306 Civil_War(3)
■「Civil_War」前夜
全面開国後、大東国内では東京御所の権威は一気に失墜した。
外交での不甲斐なさは、諸侯、国民の全てから強い非難の対象となった。
その中で分かったのが、当時の天皇である大展天皇が本来の形である直接統治にはほど遠い状態で、中央の門閥貴族、有力政治家達の半ば傀儡に貶められていた事だ。
この事は、大東の民衆と主に地方の下級武士に大きな憤りを起こさせる。
そして、旧態依然とした門閥貴族中心の政治の抜本的な改革を求める動きが一気に吹き出る。
しかし欧州世界のように自由主義の思想や市民階層が育っていないため、争いはまず貴族と武士によって始まる。
支配階級内での対立と争いは、基本的に大東戦国時代に遡り、旧大東州中部とそれ以外の地域の対立、中央と地方の対立という構図になる。
大東国内での対立は、基本的に旧大東州と新大東州、大東を征服した大東人(もと日本人)と征服された側の古大東人、茶茂呂人、アイヌの二つの軸がある。
そして戦国時代は、新大東州を本拠とする北軍が勝利した。
17世紀以後の大東中央政府である東京御所は、一応全ての人種、民族に対する公平さを見せるようになった。
近世大東国内の安定の一因は、こうしたところにもあった。
他にも、西日本の江戸時代に大東への移民が増えた事も、安定と公平という要素が大きな役割を果たした。
だが開国とその後の混乱で、国内の雰囲気が一変する。
しかもイギリスとの開国と領土確定を巡る交渉が噂となって広まったのだが、大東政府の弱腰によって北米大陸北西部の広大な領土を無為に失ったと受け取られた。
事実は違うのだが、少なくとも当時の大東の人々の多くがそう受け取った。
この外交上での「大敗北」は、国内では東京御所(政府)の権威が急落する事件となった。何より、国民の前に政府及び官僚団、つまり中央の貴族と武士達の硬直化と政治の疲弊、腐敗が明らかになる。
2世紀を経過した政府に、腐敗や堕落が比較的少なかったのは救いだが、既に限界が訪れつつあることを人々に教えていた。
だが大東では、少し後の西日本での「尊皇攘夷」のようにはならなかった。
大東の場合、既に半ば名目ながら天皇が常に最高権力者(=国家元首)であり続けていたので、何よりまず「尊皇」が不要だった。
そして共和制を求める動きも、考え方が殆ど無いのであり得なかった。
「攘夷」についてはある程度当てはまるが、現実的な動きを好む大東人は、目に付いた外国人を殺すのではなく、国と国、民族と民族で外敵に対向する為にどうすれば良いかというのが「攘夷」の争点となった。
その中で台頭したのが、「帝国派」と「王道派」だった。
「帝国派」は、言葉通り抜本的に政府を作り直して強力な国家を建設しようというもので、「王道派」は国内の融和と緩やかな改革で時局を乗り切るろうという一派だった。
そしてこの場合危険なのは、「帝国派」が最終的には大東のみならず「日本全ての民族」の力を結集して、ヨーロッパ列強に対向できる強力な国家を作ろうという考えを持っている点だった。
なお地域で示すと、「帝国派」が新大東州と茶茂呂地方で、「王道派」が旧大東州の中枢地域だった。
つまり旧来の対立構造と新しい考え方の双方が重なっていた。
そして『御所』のある首都東京で、戦後すぐにも「帝国派」と「王道派」の政治闘争が開始される。
「帝国派」は産業革命のさらなる進展と急速な富国強兵を唱え、「王道派」は現状を維持したままの緩やかな改革と革新を支持した。
この争いは、貴族、武士の数というより、旧州と新州の人口差から「王道派」が圧倒的に優位だった。
このため急進的な「帝国派」は自分たちの考えに従わせようと、より急進的な行動に出てさらに支持を失った。
そしてここに、「帝国派」の領域でのみ産業革命が進展して富の偏在が進んでいるという考えが広まり、旧来の南北対立の構図が時代を代えて出現する。
そしてここで、争いは一気に邪魔な相手を殺してしまうテロリズムという形に発展し、まずは下級武士同士の抗争が首都東京で一気に広がる。
政府は首都の治安回復に躍起になるが、争いは徐々に激化して貴族の邸宅も襲われるようになると事態は次の段階に進む。
それは内戦、つまり「Civil_War」だった。
■「Civil_War」開始
「大東南北戦争」は、1853年春から1854年初夏の約1年ほどかけて行われた。
そしてこの戦いは、大東での武士の最後の戦争となった。
発端は、大承天皇の勅命で出された「議会の詔」だとされる。
時の天皇、第四十代大承天皇が、啓蒙思想や立憲政治に興味があることを「帝国派」が半ば利用して、急進的つまり近代化の大きな一歩として「議会の詔」を出させてしまったのだ。
これに「王道派」を構成する保守傾向の強い旧大東州の名門貴族達は一斉に反発し、両者の対立は一気に発火点に達する。
そして互いに自らの領内にいる軍を動かしたのだが、これを双方が天皇に仇なす行為、「逆賊」の行動となじりあった。
そして「帝国派」には、行動に出るだけの準備がある程度整っていた。
1849年の事実上の政治的敗北以後、大東国内では欧州諸国から自らが近代化するために必要な文物の取り入れを急速に開始した。
当然これは産業革命の進展と、当面の国防を行うための最新鋭の武器になる。
この動きは早くは19世紀前半から始まり、阿片戦争以後は少し速度を増して行われていたのだが、イギリスとの外交に敗北して以後、もはやなりふり構わない有様だった。
新しい文物の吸収に中央政府(御所)も有力諸侯(地方)も関係なく、財力と行動力のある勢力が一斉に動いた。
この中で特に有利だったのが、政府を例外とすると北部の新大東州と南部の茶茂呂の諸侯だった。
二つの地域では地理的要因もあって資本集約的な農業が進み、資本蓄積した貴族や武士、豪農、大商人が多かったため、旧大東州の大人口地帯に比べると産業革命に必要な資本集積が進んでいたからだった。
加えて茶茂呂地方北部には世界有数の炭田があり、同地域では資本集約農業化されたサトウキビ栽培も広く行われていた。
南都という国内最大の国際貿易港も抱え、国際貿易を行う資産を持った大商人も多かった。
新大東州は、特に草壁伯領が有利だった。
国内唯一の鉄鉱石鉱山(※鉱山規模は世界的に見て中規模)を持ち、地域は大東内でも乾燥する気候が多い為に綿花の栽培地帯となっていた。
また、大東の東に延びる東伝列島とその先端にある先島諸島、さらに大東島よりはるか北にある荒海渡海沿岸、荒須加との繋がりも深く、同地域から戻る帆船はほとんどがまず新大東州のどこかの港に帰ってきた。
以上のような条件から、農業の労働集約化が進んだ旧大東州中核地域よりも経済的に大きな優位にあった。
当然だが、地域としての購買力にも大きな違いがあった。
軍艦、武器、弾薬、近代技術、欲しいモノは幾らでもあった。
そしてそれらを先に揃えたのが「帝国派」であり、帝国派の数の主力となる新大東州は騎兵の産地として知られていた。
戦虎、剣歯猫の事を知らない者も大東ではいない。
つまり帝国派は、軍事的に圧倒的優位に立っていた。
だからこそ強硬策に出たとも言えるだろう。
しかし保守派の集合体である「王道派」も、黙ってやられるわけにはいかなかった。
事実上首都を押さえているという地の利と、数の優位を活かして対向しようとした。
だがこの争いに、大東天皇を中心とする大東の民のおおよそ3分の1は完全に蚊帳の外だった。
これは過去2世紀の開拓で開かれた農地や牧場は多くが皇領であり、貴族に属していなかったためだ。
しかもそこに住んでいる住民の多くが、西日本列島からの移民だった。
加えて言えば、戦乱は基本的に貴族と武士による戦いだった。
■特権階級
一般的に、富を独占するのは社会全体の2%とされる。
大東の場合、19世紀半ばの総人口が約6100万人なので約120万人となる。
この数字は、大東では貴族と上級武士の一族の総数とほぼ比例する。
そして封建制の国家での特権階級の数は、末端まで含めると社会全体の10%程度になる。
そして当時の大東は、世界最大規模の封建国家だった。
大東の貴族(勲爵以上)は、時代の変遷はあっても大きな変化はなく約400家ほどだった。
当時の農村部の人口が約6000万人。
うち20%程は皇帝領になるので4800万人。
単純に言えば、一家当たり12万の人口を抱える領地を持つことになる。
中世ヨーロッパなら小国並の規模で、戦国時代の日本でも十分に規模の大きな大名となる。
最大の田村公爵家だと、見た目の領内の「総人口」は400万人以上にもなる。
ここまでくると、当時の欧州の一定規模以上の国家並だ。
巨大で壮麗な居城や宮殿、庭園などが、その巨大さを今日にも伝えている。
当然貴族に含まれる数も多く130万人に達した。
地爵と武士を加えると、末端まで含めて650万人にもなる。
これだけの数がいるのだから、仮に貴族や武士が一度の戦闘で仮に数万人死んだとしても、一見大した事ないように見える。
だがここには、大東が近世的封建国家である事と、近世大東の人口拡大と国内開拓のからくりが潜んでいる。
実数では、貴族が70万人、下級貴族の地爵と武士階層全てを含めて350万人となる。
このうち元服(成人)する15才から最高40才程度までの男子が軍役に服するとして、全体の5人に1人程度度となる。
これだけだと70万人にも達する。
この数字こそが、「大東武士百万騎」の所以だ。
総人口が2000万人程度だった戦国時代でも、武士(職業軍人)は最低でも50万人いたことになる。
しかし、特権階級の全員が戦えるかというとそうではない。
封建体制下では、貴族や武士は軍人であると同時に官僚でもあるからだ。
本来、軍人を含めた官僚、役人の数は、総人口に対しておおよそ2%程度が必要となる。
70万人ではせいぜい6割程度しか賄えず、実際はさらに数字が低くなる。
このため大東国は、18世紀頃から多くの民衆を主に下級官僚として活用していた。
事務を行う官僚でも、指揮をするのが貴族や武士で、実際動くのが民衆という軍隊のような図式が少しずつ出来上がっていた。
そして平時においては、軍人の数十倍の数の官僚、役人が必要となる。
近世だと安定した国で8~10対1程度で、この数字を大東に当てはめると軍人数は約7万人となる。
実際はこれよりも少なく、3万人程度の貴族や武士が軍事に関わっていた。
19世紀半ばの大東軍の場合、陸軍の常備軍が海外領(荒須加など)を含めて15万、海軍が5万ほどの人員を抱えていた。
この数字には、軍の事務などを行う官僚組織も含まれていた。
そして大東は封建国家で尚かつ「武士の国」のため、戦う事は「武士のみに与えられた特権であり義務」だった。
例外は平時でも消耗の激しい水夫だけだった。
結果、陸軍に属する貴族、武士の数は、収入(領地)の少ない下級武士が中心とはいえ12万人にも達する。
貴族が率いて武士が戦うのが、大東の陸軍だった。
大東の軍隊に庶民は存在しなかった。
この点が、近世国家としてヨーロッパ世界とは根本的に違う点だった。




