1.推しの侍女に転生しました
──突然、火花が散ったように頬が痛んだ。
視界に飛び込んできたのは、砕け散った陶器の残骸。紅茶が床に広がり、絨毯を濃い色に染めている。
「こんな不味いお茶を持ってくるなんて、どういうつもり!?」
鋭い叱責の声に心臓が跳ねた。
視線をあげたそこには──私の"推し"がいた。
艶やかな紫色の長髪、燃えるような赤い瞳。怒気を孕んだ鋭い眼差しは、漫画やアニメで何度も見た推しそのもの。
(ろ、ろろろ、ロザリア様……!?)
混乱の渦の中で、私は必死に記憶をたぐり寄せた。
最後の記憶として浮かんだのは、原稿を書き殴っていた夜。
夏コミの入稿まで残り二日。三徹目という修羅場で意識が朦朧とする中、キーボードを叩きつけていた。だけど突然、心臓に激痛が走り、モニターに映るロザリア様の表紙に手を伸ばし──意識を失った。
そこまで思い出し、一つの可能性に思い当たる。
(まさか私……死んで、転生したの……!?)
目の前には推しの悪女。
私が命を削ってまで推していた彼女が、現実に立っている。
頬の痛みは、きっとビンタのせいだろう。ものすごく痛いが、推しからのビンタだと思うとそれさえも愛おしい。
(ロザリア様……! 本物のロザリア様だ……!)
存在が尊すぎて胸が熱くなる。
内心感激している私とは打って変わって、ロザリア様は氷のような声で命じた。
「下がりなさい。顔を見るだけで不快だわ」
周囲のメイドたちが一斉に息を呑み、わずかに後ろに下がった。誰もが主人の怒りを買うまいと、息を潜めている。
恐れられて当然だった、彼女は王都で「悪女」と呼ばれる令嬢なのだから。
だけど私は違う。
(ロザリア様……! その厳しさ、その孤高さ……やっぱり尊すぎる……!)
周囲が震える中、私の胸は歓喜でいっぱいだった。
しかし恐怖で立ち尽くしていると勘違いされたのか、後ろのメイドが私を必死に引きずろうとする。
(あっ、ちょ、ロザリア様を拝んでいるのに!!)
私の抵抗もむなしく部屋の外へと引きずられ、扉がパタンと閉じられる。ロザリア様の冷ややかな視線から解放され、張り詰めた空気が若干和らいだ。
すると頬にそばかすが散ったメイドが心配そうに声をかけてきた。
「ソレイユ、大丈夫?」
「ソレイユ」と呼ばれた瞬間、体に眠る記憶が鮮やかに蘇ってきた。
この体の持ち主の名前は、ソレイユ・フラン。エルフェリア国の子爵家の令嬢で、事情があってロザリア様のメイドとして働き始めた……らしい。
私が頷くと、メイドたちはため息をこぼした。
「ロザリア様の機嫌が悪いわね……」
「お茶を飲みたいとおっしゃったのは、ロザリア様なのに」
「本当に悪女みたいな方だわ……」
メイドたちは口々に囁き合い、足早にその場を去って行く。彼女らの背が角を曲がって消えたとき、私はようやく息を吐いた。心臓が暴れたように高鳴っている。
(やっぱり間違いない、ここは「花キミ」の世界だ……!)
小説「祝福の花束はキミのために」、通称「花キミ」。
光の魔法に目覚めたヒロインが、王子であるヒーローに愛される王道恋愛ファンタジーだ。
私の推しであるロザリア様──ロザリア・ヴァレンティーノは婚約破棄をされ、ヒロインを排除しようと画策し、最後は牢獄で処刑される。一見すれば同情の余地なしの悪役だ。
だが私は、ロザリア様が最推しだった。
(推す理由はいくつもあるけど、やっぱり一番は牢獄のシーンよね!)
親の顔より見た展開をうっとりと思い出す。
牢獄に繋がれるロザリア様のもとへ、元婚約者であるアランが訪ねてくるシーンだ。
「ロザリア……なぜ正しい道に進まなかった?」
アランが鉄格子越しに問いかけたあと、ロザリア様は微笑みながら言い放つ。
「何が正しい道だったかなんて誰にも分からない。
私が生きてきた道を、正しいと信じるだけよ」
(推せる……!!!)
思い出すだけでも胸が熱くなる。
牢獄の中で髪は乱れ、みすぼらしい囚人服を纏っていても、彼女は自分の決断を少しも後悔していなかった。
最後まで迷いや痛みを抱えていたのかもしれない、それでもロザリア様は自分の道を貫いた。彼女の行動は称賛できるものではなかったが、その生き様は確かに私を救ってくれたのだ。
(でもまさか生きがいだった同人活動で死ぬことになるなんて……)
皮肉めいた笑みを一人浮かべていると、窓を叩く雨の音が耳に届いた。
雨滴の向こうには、整然と手入れされた庭園が広がっている。
(雨……)
廊下の窓へ駆け寄る。鉛色の空の下、庭の白薔薇が重たげに揺れていた。
その時、ファンブックの片隅に描かれたイラストをふっと思い出す。雨の日にロザリア様がこめかみを押さえているイラストだ。
気づけば体が先に動いていた。
ソレイユの記憶のもとにキッチンへ走り、戸棚の奥を漁る。目的の茶葉が見つかったので、私はティーセットと一緒にトレイに載せた。
キッチンにやってきたメイドが驚いたように声をかけてくる。
「ちょっと、ソレイユ!? さっき怒られたばかりなのにどこ行くの!?」
「ロザリア様のお部屋へ行ってきます!」
戸惑うメイドを無視して、私はロザリア様の部屋へと向かった。
扉をノックしたが、反応はない。私は決意してドアノブに手をかけた。
「失礼します。先ほどのお詫びをお持ちしました」
扉を少し開けると、窓際の椅子に座ったロザリア様がこちらを一瞥した。氷のような視線がこちらを射るが、拒否の言葉はない。
私は室内に入り、入り口脇のテーブルにトレイを置いた。
ティーポットの中に茶葉を入れ、湯を注いで二分ほど蒸らす。カップに薄緑色の液体を注ぎ、ロザリア様の座る窓際へ向かった。
彼女は私の方を一切見ようとせず、外を眺め続けていた。そっとカップをテーブルに置く。
「ミントティーです」
「ミントティー?」
声には不愉快そうな色が滲んでいた。しかし私が笑みを崩さずにいると、呆れたように一つため息をついて、一口だけ飲んでくれた。すると僅かだか目が見開く。
「ロザリア様」
「……何よ」
「頭が痛いのではありませんか? もしよければマッサージいたします」
ロザリア様は一瞬だけ意表を突かれたような顔をし、すぐに隙のない無表情へと戻った。
(色んな表情を目にできて感激です……!!)
内心叫んでいると、「勝手にすれば」と素っ気ない返事が返ってきた。心の中で小さくガッツポーズをし、ロザリア様の背後へと回る。
「失礼します」
許可を得てから、肩のあたりをぐっと押す。びっくりするほど指が入らない。まるで岩のようだ。時間をかけて念入りにほぐしていくと少しずつ柔らかくなってきた。指を移動し、次はこめかみ付近を慎重に押していく。
(うああああああ、頭が小さい、お顔が小さい!)
推しに触れられる喜びに浸りながら、私は前世の記憶を思い出していた。
ロザリア様は雨の日になると極端に機嫌が悪くなる。これはファンブックで得た情報だった。
さらにスピンオフ小説「ロザリア・ヴァレンティーノの憂鬱」では雨模様の空を眺めて、頭痛に悩まされるロザリア様が描かれていた。
そこから着想を得た私は、気圧の変化によって起きる「気象病」について調べ始めた。
「気象病」とは気圧や気温、湿度などの急激な変化によって引き起こされる体調不良のことである。ロザリア様の憂鬱も「気象病」が原因かもしれない、何か解決方法は──そう考えて見つけたのがミントだった。
ミントには鎮痛効果やリラックス効果があるとされ、昔からハーブ療法として親しまれてきた。
そのことを知った私は、ロザリア様のために完璧なミントティーを作ることに奮闘した。一時期はベランダでミントを栽培したこともあったほどだ。
(練習しといてよかった……!)
どうやらロザリア様にもミントティーは喜んでもらえたようだ。
賃貸アパートのベランダをミントだらけにし、大家にこっぴどく怒られた経験も無駄ではなかったのだ。
「もういいわ」
十五分ほどマッサージしたところで、ロザリア様が制止の声をあげた。
ロザリア様は顔だけ振り向いて尋ねる。
「あなた、名前は?」
「そ、ソレイユです!!」
「そう。あなた、明日から私の専属侍女になりなさい」
「へ」
「不満なの?」
「いえ! 光栄です!!」
私は慌てて否定する。
「言っておくけど、私の専属侍女はあなただけだから。大変よ?」
ロザリア様は意地悪そうな顔で笑う。他のメイドが見たら恐怖で震えてしまうかもしれないが、ロザリア様が最推しの私にとってはご褒美でしかない。
「ありがとうございます! 頑張ります!!」
全力の笑顔で答えたら、彼女は一瞬だけ拍子抜けした顔を浮かべた。
「……変わり者ね」
そして、ふいっと窓の外へと視線を移してしまった。
ロザリア様の横顔が尊すぎて眩しい。
(でも……私は知っている)
ソレイユの記憶によると、現在ロザリア様は学園に通う二年生だ。
原作通りなら一年後、ロザリア様が「悪女」と呼ばれながら婚約破棄される。そしてヒロインを殺害しようとした罪で、牢獄に繋がれ、処刑されてしまう。
前世で彼女の最期を見て何百回も泣いた。何度も何度も「救いたい」と願った。その願いを同人誌にぶつけ続けた。
私は拳を握りしめる。
──この世界でなら、私は運命を書き換えられる。
(一年以内に推しを救う……必ず!)
私はロザリア様の横顔を見つめながら、決意した。
※短編から読みに来てくださった方、本当にありがとうございます!
この長編版では、短編では描ききれなかったロザリア様とソレイユの奮闘をじっくり描いていきます。
第一章(約5万字)はすでに予約投稿済みなので、最後まで安心して読んでいただけます。
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