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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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302 National Isolationr(鎖国)(2)

  ■日本における大東の影響(2)


 最も大きな影響を受けたのは、西暦1614年の「石山の陣」においてだった。

 

 この時までに豊臣秀吉が築いた石山城は、日本では珍しく市街地を取り込んでいた。

 そして街ごと「惣構え」と呼ばれる巨大な堀と土塁で囲んだ防御構造物を有していた。

 城の中心から等距離にも、同様の土塁による城郭が形成されていた。


 しかも、各所に大量の大砲が据え付ける事で防御だけでなく攻撃力もあり、「難攻不落」を謳われた。

 当時の日本で最も射程距離の長い大砲(欧州製)でも、石山城の中心部に砲弾を撃ち込むことはほぼ不可能だった。

 要するに、大東型要塞に改修されていたのだ。

 

 また石山城以外にも、豊臣氏が有する周辺部の小さな城のいくつかも、砲撃戦を前提とした強固な構造に改築されていた。

 これは石山湾に面する沿岸地区にも及んでおり、砲撃戦に適した巨大な沿岸要塞群と化していた。

 当然だが、沿岸に艦船が近寄る事も難しかった。

 

 石山城のような構造を持った城塞は、この当時いくつか建設もしくは改築されており、大東征伐で受けた心理的衝撃の大きさを見ることができる。

 

 また、砲撃戦を前提とした城には大量の大砲が必要だが、これを大東の大坂から裏切り者として脱出した商人と彼らが連れてきた職人が可能とした事も、石山城の城塞の完成度を高める大きな要因となっていた。

 石山城の惣構えと周辺城塞群は、西日本で唯一の本格的な大東式要塞だった。

 


 そして1614年の「石山冬の陣」を迎えるが、20万の大軍で攻める徳川方は、ウィーンを攻めたオスマン帝国軍のように初戦から非常な苦戦を強いられた。

 

 攻め寄せる徳川方には、大東征伐に参加しなかった武将が多く、しかも世代交代している事が多かった為、大東での教訓が反映される前の西日本型の戦闘を行おうとした事が苦戦の原因となった。

 攻城戦に必要な大砲の装備数も限られていた。

 

 このため戦闘初期は、10万の浪人(傭兵)と多数の火砲、食糧を有する石山城は全く揺らぐ気配が無かった。

 一部では、城内からの砲撃の支援を受けた突撃で徳川方が蹴散らされる場面すら見られた。

 

 周辺の支城もなかなか陥落せず、せっかく持ち込んだ徳川方の直船(ガレオン船)による艦隊も、沿岸要塞の砲撃を恐れて海上封鎖任務以外には使えなかった。

 

 徳川方が切り札として用意した西欧製もしくは大東製の長射程カノン砲も、壮麗な城壁から転じて戦時の土盛で覆われた石山城に届かないものが多く、届いてもあまり効果が無かった。

 

 心理的効果を狙った長距離射撃による本丸攻撃でも、御殿周囲までもが臨時に盛り上げた土の山で覆われていたので、遠くからでも視認できた天守閣こそ多少は傷つけたが、それ以上ではなかった。

 

 豊臣方の首脳陣は、事前に築かれていた安全な場所から指揮をとったし、淀の方以下の女性なども土塁で囲まれた完全な安全地帯にいた。

 

 木津川河口部では、業を煮やした徳川方の攻撃で直船(日本型ガレオン船)複数の艦隊による艦砲射撃も実施されたが、沿岸要塞との砲撃戦で手もなく撃退されて大損害を受けた。

 この時の損害のせいで、その後江戸幕府が直船よりも沿岸要塞を重視するようになった程だった。

 

 そして大砲と大砲への対応防御を持った巨大な城塞での戦いは、基本的には補給の戦いだった。

 そして補給の戦いでは、莫大な富と物資を事前に蓄えていた豊臣陣営が優位だった。

 

 これも西日本の人々が、大東での戦いで影響を受けた結果だった。

 豊臣陣営は、戦いが始まるまでに周辺から持ち込めるだけ持ち込んでいた。

 備蓄物資の量は、10万の兵が5年戦えると言われた。

 

 対する徳川方は、精々1年程度の戦闘しか考えていなかったので、このまま座視していては、ウィーンを攻めたオスマン軍と同じ末路しか待っていなかった。

 


 そこで徳川陣営は、途中から攻城戦から長期の戦略的な包囲戦に方針を転換する。

 城の近くから一度軍を引いて全ての街道、海路を完全に封鎖し、京、姫路などに主要な軍勢を引いて相手の疲弊を誘おうとした。

 加えて、敵を孤立化させるために支城攻略に力を入れた。

 

 この作戦はある程度功を奏し、焦れて出撃してきた豊臣方浪人衆の一部撃破にも成功した事。

 そして戦闘開始から約9ヶ月経過した翌年8月になると、住民が逃げ出して無人となった石山は多くの浪人を抱え込みすぎた事が徒となって、備蓄食糧が急速に減少するようになる。

 

 西日本の基準では大量に蓄えられた食糧や物資ではあったが、石山城は大東の城塞ほど物資を備蓄できるようには作られていなかったのが原因だった。

 一方で徳川方は、大量の大砲、弾薬を大東から調達した。

 城攻めのために、大東から専門家も招き寄せた。

 

 この段階で徳川方は、改めて大軍を仕立てて石山城に攻め込む。

 そして砲撃と塹壕による激しい戦闘の末に石山城を攻め落とし、豊臣氏を滅亡に追いやった。

 ただし石山城が陥落したのは、内部からの裏切りがあったからで、城としての石山城が正面から破られたわけではなかった。

 


 関ヶ原の合戦以後に徳川家康が覇権獲得を急いだのも、守りに異常に強くなった砲撃戦に対応した城が日本全国に普及するのを強く警戒した為と言われる。

 

 実際、江戸幕府は、城塞建築には大きな制約を課している。

 強固な城塞による領土、境界線固定化の傾向は、ヨーロッパ世界全般でも見られているので、江戸幕府は先見の明があったと言えるだろう。

 

 そしてその影響で、その後西日本各地に建築された城は、優美な鉄砲対策の石垣と建造物を持つ場合が多いが、砲撃戦にはあまり適していない防御構造のままとされた。

 

 戦闘方法も、戦国時代の後半頃の大砲を用いない戦い方(甲州軍法)があえて最上とされ、幕府はその流布に務めた。

 大名の大砲所持についても、厳しい制約が課せられた。

 

 例外は江戸城の一部構造、沿岸防備のための砲台だったが、全て幕府直轄の場所に限られた。

 故に江戸時代の日本の城は、近世の軍事要塞としての役割は限定的で、権威、権力、財力を示す要素が非常に強まることになる。

 このため江戸時代の日本の城は、軍事用としてではなく権威を見せるための施設として発展した。

 「城」は「城館」もしくは「宮殿」とされたのだ。

 


 一方で鎖国政策の方だが、長崎が大東以外に対する門戸とされた。

 だが、大東との戦い、大砲を用いた戦い、直船(ガレオン船)を用いた戦いでの教訓から、「出島」と呼ばれる一種の隔離区画を整備するのと同時に、長崎の沿岸部には幕府の肝いりで頑健な沿岸要塞が同時に建設された。

 これは示威を目的とした建造物でもあり、西日本の人々としてはかなり珍しい光景となった。

 

 また、大東への門戸とされた浦賀にも、同様に沿岸要塞が整備された。航路の要衝にも規模の大小はあるが沿岸要塞が整備され、これらの負担金を諸藩が多く拠出することで、幕府安定の一助ともされた。

 

 しかし、西日本列島にとっての戦争の影響と鎖国への対応は、国内政策を除けばその程度のものだった。

 大東を含めた日本という地域がヨーロッパから見て世界の辺境にあるので、その程度で十分だったからだ。

 


 ■大東の鎖国


 大東国は、豊臣秀吉の「大東征伐」以後、自国の混乱が収まる間もない間に鎖国を断行した。

 理由の多くは、「日本の侵略」を防ぐ為だった。

 

 戦国時代が終わったばかりのため国内の安定を理由としたが、真の目的が日本人を大東から一度閉め出し、加えてまずは防備を完全なものとする為だった。

 

 また、国内には西日本に対する復讐を考える人々が少なくなかったが、大規模な侵略が成功する可能性は低かった。

 侵略による国力の消耗を嫌った大東政府が、強硬論を封じるために鎖国を選択したとも言えるだろう。

 

 このため鎖国については徐々に緩和する予定だったし、自分たちの都合で鎖国する対象や地域を最初から分けていた。

 定期的に南都に寄港するイスパニアの大型ガレオン

=スペイン船)は、終始鎖国の対象外だった。

 大東皇帝が鎖国政策を特に止めなかったのも、自らが鎖国をしているという認識が浅かったからだという説が根強い。

 

 また逆に、17世紀前半には西日本列島に対する武器売買などが、自分たちの都合で実施されている。

 商人の行き来も、朱印状を出すことで西日本の商人でも普通に行っている。

 

 つまり期間限定、地域限定の鎖国を目指していたのであり、豊臣一族を滅ぼした日本の江戸幕府が友好的な接触を行うと、それを好意的に受け入れてすらいる。

 

 また大東島には足りない資源が多いため、自らが海外に赴く事を止めるわけにいかなかったという理由もある。

 西日本からの銅や銀、錫、鉛の輸入も欠かせないなど、大東には足りない資源が多かった。

 

 そして大東の鎖国は、文明国との接触と貿易、文明地域への進出の制限が基本で、資源獲得のため非文明地域への進出は基本的に例外とされ続けた。

 

 東南アジア諸国との貿易関係は、大東でも香辛料の需要があるため行われた。

 だが、主に香辛料貿易を独占したオランダの隙間での貿易が中心で、他に欲しい物産に乏しい為、大規模化する事もなかった。

 

 このため政府が指定した朱印状を持った大商人の貿易船が、数を限って南方に貿易に赴くだけとなる。

 許可を得た自国の貿易船が海外に出ていくという点が、江戸幕府との大きな違いだった。

 人の出入りも、許可さえあれば咎め立てされなかったほどだ。

 このため大東国は「限定開国」とも言われ、鎖国していないとされる場合もある。

 

 また、スペインの植民地となっているフィリピンへは、中華商人などが持ち込む絹を手に入れるため、かなりの規模の貿易が長らく続けられた。

 さらに太平洋航路を往来するスペインの大型ガレオン船も、大東南部への寄港の際に大量の絹や陶磁器を持ち込んだ。

 他にも、大東の金と新大陸の銀を交換したりもしている。

 一方で、目的のない国とは交流はなく、近隣だと朝鮮王国とは全く交流がないままだった。


 以下、大東での鎖国を神の視点から箇条書きして、一気に19世紀へと進みたい。


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