7.二人の女神
「***」で視点が切り替わります。
その後、「突っ立っているくらいなら、軽食持ってきなさい」とキツめの声で命じられ、私は慌てて厨房へ向かった。
ホットミルクとナッツの入ったクッキーをトレイに載せ、部屋へ向かう。
(少しは休憩してもらえるといいんだけど……)
ロザリア様の部屋に到着する。扉をノックしたが、返事は無い。そろりと開けると、ロザリア様は窓際に腰掛けて、深い思考の海に沈んでいた。
窓から差し込む月の光が、ロザリア様を照らしている。
紫色の長い髪が夜風に揺れ、銀の光を帯びてやわらかく流れ落ちていた。赤い瞳は静かな光を宿し、ルビーのような深い輝きを放っている。白い肌は月光に照らされ、ほのかに青白く光っているようだった。
この世のものとは思えない美しさに見惚れながら、ぼそりと呟く。
「女神……」
「……何突っ立ってるの?」
「! すみません!」
急いでロザリア様の元へと向かい、トレイを置く。
クッキーを一口だけ口にして、窓の外に目を向けた。月光に照らされた庭園を、じっと見つめている。そして懐かしむような声で言った。
「女神、か……。そういえば『アストレイヤの会』からもう半年が経つのね」
「色々あったせいか、遠い昔のことみたいです」
私もロザリア様と同じ方向に視線を向ける。月が浮かぶ夜空を、二人で見つめた。
この国で崇められる女神アストレイヤ。教会派はもちろんのこと、国民のほとんどが彼女を信仰している。
火、水、風、大地──この世界を形作るものすべてに、アストレイヤの力が宿ると信じられていた。学園最大のパーティの一つに、アストレイヤの名前が冠されていることからも、その信仰の厚さが窺える。それほどまでに女神への信仰は、この国の人々の生活に深く根付いているのだ。
「ロザリア様にとって、アストレイヤ様はどんな存在なのですか?」
「どんな存在……難しいわね」
「そうね……」とロザリア様は考え込み、思考を整理するように言葉を紡いでいく。
「『常に共にある』というのが一番近いかしら」
「常に共に……」
「えぇ。この国の貴族たちはアストレイヤ様の福音書を暗唱できるでしょう?」
「絶望の夜に、必ず暁は来る……でしたっけ」
「懐かしいわね」
ロザリア様はふっと目を細めた。
この国の貴族たちは、子供の頃から福音書の一節を叩き込まれる。
ソレイユも同様のようで、今も呼吸のように自然に一節が出てきた。
貴族に限った話ではない。貧しい平民でさえ、教会の礼拝は欠かさない。そこで聞く説教や賛美歌を通じて、おそらく同じように言葉を暗唱できる人も多いだろう。この国に生まれた者の、共通言語のようなものだった。
「苦境に立たされたとき、アストレイヤ様の言葉を思い出すわ。国の礎を築いた女神の言葉が、私を導いてくれるの。そういう意味で『常に共にある』という感覚が一番近いわね」
ロザリア様はそう締めくくった瞬間、はっと何か気づいたような顔になった。
そして物凄いスピードで紙に何かを書いていく。ペンが紙を走る音だけが、部屋に響き渡った。
その鬼気迫る表情に私は圧倒され、ただ黙って見守ることしかできない。
十分ほどが過ぎ、ロザリア様の手がようやく止まった。ふうと深く息を吐き、髪をかきあげる。
そしてもう一度、紙に書かれたブランド名を眺め、一度だけ頷いた。確信に満ちた表情で呟く。
「決めたわ」
***
「クソッ!!!」
ルジェはテーブルを蹴り上げた。ガン!と大きな音が部屋に響く。それでも苛立ちを抑えることができず、薄暗い部屋を歩き回る。
脳裏に浮かんでいたのは、フィローレから与えられた課題だった。
『ロザリア・ヴァレンティーノの印象を地に落とすこと』
ルジェはすぐさま実行に移した。
「ロザリアがアランに執着している」
その噂を、メントリア派の生徒を中心に噂を流したのだ。火は想像より大きく燃え上がった。
真珠ビジネスで損をした貴族の恨み、公爵令嬢への劣等感、ロザリアの美貌や才能への妬み──様々な負の感情が油となり、巨大な炎にしてくれた。これならフィローレの満足いく結果になるだろう、そう思っていたのに。
(おかしい……あの女は、もっと短絡的で、感情的な女だった)
ルジェは計算が狂ったことに焦っていた。
一度だけでいい。感情を爆発させてくれれば。噂に対して激怒し、みっともなく弁解する姿を見せてくれれば良かった。
そうすれば「図星だから怒るのだ」と、噂は真実として定着しただろう。
しかしロザリアが選んだのは──徹底的な沈黙。
(どういうことだ? でっち上げの噂を広められ、格下の連中に侮辱されているんだぞ? どうして平然としていられる?)
ルジェは激しく髪を掻きむしり、苛立ちをぶつけた。
やはり証拠が何もない噂は弱い。二ヶ月も経つと、ロザリアの噂話など誰も口にしなくなってしまった。飽きられ、忘れられ、過去の話になってしまった。
それどころか、疑いの矛先が変わり始めていた。
「本当にロザリア様に非があったのか」「むしろ被害者では」と同情を寄せる者まで出てきた。計画は完全に失敗に終わった。
「このままでは……フィローレ様に、嫌われてしまいます……」
駄目だ、それだけは、僕だけの女神、僕の全て──
膝から力が抜け、床に崩れ落ちた。フィローレから見放される恐怖で、吐き気がこみ上げてくる。あの美しい顔に、失望の色が浮かぶなんて耐えられない。
その時、一人の女の顔が浮かんだ。
「……大丈夫、大丈夫です。まだ策は、あります……」
ルジェは震える足で立ち上がり、窓へ向かった。カーテンを乱暴に引き開ける。
月のない夜だった。漆黒の闇が世界を覆っている。その暗闇に向かって、憎しみを込めて吐き出した。
「ロザリア・ヴァレンティーノ。お前を必ず、地獄に落としてやりましょう」




