届かなかった真珠入り化粧品を、ついに手に入れた──そんな満足感で輝いていた。
私とロザリア様を静かに見据えながら、ダミアンは説明する。
「販売停止になれば、怒りの矛先は『ルストレア』に向きます」
「なっ……! 偽物を売ったのはあちらなのに……!」
「最悪のケースは、微量でも真珠が入っていた場合です。裁判で負ければ、信用を失うのは──こちらです」
重苦しい空気が、部屋を押し潰す。誰も口を開くことができない。
やがて、ロザリア様が口を開いた。
「……パーティの誰かが盗んだ、というのが濃厚かしら」
ダミアンは頷く。
「おそらく。ただ三十人の参加者から犯人を特定するのは……」
「……」
「さらに新商品発表から日が浅い。最初から情報を盗む目的で潜入した可能性があります。その場合、証拠を掴むのは困難です」
「万事休すね……」
椅子にもたれかかり、ロザリア様は腕で目元を隠した。
「こちらが本物なのに、後から出せば盗作と言われる」
疲れ果てた呟きには、深い絶望が滲んでいた。
偽物が先に市場に出てしまった今、どんなに説明をしても「盗んだ」と思われてしまう。
ロザリア様の肩が震えている。泣いているのか、怒りなのか。どちらにしても彼女がここまで弱った姿を見るのは初めてだった。
「私がどれだけ──」
言葉が喉元で止まり、ロザリア様は唇をきつく閉じた。張り詰めた沈黙の中、噛み締めた奥歯の音が響く。
──だが次の瞬間、ロザリア様はゆっくりと顔を上げた。
ロザリア様の赤い瞳は、怒りで燃えていた。
「……誰であれ、私たちを踏みにじった時点で、敵よ。容赦はしない」
凛とした声が、静寂を切り裂いた。
ロザリア様の視線が、テーブルの上に置かれた化粧品へと鋭く向けられる。
彼女の言葉に、私とダミアンは強く頷いた。
*
二週間後。
ヴァレンティーノ家の夕食は、重苦しい沈黙に包まれていた。カトラリーの音だけが、静まり返った食堂に響く。
セルドア様は肉厚のステーキを、洗練された所作で切り分けていた。一方で、ロザリア様の前にはスープしか置かれていない。ただ静かにスプーンを動かし続けている。
私はロザリア様の横顔をちらりと眺めた。
この二週間で、ロザリア様は随分とやつれてしまった。
元から細身だったのにさらに痩せてしまい、ドレスもサイズが合わなくなってきていた。目の下には深いクマができ、頬はこけて影ができている。
どれも全て「ロレア」のせいだった。私は拳を握り締める。
(あんな偽物のせいで、ロザリア様が……!)
「ルストレア」は新店舗をオープンしたものの、肝心のパウダーは販売できなかった。信用の失墜を避けるための、苦渋の決断だった。
新商品を目的に来店した令嬢たちは、露骨に不満を口にした。
さらに学園での立場も悪化の一途を辿っていた。「新商品、出せなかったんでしょう?」と口々に囁かれる日々。期待を裏切られた人々の怒りは想像以上に大きく、日を追うごとに、ロザリア様は見るからにやつれていった。
そんなロザリア様を見かねたのだろう。
セルドア様が突然、食事の提案をしたのだ。普段は親子で食べる機会などなかったので、セルドア様なりに気を遣ってくれたのだろう。
セルドア様はナプキンで口元を拭き、名前を呼んだ。
「ロザリア」
「はい」
「ロレアの件、潰すこともできる」
「……!」
ロザリア様の目が見開いた。僅かに瞳に光が戻る。
「あそこの土地は地主に貸しがある。やや強引にはなってしまうが……必要なら、動かすぞ」
セルドア様は真剣な顔でロザリア様を見つめていた。彼女が頷けば、すぐにでも実行するという決意が滲んでいる。
ロザリア様は、膝の上で小さく拳を握り締める。細い指が震えているのが見えた。
彼女の中で、様々な感情が複雑に交錯していたのだろう。ぎり、と何かを堪えるような音が耳に届いた。
やがて、ロザリア様は静かに息を吸い込んだ。
背筋を伸ばし、そして──ゆっくりと、首を横に振った。
「お言葉、感謝します。でも、無理に潰せば角が立ちます」
「……」
「ロレアがいくら悪質でも、力に頼って消したとなれば、疑念は私たちに向くでしょう──信頼は、力では取り戻せません」
ロザリア様は毅然とした声で告げた。
セルドア様はわずかに目を見開き、「そうか」と静かに頷く。
再び食堂には沈黙が落ちたが、先ほどの息苦しさはなくなっていた。
ロザリア様の肩から力が抜けている。父親が自分の味方でいてくれる。その事実が、彼女の心を軽くしてくれたのかもしれない。
ロザリア様は話題を変えるようにして、口を開いた。
「『ノワール』の件は順調なのですか?」
「あぁ。場所も抑えたし、酒も取りそろえたが……従業員の教育が課題だな。ま、こればかりはな」
「ノワール」はセルドア様が新しく計画している、貴族専用の社交場だった。
表向きは、爵位持ちか招待された者しか入れない会員制のバーである。特別な空間で酒を提供し、貴族たちが本音を語り合う空間を作ろうとしていた。
今まで運営していた「カゼッタ」は庶民向けの酒場だったので、全く別のスタイルである。
「カゼッタ」は安酒を飲みながら、主人の悪口や屋敷の裏話が飛び交う。ただ酒が入った人の話は誇張や嘘も多く、信憑性は低い。情報の質より量を重視する場所だった。
セルドア様は二つの情報源を持つことで、より正確な情報網を築き上げようとしていた。
「貴族が客となると、給仕する側にも品格が求められる。教養もマナーも一流でなければ話にならん。が、中々見つからんな」
ロザリア様が相づちを打つと、セルドア様はワイングラスをくるりと回した。ルビー色の液体が、グラスの中で踊る。そして一口だけ含み、満足そうに微笑んだ。
「やはり良い酒は違うな。ノワールに来た客も、きっと口が軽くなる」
「ふふ」
セルドア様の上機嫌な姿に、ロザリア様は口元をほころばせた。久しぶりに見るやわらかい表情だった。
彼はワイングラスをテーブルに置き、ロザリア様をまっすぐに見つめた。
「ノワールの件は順調だ。お前も遠慮せず、必要なときは言え」
「ありがとうございます」
そしてセルドア様は立ち上がり、食堂を去った。
食堂には、私とロザリア様だけが残された。空になったスープ皿を見て、少しほっとする。せめてフルーツでも、と提案しようとした瞬間、ロザリア様が口を開いた。
「ソレイユ」
「はい」
「新商品を披露するパーティを開くわ」
「え……」
声が漏れた。
信じられないという気持ちでロザリア様を見るが、彼女は真剣な表情だ。
「このまま黙っていれば『ルストレア』というブランドが偽物に負けたことになる。私は、戦うわ」
「せ、せめて今回は披露せず、新商品を店舗で販売した方が……!」
「あのパーティに招いた方々は、ヴァレンティーノ家にとって重要な取引相手なの。その方たちに見せず、一般客に向けて新商品を披露してしまったら『自分たちは軽んじられた』と思われてしまう。
そんなことになれば、ヴァレンティーノ家の信頼は大きく揺らぐ」
「悪質な一人のために、他の信頼関係まで壊すわけにはいかないのよ」とロザリア様はそう静かに言い切った。その言葉には確固たる意志が宿っている。
私は最悪の未来を想像してしまい、思わず言葉が漏れてしまう
「でも、また……」
「盗まれてしまうかも」という言葉は出なかった。言葉にしなくても、私の不安は伝わったらしい。
彼女は力なく微笑んだ。疲れ果てた顔に、かすかな笑みを浮かべる。
「怖くないといえば嘘になる。でもそれ以上に『ルストレア』が負けてしまう方が、怖い」
ロザリア様は強い人だ。……いや、強くあろうとする人だった。
どんなに心が傷ついても、立ち上がろうとした。孤独で泣きそうな夜が続いても、歯を食いしばり乗り越えようとした。婚約破棄の時も、偽ブランドに妨害された時も、いつもそうだった。
この人は、どこまで自分を追い詰めるのだろう。折れそうなほど細い体で、どこまで戦い続けるのだろう。
背筋がぞっとする。震える腕を手で抑えた。
(このまま頑張ってしまったら、ロザリア様は壊れてしまうかも……)
ある一つの可能性に思い当たる。
もしかしたらパーティは中止させるべきかもしれない。ロザリア様に嫌われてもいい、侍女をやめさせられてもいい、彼女のためにも無理にでも──
その瞬間、ロザリア様は私をまっすぐに見据えた。
「着いてきてくれる?」
「……っ、ずるいです……そんな風に言われたら、断れるわけないじゃないですか」
涙混じりの声で抗議してしまう。ロザリア様は微笑んだ。
疲れ切った顔に、優しい笑みが浮かぶ。
「最後まで、お供いたします」
今度は絶対にロザリア様を守り抜く。そう誓いながら、私は頭を下げた。




