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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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301 National Isolationr(鎖国)(1)

 俗に言う「鎖国」は、近世における日本民族の歴史で最も重要な政治的決断の一つだった。


 日本(西日本列島)の江戸幕府による鎖国は、他の北東アジアの国々と同じように、主に国内安定を得るために行われた。

 また江戸幕府の鎖国は、貿易の輸入超過に伴う金銀の国外流出とそれに伴う経済の混乱を防ぐという大きな目的もあった。

 そして何より、大東を恐れるが故に鎖国した。

 

 このため日本(西日本列島)での鎖国は、感覚的な捉え方はともかく限定的なものに止まり続けた。

 近年では、鎖国ではなく限定開国だったと言われることもある。

 しかし、日本人の海外渡航禁止など行きすぎた点も数多く見られ、その点では北東アジア特有と言えるだろう。


 日本地域の中でも、東日本列島とも言われる大東島の大東国にとっての鎖国は、当初は国内安定よりも国防の要求によって行われた。

 大東の過去の歴史において、何度も西日本列島からの侵略を受けた為の予防措置だった。

 当然、西日本の船が大東に来ることを制限する為の措置で、実施も日本より早く17世紀に入ってすぐ実施された。

 

 しかし、西日本の江戸幕府が1620年代から鎖国に入り、自らの海軍力すら大きく制限すると大東が鎖国をする理由が薄れ、大東での鎖国政策は緩められた。

 このため大東国の鎖国も、限定鎖国だったと言える。

 

 だが、国内から反対がないので、政策自体の根本的な変更を行う政治的決断は実施されなかった。

 このため、日本以上に限定的とはいえ、大東国も鎖国を続ける事となった。


 一方で大東人は、鎖国によって国内で不足する資源入手を創意工夫で生み出したり代替するのではなく、自分たちにとって鎖国対象とならない「非文明地域」の近隣地域で入手することで、鎖国に対する二重規範を持った。

 江戸幕府にとっての樺太がこれに当たるだろう。

 

 加えて、政府の人と船は厳しいながらも許可制で海外渡航が出来るという形だった。

 この拡大解釈で、政府直轄による商業事業(海外貿易)も限定的ながら可能とされていた。

 

 北太平洋上という文明世界の辺境にある大東にとって、西日本からの侵略がなければ鎖国の必要性は実質的に無かったのだ。

 そのためか、南部に寄港するスペイン船との交易関係は、一度も閉ざしたことは無かった。

 だが、大東島が当時の感覚では世界の最果ての地に当たる事が、鎖国をなし崩しに続ける結果にもなった。

 

 大東の鎖国がある種いい加減だったのは、文明地域の最も辺境に位置していたという立地条件が非常に大きな要因だった。

 加えて、本来なら鎖国政策自体が必要ないものだったからに他ならない。

 

 大東は、非常に孤立した地理的条件にありすぎるため、少しでも自ら鎖国に向かうと簡単に世界から孤立したからだ。

 そして大東に住む人々も、その事をある程度理解していたのでいい加減な鎖国となったのだ。


 では、混乱の19世紀、戦乱の20世紀前半を見る前に、「ジャパン・モラトリアム」とも言われる時代を象徴する鎖国と関連する事項について少し見ておきたい。

 


 ■日本の鎖国まで


 日本(※江戸幕府もしくは西日本列島)の鎖国は、一般的にはキリスト教を禁止して国内安定を得るためだと言われている。

 また一説には、「スペインが日本侵略を企てている」というオランダの謀略に乗せられたとも言われる。

 

 しかし江戸幕府、というより西日本列島の人々が本当に恐れたのは、東の大東国だった。

 豊臣秀吉の「大東征伐」による復讐心に駆られた大東国から、少しでも攻められないようにするために鎖国したのが真相だったと考えられている。

 そう考えれば、日本が清国、朝鮮、そしてオランダとの貿易を限定的ながら続け、鎖国が不完全だったのも頷けるだろう。

 

 また、江戸幕府が常に沿岸防衛に一定の力を入れ、建造を禁止した直船(ガレオン船)の軍船は自らだけ保有し続けた事にも納得がいく。

 

 江戸に自らの政治中枢を置き続けた事を疑問視する声もあるが、当時開発の遅れていた関東防衛のため、開発を促進するためだった事が後年判明している。

 沿岸部の要塞や造船施設、大砲製造の大規模な生産施設などが、それを裏付けている。

 

 ただし、大東が日本侵略の意図がないと分かってからの江戸幕府の態度軟化後も鎖国政策を変えなかったのは、江戸幕府の東アジア的な硬直性を現していると言われる。

 大きな変化を嫌うのは、現代以前の北東アジアの国家によくある傾向だ。

 

 なお、大東の西日本列島に対する干渉で代表的なのが、豊臣一族を滅ぼす事だったと言われる。

 これは徳川陣営(幕府)に優先的に武器を売ったことでも象徴されるし、1615年に滅亡した豊臣陣営の亡命を完全に拒絶した事からも頷ける。

 

 西日本列島には頻繁に密使や密偵が出されたし、反豊臣側への資金援助、武器援助すら行われている。

 大東国にとって、豊臣一族とそれに連なる者は完全に「悪」だった。

 

 豊臣一族が滅びた後も生き延びていた一部大名も、大東からの強い働きかけで「お取り潰し」になった家が多数あるとも言われている。

 実際、賄賂や圧力があった記録も残されている。

 

 ちなみに、大東が西日本列島に様々な形で干渉するようになったのは、戦国時代からだった。

 多くは個々の商人による武器や鉄などの売買だが、戦国大名に対する交渉や接触も数多く見られた。

 特に地理的にも近い奥州(東北)、有州(有守州)に対する接触が大きかった。

 

 それまでも、15世紀に入るぐらいから活発な相互貿易は本格化していたが、戦争という大量消費が交流と貿易のさらなる活発化をうながした。

 

 西日本の人にとって、奥州の戦国大名として有名なのは伊達政宗だろう。

 他にも最上氏など有力大名がいるし、北関東で太平洋岸の佐竹氏も地理的には大東に最も近い。

 

 北の有州島だと、有南の柿崎氏、松前、有東で日本化が進んでいた現地アイヌをまとめあげた久須里氏が有力な戦国大名になるだろう。


 なお、有守州でのアイヌは、源平合戦で日本と大東が袂を分かってから、常に大東から物心両面で影響と支援を受けていた。

 このため、室町時代には奥州よりも先進的な農業と武力を持つようになっていた。

 

 有州(北海道)での農業は、比較的温暖な南部や東部沿岸でも稲作の収穫量に換算して合計で約50万石程度あった。

 ただし、大東の新大東州中部同様に、小麦などの麦類、そして牧畜が主産業だった。

 家畜も主に大東の少し大柄のものを飼っていた。

 

 主に東日本海側で稲作が進んだのは、室町時代も後期の事だった。

 そしてこれらの農業のお陰で、有州の総人口は戦国時代末期で100万人に達していた。

 

 そして農業の主な生産地である石狩平野南部を中心に勢力を持つ柿崎氏、松前氏、平安時代に日本人を受け入れたと言われる十勝平野のアイヌ系の久須里氏は、奥州の北部や日本海側の大名の多くよりも大きな勢力を持っていた。

 

 しかし有州島は、海の難所の津軽海峡で本州と隔てられている上に、西日本の政治経済の中心から地理的に遠かった。

 しかも島内での勢力争いに努力を費やすことが常で、彼らが気が付いた時には奥州の大名達までが西日本の中央に屈服する段階だった。

 

 そして戦国時代の奥州でほぼ一人気を吐いた伊達政宗だったが、最大250万石と言われる領土をもってしても、豊臣そして徳川の力は大きすぎた。

 

 一説には、関東、奥州、有州全ての大名の力を結集し、さらに大東から武器の支援を受けて中央に押し出す構想が進んでいたと言われ、大東からも大量の武器を購入した記録も残されている。

 だが、伊達政宗が最終的に選んだのは、日本中央に対する恭順と服従だった。

 有守島の諸侯も、豊臣秀吉の誘いに乗る形で服属を誓い、ここに西日本列島の再統一が完成する。

 

 そして奥州、有州共に、日本の中央に服属すると、それまでの大東との関係を絶って大東島への侵攻にも参加した。

 このため、徳川幕府が大東国と和解するまで大東との関係は断絶し、その後は大東、日本の相互不干渉の不文律の中で大東との関係が大きく薄れ、日本の「田舎」の地位へと落ちることになる。


 しかしその後、17世紀後半頃から大東への移民という形で、西日本北部と大東の関係と交流が復活している。




  ■日本における大東の影響(1)


 西日本列島に対する大東の影響は、大東で戦国時代の始まるまでの武器売買と相互貿易による経済の活性化が最も大きいと言われている。

 

 実際、15世紀前半から両者の貿易と相互移動は活発化し、16世紀に入って日本での戦国時代が本格化すると、大東からの輸出が急増した。

 この中での文物の交換、技術の交流は、双方の戦争全般にまで影響を与えた。

 加えて、戦国時代末期の戦闘にも強く及んでいた。

 

 16世紀末の「大東征伐」で、今まで自分たちが行ったことがなかった大規模な攻城戦(対城塞都市戦)を行った日本人達は、大東人が運用する大量の大砲に度肝を抜かれた。

 また、大砲戦に適した、盛り土による大規模な築城術も目の当たりにした。

 

 大東の「城」は、日本の「城」と違って複雑な構造は少なかった。

 だが、砲撃戦に適応した幾何学的な凹凸、いわゆる星形の構造と、それを形作る盛り土は砲撃に対して非常に堅牢だった。

 そして大砲と鉄砲で武装することで攻撃的だった。

 

 大東の要塞は、一部は独自に発展していたものではあるが、かなりの面でスペイン人の助言をもとに発展したもので、同時代の西ヨーロッパ地域に匹敵する強固で先進的なディフェンス・システムだった。

 

 また大東の野戦軍が、日本以上に鉄砲を多用している点も注目された。

 平地が多い地形の違い、人口規模の違いが大東の戦争を形作っていたわけだが、帰国した西日本の武士達に与えた影響も大きかった。


 大東征伐での教訓が最初に反映されたのが、「関ヶ原の合戦」の一連の戦闘においてだった。

 

 攻城戦では効果覿面てきめんで、豊臣秀吉が築いた壮麗な伏見城は、大東で捕獲した大砲などによる砲撃戦で呆気なく落城、崩壊した。

 それ以外でも、東西両軍共に大砲を数多く運用して、各地の城を短期間で攻め落とすか開城させている。

 

 この結果、日本での城塞建築の思想が大きく転換したと言われる。

 攻城戦が各地で短期間のうちに進んだため、決戦が一ヶ月早まったと言われることが多い。

 

 技術的な問題もあって野戦での大砲の効果は低かったが、「関ヶ原の合戦」では互いに大量の火砲を戦場に持ち込み、それなりの教訓を得た。

 

 だが、大東征伐から時間が短かった為、この時の戦いに与えた影響は少なかった。

 また大量の大砲を運用するには、西日本国内での火薬の原料となる硝石の供給能力が足りない事が、装備の転換を阻んだ。


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