16.婚約破棄
ロザリア視点です。
パーティー当日。
車輪の音を聞きながら、窓の外に流れる風景をぼんやりと眺めていた。
「ロザリア様、到着しました」
従者が馬車の扉を開けて声をかけた。気が重くなるのを感じながら、自分に言い聞かせる。
(しっかりしなさい、ロザリア・ヴァレンティーノ)
黒塗りの馬車から降り立つ。
その瞬間、悪意のこもった視線が突き刺さった。周りの貴族たちが、エスコートもつけずに現れた公爵令嬢を、まるで見世物のように眺めていた。
やがて大扉の前に到着すると、従者が声を張り上げる。
「ヴァレンティーノ公爵家ロザリア様のご到着です!」
名が告げられた瞬間、会場のざわめきはぴたりと止んだ。
賑やかだった談笑が嘘のように消え、張り詰めた静寂が広がる。
そして次に起こったのは、押し殺したような嘲笑のざわめきだった。耳に届くたび、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「まさか本当に一人で?」
「まぁ哀れなこと」
「婚約者に捨てられたのかしら」
わざとらしい同情と侮蔑が入り交じった声が、あちこちから響いてくる。
私は聞こえないふりをして、堂々と会場の中心へと進んだ。
歩みを進めるたびに、周囲の貴族たちは潮が引くように道を空け、私の周囲だけが不自然なほどぽっかりと空く。
あからさまな悪意に、胸の奥で苛立ちがざわついた。心を落ち着かせようと、私はパーティから帰った時のことを考えた。
(まずソレイユにミントティーを淹れてもらいましょう。きっと到着するのは夜中だけど、スコーンも焼いてもらって。リンゴのコンフィチュールもたっぷり添えましょう)
それから明日はダミアンとの報告会もある。売上げの数字を確認して、今後の戦略を考えて──そこまで考えて、不意にあの日の記憶が蘇ってきた。
立ちくらみを起こし、ダミアンに抱きしめられた日のことを。
たくましい胸板に支えられ、太い腕にしっかりと抱きかかえられた感触。そして穏やかなグレーの瞳で見つめながら、「大丈夫ですか」と本当に案じてくれた優しい声。
頬がじんわりと熱を帯びていく。
初めて会ったとき、正直言えば頼りなさそうに見えて、「こんな人物に公爵家の仕事が務まるのか」と内心疑っていた。ソレイユがいなければ、きっと関わることもなかっただろう。
けれど──蓋を開けてみれば、ダミアンは驚くほど有能だった。
魚の仕入れルートの確立、真珠ビジネスの基盤づくり。あらゆる人脈を駆使して交渉に臨み、すべてを完璧にこなしてくれた。私は幾度となく彼に助けられたのだ。
それなのに、自分の功績としてひけらかすことは一度もなかった。
むしろ私のささやかなアイデアにも「流石です」と心から感心してくれた。「公爵令嬢ならできて当然」などと冷たく言い放つことも、決してなかった。
──この人になら、頼ってもいい。
生まれて初めて、心からそう思えた。
私はずっと、一人で立ち続けなければならないと信じていた。
どれほど傷つこうとも、心が折れそうになっても、ただ前を向いて歩いていくしかないのだと。
(でも、違う)
カゼッタでの夜が、まるで昨日のことのように浮かんでいた。
あの店は、機会がなければ一生踏み入れることはなかっただろう。信じられないくらい狭いし、汚いし、うるさかった。油でべたつくテーブル、煙草の匂い、客たちの大声。揚げ物を手づかみで食べるなんてと、意地汚いと本来なら眉をひそめていただろう。
だけど、本当に楽しかった。
賑やかな店内で、ダミアンが私の耳元に顔を寄せて囁いた。確か、タコの唐揚げが運ばれた時だった。吐息がかかり、心臓が跳ね上がったのを今も覚えている。
「実は子どもの時、釣りをしていたらタコが足に絡みついて。それ以来ちょっと苦手なんです」
真剣な顔で打ち明けるダミアン。少年が海でタコに絡まれて、あわあわと慌てている姿が目に浮かんで、思わず吹き出してしまった。私が笑うと、彼も照れたように、でも嬉しそうに笑ってくれた。
「私にも教えてください!」
ソレイユが珍しく大声を張り上げた。騒がしい店内でも聞こえるように、必死に身を乗り出している。その必死さが面白くて、私とダミアンは顔を見合わせた。
「秘密です」
ダミアンが悪戯っぽく人差し指を立てて言うと、ソレイユはちょっとだけ唇を尖らせた。「ひどいです!」という小さな抗議に、ダミアンはぷっと吹き出した。次に私も耐えきれずに笑って、最後にはソレイユもつられて笑った。
三人で肩を寄せ合い、エールのジョッキを掲げながら、私たちは笑い合った。
あんな日が毎日続いて欲しいと、本気で思った。
私は一人じゃない。そう思えたのは、生まれて初めてだった。
「アラン・グランセール第一王子の入場です!」
場内に響き渡った呼び声が、私を現実へと引き戻す。
フィローレと腕を組み、仲睦まじげに入場する。寄り添い合い、時折視線を交わしながら会場を進んでいく。
私の登場時には一切起こらなかった拍手が、盛大に沸き起こった。この露骨な差別も、アランが仕組んだ演出の一部なのだろう。
そして二人は、なぜか一直線にこちらへと歩みを進めてきた。周囲の招待客たちは、面白そうに目を光らせながら遠巻きに見守っている。まるで見世物小屋の観客だ。
二人は私の前で立ち止まった。
アランは勝ち誇ったような顔を浮かべ、フィローレは哀れみを含んだ視線で私を見下ろしてくる。
けれど、私の心は凪いでいた。怒りも悲しみも、何一つ湧いてこない。無表情のまま、ただ静かに二人を見返した。
「ロザリア」
「ごきげんよう、第一王子殿下」
名前を呼ばずに返せば、彼の口端がぴくりと震えた。
怒鳴り返してくれれば、パーティを出る口実になるかと思ったが、彼は怒りを抑え、代わりに嫌味を吐き出してきた。
「エスコート役もおらず、一人での参加とは。さぞかし寂しいことだろう」
わざとらしい憐れみを込めた言い方だ。周りの貴族からプッと吹き出す音が聞こえる。私は涼しい顔で答えた。
「あいにく、招待客リストの中には私に見合う方がいらっしゃらなかったので」
(アンタを含めてね)という皮肉を、言葉の裏に潜めて言い返す。
周りの空気が一瞬で殺気立つ。メントリア派の貴族たちの敵意が立ちこめた。
だが怯む必要はない。こんな敵意など日常茶飯事だ。重要なのは、ヴァレンティーノ公爵家の威厳を保つこと。ここで私が折れれば、明日の社交界は「公爵家の没落」と面白おかしく噂が広まってしまう。私は前だけを向いて、堂々としていればいい。
アランは私の返事に顔を歪ませたが、はっと馬鹿にしたように息を吐いた。
「商会を立ち上げたそうだな」
「えぇ」
何を言われるのか身構えていると、とんでもないことを言い出した。
「その運営権を俺に渡せ」
「──はい?」
何を言われたのか分からなかった。
呆然としている私に、アランは言葉を続ける。
「汚い手で真珠を独占したのだろう。だが、こんな熱狂は長続きしない。ヴァレンティーノ家の名前が地に落ちる前に、俺に渡すべきだ」
怒りが体の芯から湧き上がってくるのが分かった。ダミアンと協力し、ソレイユにも手伝ってもらいながら、必死に作り上げた商会。それを婚約者以外の女にうつつを抜かしていた男が今更「よこせ」と?
成功した途端に横取りするなんて、強盗と何が違うのだろう。
私はため息を隠さずに言い返す。もう取り繕う気もなかった。
「お言葉ですが、第一王子殿下。婚約者だからといって、私の誇りや居場所までを差し出すつもりはありません」
これで彼は怒りを露わにしてくれるだろうと思って返したが、予想に反してアランは、顔を伏せてぶつぶつと何かを呟くだけだった。
「お前の……居場所は……俺だったはず……」
周りのざわめきもあり、うつむいていることもあって、断片的にしか聞こえない。フィローレの顔がひきつっているのが目に入った。血の気が引き、信じられないといった表情でアランを見つめている。
(何と言ったの?)
疑問が頭がよぎったが、どうでもよくなった。今更この男が何を言おうとも、私は関係ない。もう期待も失望もしない。
するとアランはぱっと顔をあげた。瞳には狂気じみた何かが燃えており、背筋がぞわりと震える。そして、会場中に響く声で宣言した。
「ロザリア・ヴァレンティーノ!
お前とは婚約破棄だ!」




