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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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307 Civil_War(4)

 ■「Civil_War」


 大東での最初の戦闘行動は、既に新大東州の動きを警戒して職権を乱用して常備軍を展開していた王道派が境東府近辺で起こした。

 

 大東史における南北の境界線であり、南部にとっては北部からの脅威に対する最前線だった。

 そしてそのまま軍都として発展した経緯から、軍の鎮守府があり1万人程度が駐屯していた。

 しかもここには王道派の武士、貴族が多かった。

 

 これに対して帝国派は、新大東州の諸侯と常備軍から事実上離反して帝国派に合流した者達による合同軍だった。

 主軸は諸侯、武士の子息が私的に集った形の騎兵であり、いまだ戦虎遊撃隊も属していた。


 数は騎兵だけで2万騎以上。歩兵、砲兵などを合わせると5万にも達した。

 しかも近代的装備が多く、この時の戦いはまさにその新兵器が勝敗を決した。


 当初王道派は、境東府の鎮守府を拠点として新大東州軍を封じ込め、その間に増援を待って反撃しようとした。

 実際和良平野では、王道派諸侯による5万以上の軍勢が急ぎ編成中だった。

 また騎兵の多い帝国派に対しては、籠城戦が優位だった。

 

 しかし帝国派が大規模な砲撃戦を仕掛けてくると、17世紀のまま技術的に留め置かれた要塞では抵抗が難しいことがすぐに分かった。

 

 大東の主な要塞は、戦国時代だった16世紀末には同時期のヨーロッパとよく似た星形の砲撃戦に特化した幾何学的な要塞だった。

 しかしその後は、国内の安定もあって要塞の強化及び進化は大きくなかった。

 しかも主な都市を囲う要塞設備は、役目を終えたと考えられ解体されていった。


 変化したのは、天守閣や御殿、宮殿などの増築による見た目の壮麗さぐらいだ。

 だが、ヨーロッパの技術を少しずつ取り入れていたため火砲の方は発達を続け、帝国派はほぼヨーロッパ最新の機材と戦術で砲撃戦と攻城戦を実施した。

 

 結果、旧来の要塞では太刀打ちが難しく、しかも王道派の装備が古かった事も重なり、呆気なく落城してしまう。

 そしてこの「境東府の戦い」を号砲にして、「大東南北戦争」が始まる。

 時に1853年3月の事だった。


 戦乱自体は、同じ南北戦争でも十年ほど後に発生したアメリカ南北戦争ほど激しくなかった。

 大東はまだ近代を迎え始めたばかりだし、貴族と武士が戦った為、戦った人数が限られていたからだ。

 形としては東欧あたりの戦争に近かった。


 戦った主軸は、兵士や下士官の下級武士だった。

 過去2世紀の平和の為、貴族や上級武士の多くが形以上に戦うことを忘れ、殆どが中央集権国家の特権階級としての官僚に特化し過ぎていた為だ。


 常備軍も食うに困った下級武士が多く、将校や組織として軍を維持しようとする貴族や上級武士は小数派だった。

 また帝国派の新大東州が裕福と言っても、裕福な諸侯は限られていた。

 

 北の盟主といえる田村公爵家は、規模こそ一つの国家並に大きいが、一部を除いて見るべき人材は限られていた。

 他の有力な伯爵家、勲爵家も似たようなところが多く、そうした中での例外が草壁家だった。


 草壁伯の領内は、大東唯一の綿花の産地として経済的に発展していた。国内唯一の鉄鉱石鉱山を持つことで産業革命についてもいち早く始められていた為、産業と経済に明るい人材が多かったからだ。


 また南部では、大規模な炭田地帯を抱える黒姫氏が、平和な二世紀の間の大東内での燃料資源の転換に伴う経済的恩恵を受け、さらにこの頃は産業革命もあって大きく隆盛していた。


 また尚武(軍事的な事が盛ん)という点では、駒城など北の諸侯の一部はこの頃でもかなりの存在感を持っていた。

 さらに北部は、剣歯猫の産地だった。

 そして経済力と軍事力が結びついた帝国派は、境東府を突破すると軍を東京へと向けた。

 

 これに対して王道派は、集められるだけ集めた軍隊をかつての古戦場跡へ進める。

 戦国時代以前は加良勲爵領で、戦国時代前期に活躍した馬名氏の存在した地域だった。

 

 ここに王道派は常備軍を中心に8万の軍勢を集め、対する帝国派は戦闘部隊だけだと約6万を進軍させる。

 数では王道派が優位だが、戦闘部隊の数では王道派が若干多い程度という差だった。

 しかしこの戦いを決したのは、一つの小銃だった。

 

 小銃という言葉は、基本的に近世に入って登場した。

 それまでは、マスケット銃、ライフル銃などの名称で括られた。

 大東での銃の歴史は、16世紀序盤に東南アジアでポルトガル商人に出会ってから始まっていると言われる。

 当時は日本同様に「火縄銃」と呼ばれ、猟銃型、軍用銃型合わせて100万丁以上が生産された。

 

 日本では伝来の経緯もあって命中率の高い猟銃型が主流だったが、大東では当時世界一の規模で大量使用された事もあって、銃床を肩に当てる軍用銃型が主流だった。

 

 その後、ヨーロッパより若干遅れてフリントロック、つまり火打ち石を用いた形式を取り入れた(=「火石銃」)。

 大東では、ヨーロッパ同様に銃に使える石があったので生産できたのだが、この小銃は大東銃として西日本にも輸出されている。

 

 さらに同時期には銃剣バヨネットを導入し、合わせて訓練の常態化と軍制の改革も実施された。

 銃剣の導入によって、それまで銃兵と槍兵に別れていた兵科が統一され、それに似合った兵制が必要になった影響だった。

 

 ナポレオン戦争後には、ヨーロッパから不要になった武器を多数輸入。その後、リバースエンジニアリングによって国産が実施された。

 その後、アメリカから旋盤の機械を導入して近代的な量産能力までも獲得していた。

 

 1850年代までの大東の銃も、欧米と同様に銃身の前から玉を込める先込式の「前装式」の「滑腔かっこう銃」だった。

 滑腔というのは、要するに内側がツルツルということだ。

 加えて銃弾の形状も球形だった。

 

 大東では上記の形式の銃を、大商人の剣菱屋が一手に生産を担っていた。

 日本などにも輸出してそれなりに知名度もあり、「剣菱銃」と呼ばれていた。


 しかし銃は、1840年代に入ると欧米世界で急速な発展を開始する。

 まずは1830年頃に、ヨーロッパで「雷管」が発明された。

 雷管は今までの火打ち石式と違って、雨や湿気という悪条件でも確実に着火する優れた特性を持っていた。

 

 1846年には、今日では一般的な先の尖った縦に細長い形状の銃弾が実用化される。

 この銃弾は、発明者の名前から「ミニェー弾」とも呼ばれた。

 

 同銃弾はライフルつまり銃身の内側に施条ライフリングされた銃に特化したもので、銃弾が旋回しながら飛翔する事で、非常に長い射程距離の実現と命中精度の飛躍的な向上をもたらした。

 

 大東では、雷管もミニェー弾も新興商人の神羅屋が最初に自力生産に成功し、「神羅銃」としてこの戦場に登場する事になった。

 しかも神羅屋は、新興であるが故に熟練工が少ないことを逆手にとって、生産のための旋盤の機械を導入して画一的な大量生産に成功していた。

 

 1853年9月8日に行われた「加良野の戦い」は、圧倒的な射程距離と命中精度を持つ「神羅銃」が勝敗を決した。

 神羅銃による歩兵横列の弾幕射撃は、当時の砲兵の弾幕射撃に匹敵する射程距離を持ち、殺傷力が格段に高かった。

 

 このため王道派のナポレオン型軍隊は、従来通り横列を組んだ歩兵部隊が射すくめられて次々に敗走した。

 業を煮やして騎兵を投入するも、騎兵までが敵に近寄る前に神羅銃による弾幕射撃で粉砕された。

 散兵同士の戦いも、神羅銃を持つ帝国派が圧倒的に優位だった。

 

 そうした光景は、この後世界各地で繰り広げられる戦闘の最初の一つだった。

 同時期行われたクリミア戦争でも、これほど極端な事例はまだなかった。

 

 戦闘は一方的展開となり、王道派は総崩れとなって退却。だか完全に崩壊せず、一部はそのまま東京へと後退。

 東京郊外の要塞に立てこもり、多くの軍勢はそれぞれの領地や故郷へと逃げ帰り防備を固めた。


 ここで帝国派は一端進撃を停止し、東京に対する無血開城の交渉を開始する。

 首都で戦えば、今後新政府を作っても大きな障害となるからだ。

 それに総人口180万を抱える巨大都市での戦闘など、例え郊外でするにしても悪夢でしかない。

 首都なので物流も途絶えさせるわけにもいかず、兵糧攻めは論外だった。

 

 だが交渉は思いの外長引き、一ヶ月以上経過した10月半ばになっても結果が出なかった。

 このため帝国派はしびれを切らして、東京郊外の王道派最大の拠点となっていた八稜郭への総攻撃を開始する。

 

 守るのは、寄せ集めの3000名程度。

 攻めるのは、この当時大東最強の戦力を有する約6万の兵力だった。

 八稜郭は、巨大都市となった首都防衛の要の一つとして、18世紀半ばに主要街道側に建設されたものだった。

 このため当時ヨーロッパ最新の技術も輸入して建設され、当時でも大東国内では有数の堅固さを誇っていた。

 

 しかしこの時は王道派が多くの大砲と弾薬を先の戦いで要塞から持ち出していたし、再び籠城した兵力の火力は少なかった。

 指揮官も凡庸で、新しい戦いには慣れていなかった。

 このためほぼ近代要塞といえるこの要塞の陥落は早かったのだが、それでも1万の死傷者と半月の時間を浪費することになる。

 

 このため帝国派は、首都こそ完全掌握するも王道派を平定する事については翌年春を待たねばならなかった。

 また逆に、要塞一つで予想外に時間を稼いだ王道派は、結局混乱するばかりで何も出来なかった。

 内部での派閥争いばかりして、中には帝国派に寝返ったりもした。

 

 1854年3月、首都を掌握して事実上の新政府も設立した帝国派は、国内にまだ残っている王道派諸侯の討伐を実施。

 多くは古くからの名門貴族の領地であり、東京から大坂にかけての人口密度の非常に高い地域だった。

 そして民衆を戦乱に巻き込まない事を考慮したため進撃は遅れ、相手に防備の時間をさらに与えることになった。

 

 だが、この段階で南部の茶茂呂、黒姫らが新政府への合流を果たす事で大勢は決し、5月半ばには王道派の諸侯のほとんども降伏。

 かくして大東は再び一つに戻る。

 

 そしてそれだけでなく、大東は新たな国家として出発することにもなった。


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