3.ロザリアガチ勢の怒り
「***」で視点が切り替わります。
(何その噂……!?)
根も葉もない噂の数々に、血の気が引いていく。
するとロザリア様は先ほどの足取りを崩すことなく歩き出した。角の向こうにいた令嬢たちの顔が、一瞬で凍りつく。
「ご機嫌よう、皆様」
「ろ、ロザリア様……ご、ご機嫌よう」
彼女たちの声は完全に引きつっている。目を泳がせながら、慌てて頭を下げた。
そんな彼女たちの横を通り過ぎ、教室へと向かう。
そして扉を開けた瞬間、ざわめいていた空間が一気に静まり返った。誰もが息を潜めてロザリア様を見つめている。
異様な空間に息を呑み、ロザリア様をちらりと見た。しかし前髪に隠れて表情がよく見えない。ロザリア様は感情を殺した声で名前を呼んだ。
「ソレイユ」
「はい」
「いつも通り、控え室で待機していて。許可はとっているわ」
「かしこまりました」
頭を下げると、ロザリア様は凜とした足取りで自分の席へと向かっていった。
私は必死に平静を装いながら、踵を返す。不安が顔に出てはいけない。侍女が動揺すれば、主人であるロザリア様の立場がさらに悪くなる。
歩き出すと、先ほどまでの光景が浮かんできた。
馬車から降りた瞬間の囁き。背中を刺すような視線。悪意に満ちた噂話。
思い出すだけで胸がざわついた。私はきゅっと拳を握りしめる。
「どうかご無事で……ロザリア様」
*
全ての授業が終わったことを知らせるベルが、校舎に鳴り響いた。
私は机の上に広げていた書類をまとめ、鞄にしまって立ち上がる。
今日、ロザリア様の事業関連の書類を処理する合間を縫って、校舎を回り、情報を集めていた。
どうやら「ロザリア様がアランに未練がある」という噂は、学園全体で流れているようだ。もしかすると社交界まで波及するのは時間の問題かもしれない。
しかも厄介なことに、婚約破棄以来、アランが一度も学園に来てない事実がさらに憶測を煽っていた。
(ロザリア様の執着がすごすぎて、アランが寝込んだみたいな噂もあったし……)
(そんなわけないでしょうが!)
校舎の隅でその噂を聞いた瞬間、怒りを爆発させなかった自分を褒めてやりたい。
アランから一方的に婚約破棄されたのはロザリア様の方だ。しかも味方が一人もいない中で、公開処刑のように宣言された。
百歩譲って、いや、一万歩譲って、ロザリア様がアランに対して情の一粒でも残っていたとしよう。だが、あれだけ酷い婚約破棄をされれば、百年の恋も完全に冷めるはずだ。
つまりロザリア様がアランに対して執着しているというのは、明らかにおかしい話なのである。
「一体どこからそんな噂が……」
誰も通らない廊下を歩きながら、私はブツブツと呟く。
「ロズ商会」の台頭で売上げを落とした商会だろうか?
それともロザリア様に個人的に恨みを持っている人?
思考の海に沈んでいると、突然、「あら」と前から声をかけられる。顔をあげると、三人の令嬢が並んでいた。
「あなた、ロザリア様の侍女よね?」
「……そうですが」
「ちょうどよかった。聞きたいことがあったの」
真ん中にいた金髪の令嬢が近づいてくる。
そして小さな布袋を私の前で垂らしながら、にっこりと微笑んだ。
「ロザリア様が、アラン様に未練があるって本当なの?」
「……」
「教えてくれたらお礼もするわ」
彼女は布袋をゆらゆらと揺らした。金属がぶつかるような音がかすかに響く。
おそらく袋の中には銀貨が入っているのだろう。
貴族社会において、情報は重要な資源だ。今回のように根も葉もない噂が一時的に回ることもあるが、やはり真実の情報の力には勝てない。
ヴァレンティーノ家が「カゼッタ」を運営してまで情報を集めているのも、それが何よりも強力な資源だと分かっているからだ。
理解はしていた。だが、ロザリア様への忠誠が銀貨ごときで揺らぐと思われた屈辱が怒りへと変わっていく。
私は大きくため息をついた。
目の前の令嬢たちをじろりと睨む。
令嬢たちは、そんな反応をされると思っていなかったのか一歩後ずさった。金髪の令嬢は慌てたように叫ぶ。
「な、なによ、その表情……! ただの侍女のくせに──」
「マルグリット様」
私が名前を呼んだ瞬間、彼女の顔がひくっと震えた。
私は続けて、後ろの二人に視線を移す。
「エリナ様、クラリッサ様」
丁寧に名前を呼び上げた。令嬢たちの表情が凍りつく。
私はスカートの裾を持ち上げ、膝を折り、穏やかに微笑んだ。
「お初にお目にかかります。ヴァレンティーノ公爵家で侍女をしております、ソレイユ・フランと申します」
「な……何で、名前を……っ」
エリナは声を詰まらせた。
私は変わらず微笑みを浮かべながら、彼女たちを追い詰める。
「ハーシェル伯爵家、ドルトン子爵家、ベルモンド子爵家……そんな名門の方々が侍女にも聞こえる声で、公爵家の陰口を叩くなんて……」
私は間を置き、ゆっくりと唇を吊り上げた。
「きっと、さぞご立派な教育を受けたんでしょうね?」
令嬢たちの顔が一気に引きつった。
「な、なんで」「どうして」と口々に声を詰まらせる。
一介の侍女に、貴族の家名など分かるはずがない。そう軽視し、あの取引を持ちかけてきたのだろう。銀貨を目の前にちらつかせれば、簡単になびくと思ったに違いない。
(ナメるな。私はロザリア様のガチ勢だ)
ロザリア様を幸せにする妄想なら、それこそ何百通りも考えてきた。約千人いる生徒たちの顔も、家柄も、性格も、全て頭の中に叩き込んである。どこにロザリア様を幸せにする種があるか分からないからだ。
令嬢たちは青ざめながら何やらわめき倒し、その場を一目散に去って行った。
ふうと息を吐くと、どっと疲れが全身を襲ってきた。そして我に返る。
(ロザリア様を迎えにいかないと……!!)
大慌てで主人のもとへと向かうと、彼女は教室の前で待っていた。
「も、申し訳ございません……!」
「……何かあったの?」
遅れたことを叱られるかと思いきや、探るような口調で聞いてくる。
逃げ惑う令嬢たちの姿を思い出しながら、首を横に振った。
「いえ、何も! 途中で落とし物をした方がいて、探すのを手伝っていたら遅くなってしまいました」
「……そう」
ロザリア様は、それ以上何も聞かなかった。
あの令嬢たちは、おそらくロザリア様に近づくことはないだろう。それなら、わざわざ報告して心配させることもない。ロザリア様には、もっと大切なことに集中してもらいたい。
(ロザリア様は私が守る、必ず)
そう決意しながら、私はロザリア様の後ろを追いかけた。
***
ある屋敷の応接間。
豪華な調度品が並べられた部屋に、二人の男女がいた。
男──ルジェ・モンフォールは端正な顔立ちをしていた。少し垂れ気味の優しい目を持ち、微笑めば女性が振り返るような甘いマスク。亜麻色の髪はやわらかな癖があり、夕日を受けて金色に輝いていた。
沈んでいく夕日を眺め、ルジェはカーテンを完全に閉め切った。まるで秘密の逢瀬を、誰にも知られたくないかのように。
ソファーに腰掛ける女性に、ルジェはゆっくりと歩み寄る。コツコツと革靴が床を叩く音が部屋に鳴り響いた。
「思ったより大きな火になりましたね」
ルジェは女性の手をとり、手の甲に軽くキスを落とした。
「そう思いませんか? フィローレ様」
名前を呼ばれた女性──フィローレ・ランシェは、無表情のままルジェの顔を見つめる。フィローレは感情を隠したまま、淡々と答えた。
「公爵家の没落……みんな、見たいに決まっているわ」
「特にあの悪女──ロザリアの没落は特に、ね」
ルジェがそう言った瞬間、フィローレの顔がゆるんだ。その嬉しそうな顔を見て、ルジェも笑う。
「ともかく貴方に任せてよかったわ」
「悪い噂って言うのは、火種と風があればすぐに燃え上がるものですから」
「じゃあもっと吹かせてちょうだい」
フィローレは閉じきったカーテンを見つめながら、ぼそっと呟く。
「綺麗な炎になるように、ね」
お読みいただき、ありがとうございます。
9/21の週間総合・連載中ランキングで3位をいただきました!
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次回は10/1(水)に更新予定です!




