305 Civil_War(2)
■大東開国
大東がヨーロッパ列強を国家安全保障上での脅威と感じるようになったのは、一般的には1840年に起きた「阿片戦争」だとされている。
しかし実際はそれよりも早く、19世紀が明けた前後にイギリスまたはアメリカの捕鯨船が北太平洋に入ってきた頃だった。
ナポレオン戦争の情報を知ってから、という説もある。
それだけ海外の情報が大東に流れていた証拠だった。
幸いというべきか、北太平洋には大東の捕鯨船が既に溢れ、他国の捕鯨船が付け入ることが難しかった為、欧米の捕鯨船は一通り調べると南太平洋へと向かった。
だが、いよいよ列強のアジア・大東洋(太平洋)進出が始まったと考えられた。
そしてこの時大東政府は、戦闘艦艇をほぼ1世紀ぶりに増強する政策を打ち出し、また各種帆船の改良にも力を入れた。
イギリスからの輸入が増えたのも、ヨーロッパ世界の最新の知識や技術、そして機械の現物を得るためでもあった。
しかし、文明の力を見せつける戦争となった「阿片戦争(1840年)」で、より大きな衝撃を受けたのは間違いない。
自分たちの軍事力がアテにならないと知ったことへの衝撃は非常に大きく、すぐにも全面開国と欧州からの技術、知識の大幅導入を行おうという動きが起きる。
イギリスを中心に西ヨーロッパで進みつつある産業革命についても、急ぎ取り入れる行動が進む事になった。
この結果、1850年代には大東国内で鉄道の敷設が開始されている。
そうした行動に見られるように、大東人は鎖国といってもそれなりに世界(海外)に出ており、他の北東アジア諸国ほど世界情勢に鈍感ではなかった。
それに大東人はアジアの中では直接的行動を好む傾向が強いので、一旦決めると動きは直接的で早かった。
他者の優れた点を取り入れることにも、ほとんどの場合抵抗も無かった。
技術は他から取り入れ事は、歴史上の日常的光景だったからだ。
また宗教的な制約、忌避感がなかった事も、大東の行動を早めさせた。
しかしそれでもアジア的国家であり、動きは西欧列強と比べると必ずしも迅速とは言えなかった。
それでも最新の兵器、文明の利器の購入、そして知識と製造方法の取得についても取り組まれるようになった。
それまで行わなかった、技術や知識の修得を目的とした海外留学も急ぎ政府主導で実施された。
一方で、既に大東と一定の貿易関係を結んでいたイギリスは、阿片戦争に前後して大東にさらなる開国を求めた。
また同時に、北米大陸での領土確定のための交渉を持ちかけてくる。
なにしろ大東は、当時の欧米があまり知らない北米大陸北西部に領土を有している国だった。
しかもユーラシア大陸北東端にも領土を有していた。
当時のイギリスが調べた限りでも、開発や入植から一世紀以上経ち、荒須加を中心にして大東人もある程度住んでいた。
イギリスの提案に対して、大東は否定的態度をとり続けた。
理由の多くは、政府の行動が遅かった事もあるが、何より自分たちの軍備が整うまでの時間を稼ごうとした為だった。
でないと、先に交わした対等な関係が崩されると正確に予測していたからだ。
その事を大東は、阿片戦争で理解していた。
大東に対してイギリスの行動が過激となったのは、阿片戦争から数年後の「アメリカ・メキシコ戦争(1846年から1848年)」だった。
戦争の結果、アメリカ合衆国がメキシコから多くの領土を得た。だが大東とアメリカの間には、自分たちが形だけ領有する領域(現在のバンクーバーなどカナダ北西部)が広がっていたからだ。
しかもアメリカは、イギリスの領有を阻止しようとして、大東に対して北米大陸北西部の領域について問い合わせ、さらには領土売却交渉まで持ちかけるようになった。
アメリカとしては、イギリスが形だけ領有している地域を大東が持っている事にして、全て自分たちが得てしまおうとしたのだ。
これに対して大東は、厄介ごとに巻き込まれることを警戒し、アメリカの申し出にまともに応じることは無かったが、ここでイギリスは大東に艦隊を派遣する事を決意する。
自らの国家安全保障(カナダ防衛)のため、調子に乗ったアメリカが彼らの新たな植民地を全て奪う可能性を阻止するためだった。
そうなれば、当時イギリスが構想していた、世界規模の交通、通信網、いわゆる「アーシアン・リング」完成が阻まれてしまう事も懸念された。
かくして、イギリスは急いで大東に派遣するための有力な艦隊を編成する。
有力であるのは、既に大東が自力での産業革命を開始しており、軍備も清国より有力なものを有している事が分かっていたからだ。
またイギリスが艦隊をしたてたのは、大東が自分たちは国内政治上では鎖国しているので、いかに貿易関係にあるイギリスと言っても領土交渉に応じることは出来ないと返答していたからでもある。
そして大東が交渉を長引かせる様子を、その裏でアメリカと交渉や接触を行っているのではないかと考えた。
イギリスは本国からの増援を含め大小11隻の艦隊を編成し、進路を一路大東へと取った。
艦隊を構成する全艦が蒸気艦で、艦隊旗艦は改装が終了したばかりの蒸気戦列艦という気合いの入れようだった。
このイギリス艦隊の動きは、アジア各地に貿易に出ていた大東の船、貿易港にいる大東の商人などがイギリス軍の行動を大東本国に伝えていた。
このため大東の中央政府である大東御所は、念のため直船(17世紀レベルのガレオン船の独自改良型)の出撃準備を急がせ、一部の洋上配置を実施した。
しかし決して大東の側から戦端を開く気はないので、少しでも早くイギリスとの間に交渉を持とうとした。
イギリス側にも、大東と戦端を開く気は無かった。
イギリスの蒸気艦隊はまだまだ中途半端で、既存の主力は今までのガレオン艦(帆船)で、大東に有力なガレオン船艦隊があるのなら、自分たちが多数保有する現有のガレオン船と極端な差がないからだ。
ガレオン戦列艦は、約200年もの間あまり変化のなかった完成された兵器だったからだ。
しかも当時の大東のガレオン船は、当時のヨーロッパと同様に鋼鉄鋳造製大砲を装備していたので、大砲の射程距離は2000メートル以上あった。
イギリスは最先端だったが、まだ砲口から砲弾を装填する大砲の時代のため、射程距離の差は最大で600~800メートル程度の優位だった。
これでも当時としては十分な優位なのだが、基本的には同程度の艦艇となる。
チャイナのジャンク軍艦とは格段の違いだった。
大東が有する戦闘艦は、欧州の少し遅れた国が有する艦艇に匹敵していた。
しかも大東は、ヨーロッパから見れば人口の多い島国で、国家、税政、軍事費もしっかりしていたので、海軍の規模も相応に大きかった。
幸い大東は軍備に大きな金をかけていなかったが、それでも3等以上の大型戦列艦クラスが10隻以上あった。
この数は、性能はともかく決して侮れれなかった。
ヨーロッパの勢力均衡を考えると、アジアの僻地に大東に対抗もしくは圧倒できる戦力を派兵することは非常に難しいからだ。
そのうえ地の利は大東側にあり、イギリスにとっての大東は地球の反対側のような場所にあった。
故にイギリスが仕立てた艦隊も、大東と強引に交渉するための艦隊だった。
イギリスが赴き先として選んだのは、大東が最大の貿易港としていた大東南部の南都だった。
古くからスペイン船が立ち寄り、近年は自分たちの商船も鯨油を買い付けるために訪れていたからだ。
しかもイギリスの商館も設置されており、交渉を行うには打ってつけの場所だった。
しかし、イギリスが紳士的だったかといえばそうではない。
大東側の言葉を半ば無視して艦隊を南都に進め、強引に大東に全面開国と領土確定の交渉を求めた。
そして阿片戦争での蒸気船の威力を知っていた大東は、イギリス側の強引な交渉に応じるより他無かった。
ごく一部に戦端を開くべきだという強硬論もあったが、長い平和に慣れていた大東政府は交渉を決意する。
1850年春に南都で会談が開催され、「南都条約」が結ばれる。
この結果、大東はイギリスに対する全面開国、開港地の増加、貿易無制限、そして北米北西部の国境線が定められる。
そして軍事力を背景にしたイギリスに対して、大東はイギリスの治外法権、関税権を認める不平等条約を結ばざるを得なかった。
この時決められたカナダ地域との国境線は今日とほぼ同じで、これ以後アメリカとの交渉でもイギリスのカナダ領有の大きな根拠となる。
必然的にアメリカに要らぬ恨みを買うこととなり、大東を含めた日本とアメリカとの関係の最初の躓きになったと言われることが多い。
なお、イギリスが領有する事になった地域にも僅かに大東人が住んでいたが、イギリスはこれを市民として受け入れ、今後も移民を受け入れることにもなっていた。
しかし殆どの大東人は、自国領ではなくなった土地を去っている。
そしてその半年後、1850年にはイギリスとアメリカとの間に北米での領土交渉が実施された。
結果北緯49度で売却分割される事が決まり、北米大陸の国境線が確定する。
その後イギリスは、半ば大東への興味を失ってしまう。
1854年からクリミア戦争、アロー戦争など戦争が続いたせいだと言われているが、イギリスにとって当時の大東は市場としての旨みに欠けていた。
何より、途中で折れたとはいえ徹底抗戦の意志を見せた事が、最大の原因だった。
それに正直北米北西部を奪えば、当面は大東に用なしだったのだ。
市場としてならチャイナの方がはるかに巨大だし、なにより弱かった。
大東が無視できない軍事力を持っていることを、イギリスは大東を訪れた際に実感させられていた。
何しろ交渉をしている途中に、大東は集められる限りの戦闘艦艇を南都に集め、その中には多数の在来型ガレオン戦列艦の他、急ぎ誂えた蒸気軍艦もあったからだ。
だが、大東政府自体の弱腰は変わることなく、イギリスは大東政府の自信に対する過小評価を最大限に利用する事に成功した事になる。
そしてその後、大東は他の欧州諸国とも次々に国交を開いていった。
フランス、ロシア、アメリカ、オランダ。
再びスペインとも国交を開いた。
混乱する大東政府は、自らの力(国力、軍事力)を必要以上に弱く見積もり、自ら交渉を不利にした。
そして弱腰の姿勢は交渉相手に見透かされ、さらに欧米世界の外交知識が不足していた為、全ての国との間に不平等条約を結ばざるをえなかった。
そんな政府の弱腰は、大東の民に非常に大きな不満を呼ぶことになる。
結果、歴史上日本以外の敵を抱えたことのなかった大東は、以後大きな混乱を苗床とした新たな政府もしくは国家の勃興期に突入する。
日本と北太平洋周辺図




