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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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304 Civil_War(1)

■形だけの鎖国


 戦国時代が終わった17世紀前半以後、一世紀半もの長い停滞した時代を過ごした大東が「海外」もしくは「外国」を本格的に意識したのは、西暦1778年にイギリスの海洋探検家キャプテン・クック(ジェームズ・クック)と言われる。

 

 彼らは2隻の艦隊(船団)で大東人が自らの領域だと認識していた北太平洋各地を探検した事が、大東人にとって自分たちのテリトリーに外来者の侵入を許したと考えられたのだ。

 故に、キャプテン・クックに対して、その存在を大東政府が確認すると、かなりの警戒感をもって当たるようになる。

 

 大東政府は、ヨーロッパ勢力(欧州列強)の潜在的な脅威を感じ、不意の訪問者であるクックに対して、補給と指定した場所での一時休養のみを認めた。

 一方のクックは、大東の存在をむしろ喜んだ。

 既に大東が北太平洋のほぼ全域で捕鯨を行い各地に拠点を設けていたため、自らの補給や休養について大東を頼りにする事ができたからだ。

 

 この時クックらは、スペインが17世紀末頃に大東から目が飛び出るような高値(※膨大な量の銀だったと言われている)で手に入れた北太平洋沿岸の大まかな海図と沿岸部の地図が概ね正しいことを確認し、さらに空白だった地域の穴埋めを行っている。

 一部では大東に無断で測量も実施した。

 

 そしてクックの来訪によって、大東政府はもう少し自分たちの領域について詳しく知っておくべきだと考えるようになった。

 また、万が一の事態に備え、沿岸防備を強化するべきだと感じた。

 

 そして大東も、既に自分たちが足を伸ばしている地域についての、本格的な調査や測量を実施し始めた。

 藤岡弘蔵の北極・荒須加探検、千島半島探検、川口浩之進の南洋探検などが有名だろう。

 彼らの紀行文は、大東国内でも広く読まれたほどだ。

 

 この結果大東の探検隊の一部は、まだイギリスやフランスそしてアメリカ人が入り込んだことのない北アメリカ大陸北西部のかなりを歩き回った。

 現在国境となっている針馬川(マッケンジー川)などが地名にも残されている。


 南でも赤道を越えてオセアニア地域にまで足を伸ばしており、オーストラリアでは出来たばかりのブリテンの入植地(流刑地)にも出会っている。


 ユーラシア大陸の北東部にも足を伸ばし、そこがどういう場所かを確認。千島半島などには改めて標識を設置したりもしている。


 しかしこの時代の探検や進出は過酷で、また遠くに行きすぎても領有や管理が難しいと判断された。

 このため北米大陸の奥深くは探査されなかったし、南洋では無理に植民地化も行わなかった。

 

 なお、大東にしか生息していなかった剣歯猫が北米に来てその後野生化したもの、この時期に猟犬や番犬代わりに連れて来られたのが原因だと言われている。

 

 大東人にとって、未開地に連れて行く時の剣歯猫ほど頼りになる「相棒」はおらず、殆どの探検家、探検隊が連れている。

 このため大東人は、他国や各地の先住民から「獣使い」と呼ばれた。

 

 そして環太平洋各地の探検事業によって、大東は自ら鎖国を捨て去ったと言われる事が多い。

 行っている事は、欧州列強と同様の植民地獲得のための準備行動のようなものだったからだ。

 

 しかし文明世界の辺境に住む大東人としては、単に文明人がいない地域は自国領内の延長地域という感覚があった。

 そして大東にとって、北大東洋(北太平洋)は自分たちしか(文明人)がいない場所だった。

 

 もっとも、クックの来訪以後、ヨーロッパの人々は大東の領域にほとんどやって来なかった。

 クックの後を継いだバンクーバーは、主に北米大陸西岸を探検しているので、大東の感知するところではなかった。

 それにイギリスは北米大陸西岸よりも、オーストラリア大陸など南太平洋に興味を向けたことが原因していた。

 なによりヨーロッパから北太平洋の奥地は遠すぎた。

 


 挿絵(By みてみん)


大東と北太平洋地域



 18世紀末から19世紀の初頭にかけては、大東から見ればイギリス(ブリテン)の貿易船が鯨油などを買い付けに大東島やって来るようになったぐらいでしかなかった。


 一方同時期、北からはロシア帝国のエカチョリーナ女帝が、大東との間に正式な国交と貿易関係を結ぶことを求める。

 また両者の境界線の確定も求めてきた。

 

 大東とロシア帝国は、ユーラシア大陸東端部(大東名:北氷州)で国境を接していることになり、18世紀ぐらいからは小規模な貿易が商人や狩猟団レベルで実施されていた。

 

 このため大東側も、自分たちは鎖国している事を理由に無視するわけにもいかず、ロシア側に「特例」だと恩着せがましく言い立てるも、対等な立場での通商関係の樹立と両者の国境線を定めた。

 

 意外と言うべきか、大東政府内及び国内でロシアとの関係樹立に対する反発は少なく、事実上の鎖国解除と開国による混乱はほとんど見られなかった。

 北の僻地で接し続けているので、ロシアに関しては隣人感覚があったからだと言われる。

 

 なお、この時ロシア側は、隣国日本(江戸幕府)との仲介を求めるが、大東は他国の事だとして謝絶している。

 しかしロシア人も、その後あまり来なくなった。


 ヨーロピアンが来なくなった理由を知ったのは、使者を乗せたイギリスの軍艦が大東にやって来た時だった。

 19世紀初頭、ヨーロッパ世界では世に言う「ナポレオン戦争」が行われ、フランスの従属下となったスペインとの交流を絶つように、イギリスが大東に求める使者を送り込んできた。

 

 この時点でイギリスは、大東が新大陸北西部の領有権を主張している事も知っていたので、大東がスペインと国境も接する国と考えての行動だった。

 

 しかし大東側は、一応鎖国している大東本国にイギリスが軍艦を送り込んできた事に警戒感を示し、自らの軍艦(欧州から見ると既に旧式化したガレオン船)を動員してイギリス艦を謝絶の形ではあるが追い返してしまう。

 

 この時はそれ以上の事件にはならず、ウィーン会議に大東が呼ばれるような事もなかった。

 大東も、その後も相手が自分たちの領域に来る以外で、ヨーロピアンを特に相手にしなかった。

 

 それでも何もしないわけではなく、軍備の増強と防衛体制の強化を実施している。

 本国以外にも、定期的に艦艇を派遣するようになった。

 さらに海外に向かう貿易船などに、情報収集を命じるようにもなっている。

 


 そうした中で、一時期大東にとって問題となったのが、アメリカ船籍の捕鯨船だった。

 欧米人たちが大西洋で鯨を捕り尽くしたので(北極鯨などが絶滅寸前になった)、太平洋へとやって来るようになっていた。

 スペイン、イギリスが鯨油を買いに来たのも、大西洋での鯨資源の枯渇が原因だった。

 

 そして北太平洋一帯は、古くから大東の漁場だった。

 各地で多数の捕鯨船も活動しており、大東の海外領土のかなりが捕鯨のための補給拠点、中継点として保持されているようなものだった。

 捕鯨船の数も多数にのぼり、鯨油はスペイン、イギリスへの大切な輸出品でもあった。

 

 それでも新たな漁場を求めるアメリカ船は、太平洋へと入ってきて、さらには大東に補給を求めるようになる。

 これに対して大東側は、正式な国交がないとして期限を定めた有償での補給のみを認めるも、自分たちが使う港への寄港は緊急時以外認めなかった。

 

 そして数年もすると、アメリカの捕鯨船は少なくとも北太平洋からは姿を消した。

 大東との数の違い、地の利、国交の有無から、有望な漁場でないと判断されたからだった。

 この後アメリカの捕鯨船は、南太平洋での捕鯨を求めてしばらく彷徨う事になる。

 

 そしてこの事は、既に南太平洋に食指を伸ばしていたイギリス、フランスを刺激し、南太平洋での植民地獲得競争を加速させていく事にもなった。

 


 ロシア人の次に大東との関係を望んだのは、ナポレオン戦争で強硬姿勢に出たイギリスだった。

 理由は鯨油獲得だった。

 

 北太平洋の鯨油は、多くを大東自身が消費していた。だがそれでも、かなりの量がスペインの手でヨーロッパに運ばれていた。

 これがナポレオン戦争でのスペインの決定的な没落、新大陸植民地の独立で、貿易そのものが途絶えてしまった。

 

 ナポレオン戦争中は、ヨーロッパ大陸自身をイギリスが逆に封鎖したため良かったが、戦争が終わるとヨーロッパ中で鯨油不足が起きる。

 当時鯨油は、最も重要な油脂資源だった。

 照明、潤滑油、ロウソクや石けんなどの材料として鯨油は欠かせなかった。

 

 アメリカが模索したような、新たな漁場開拓を行う時間も無かった。

 そして急ぎ大量に鯨油輸入する必要があった。

 だが、その対象となる国が、北太平洋全域を縄張りとしていた大東しかなかった。

 このためイギリスは積極的に大東へ接近し、開国しなくてもいいから鯨油貿易だけでも行うように求める。

 

 これに、当時国内で鯨油がだぶついていた大東側も応え、スペイン船の代替として場所を限ってのイギリス船の寄港を認めるようになる。

 


 その後、鯨油の輸入を拡大したいイギリスは、大東との交渉を重ね、大東側も今更特に鎖国を続ける理由もないと判断して、全ての面で対等な条件、関係であるならばと、大東側から条件を付ける形で西暦1833年にイギリスとの間に正式に国交を結ぶこととなった。

 

 ただしイギリスに対しての通商関係のみであり、完全に鎖国を解消したわけではなかった。

 大東人の感覚としては、スペインの代わりにイギリスが貿易相手になっただけだった。

 

 この時イギリスは、大東が一定以上の軍事力(多数の大砲、帆船による海軍力)を有している事、円滑に鯨油を獲得する事の二つを理由に、大東との間に公平な関税関係の通商条約を結んだ。

 

 なお、大東とイギリスの貿易では、大東は主に鯨油を輸出して、イギリスからは工業製品や武器、機械などを輸入した。

 そして年々大東が輸入する金額が増えた為、イギリスは清国にしたような阿片の密売は行わなかった。

 

 当時イギリスが大々的に売り込んできた蒸気機械で作った綿製品も、旺盛な国内需要があった事もあって、大東はそれなりに購入していた。

 ヨーロッパの珍しい工芸品も評判だった。

 スペインの代わりとなったイギリスは、大東にとってすぐにも必要な貿易相手となった。

 

 そしてこの時期のイギリスにとっての大東は、少なくとも東アジアでの上客だった。


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