5.あなたが生きている
庭園は静寂に包まれていた。人の気配はなく、噴水の流れる音だけが響いている。
春めいてきたとはいえ、まだ夜風は冷える。ロザリア様はどこだろうと探していると、噴水近くのベンチに座っているのを見つけた。一人、ぼうっと宙を見つめている。
その表情は普段のロザリア様らしくない、魂の抜けたような表情だった。令嬢たちの噂話やダミアンの姿を思い出し、私はジャケットを脱いだ。せめて寒さからは守ってあげたかった。
「冷えますので」
「えぇ……」
ジャケットをロザリア様の肩にかけると、彼女はそっとまぶたを閉じた。
かける言葉も見つからず、私はロザリア様の隣で噴水を眺めた。水の音だけが、二人の間の沈黙を埋めている。
「……変なのよ」
不意に、ロザリア様が口を開いた。
彼女は独り言のように言葉を紡いでいく。
「貴族たちの噂など何も気にしていない。強がりじゃなく、本心よ。そんなことで傷ついていたら、とっくに壊れているわ」
淡々とした口調に、諦観が滲んでいた。
私は膝の上に載せた拳をぎゅっと握った。爪が手のひらに食い込む。
「気にしていない」と言えるまでに、ロザリア様はどれほどの悪意に晒されてきたのだろう。何度も何度も傷つけられて、そのたびに立ち上がって、心に鎧をまとうことを覚えた。その過程を思うと、胸がひどく痛んだ。
ロザリア様の言葉は続く。
「だけどダミアン様が、もし……あの噂を信じていたらと思うと、苦しくなるの」
「それ、は……」
「きっとこの気持ちは──」
その時、近くから足音がした。
顔を上げた私は息を呑んだ。いつから聞いていたのだろう。ダミアンのグレーの瞳は、じっとロザリア様を見つめていた。
「ロザリア様」
ダミアンの呼びかけに、ロザリア様の肩がぴくりと動いた。
彼女はゆっくり立ち上がると、肩にかけていたジャケットを脱いで私に渡した。そしてダミアンと向き合い、ドレスの裾を小さく持ち上げ、優雅に礼をする。
先ほどの物憂げな様子は見せていない。公爵令嬢の仮面を完璧にかぶり直している。
だが、私には見えた。裾を掴む指先が、かすかに震えているのを。
「ご機嫌よう、ダミアン様」
「来てらっしゃったんですね」
「えぇ、真珠のアクセサリーの宣伝で」
ロザリア様の答えに、ダミアンは納得したように頷いた。
沈黙が庭園に満ちる。息を吸うことさえ苦しい沈黙だった。
やがて、ロザリア様が口を開いた。
「パーティ会場で、私についての噂を聞いたかと思います。ですが、あれは……」
声が途切れる。ロザリア様の声がどんどん弱々しくなっていく。
呼吸が乱れ、喉が締め付けられたような、かすれた声になる。
本当に信じてもらえるだろうかという不安が、声に滲んでいた。
「あの噂は……すべて、偽りで……決して私は」
「ロザリア様」
ロザリア様の言葉を、ダミアンは優しく遮った。
彼女はおそるおそる顔をあげる。そこにいたのは、少しだけ怒ったような表情を浮かべたダミアンだった。
「あのような噂を信じる男に見えましたか?」
その問いかけに、ロザリア様の目が見開く。
ダミアンは彼女の前まで近づき、ふっと笑った。悪戯めいた笑みだった。
「あの第一王子に未練など……ロザリア様の審美眼に反するでしょう」
ロザリア様は一瞬だけ呆気にとられ、そして「ふふ」と笑いを零した。
そしていつものような強気な笑みを浮かべながら、答える。
「そうですわね。あんな男、こちらから願い下げです」
「なので、変な噂には傷つかないでください」
ダミアンは間を置いて、穏やかに微笑んだ。
「私は、貴方の味方ですから」
ダミアンの言葉に、ロザリア様は小さく頷いた。二人の間に、温かな空気が流れる。
彼はパーティ会場の方を向き、「待ち合わせをしているので、これで」と会釈をして去って行った。きっとロザリア様を心配して、約束を中断してまで駆けつけてくれたのだろう。ロザリア様への優しさに、胸が温かくなる。
「私たちも行きましょう」
「大丈夫ですか? もう少し休まれても……」
「えぇ」
ロザリア様は会場の方を見ながら、言う。
「信じてくれる人がいるなら、それだけで十分だわ」
いつもの彼女らしい表情が戻ってきて、胸を撫で下ろす。
するとロザリア様は私の方を見ながら言った。
「悪かったわね。さっき変なことを言って」
「! いえ! あの、先ほどの気持ちというのは──」
(ダミアンだけに自分の悪い噂を聞かれたくない。これは間違いない! 恋──)
「依存ね」
「え?」
予想外の言葉に間抜けな声を出す。
ロザリア様は淡々と真面目な顔で説明する。
「仮にダミアン様があの噂を信じてしまったら、商会にも影響が出るかもしれない。そう思ったんだわ」
「え、あ、えと」
「でも、それは結局、私がダミアン様に依存している証拠。もっと自立しないと」
違う、そうじゃない。
私が求めていた答えでももちろんないし、先ほどのロザリア様の様子を見る限り、ビジネスパートナーに対する不安でもなかった。
だが、ロザリア様自身がそう言うのであれば、私は従うしかない。彼女が黒といえば白も黒になる。推しの言うことは絶対なのである。
(恋は依存だって言うし、これも前進と考えるべき……?)
考えてみれば、原作では接点すらなかった二人だ。それが今、ダミアンは落ち込んだロザリア様を心配して、追いかけてきてくれた。十分すぎる進歩じゃないか。
そう思い込むことにして、私はロザリア様のあとを追いかける。月明かりに照らされた彼女の歩みは、先ほどより力強く見えた。
*
後日、ロザリア様は普段通り学園へ通われた。
噂は相変わらず飛び交っていたが、ロザリア様は肯定も否定もせず、涼しい顔で淡々と毎日を過ごしている。
「こちらが沈黙していれば、いずれ風も止むわ」
ロザリア様の声は冷静だった。
原作でも同様の展開があったなと、私は思い出す。
フィローレへの嫌がらせが明るみに出た後、ロザリア様は逆上し、躍起になって噂を否定した。しかし逆にその姿が噂を加速させ、さらに彼女は孤立していく展開だった。
だが今のロザリア様は、静観を貫いている。
さらに原作とは違い、ロザリア様はフィローレに嫌がらせなど一切していない。
あの悲劇の展開は起きないだろうと、私は胸を撫で下ろした。
そして案の定、一ヶ月経つ頃には噂は下火になっていった。
ロザリア様は学園に通う三年生になった。
原作ではこの時期まで生きられなかった。悪女として罵られ、処刑される──そんな運命を覆し、彼女は今ここにいる。
馬車に揺られながら、ロザリア様は静かに眠っていた。ロズ商会の業務と勉学の両立で、疲れが溜まっているのだろう。
窓から入る朝の光が、穏やかな寝顔を照らしている。首元には三年生の証である、青いリボンが揺れていた。
「……ソレイユ」
不意に名前を呼ばれ、ロザリア様と目が合った。
彼女の手がそっと伸びてくる。そして私の目元を優しく拭う。
ロザリア様の指先には、小さな滴が光っていた。
「何かあったの?」
「……ロザリア様にお仕えできるのが、とても幸せで」
泣き笑いの表情で答える私。
ロザリア様は「そう」と言っただけで、それ以上何も言わなかった。




