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009 ビバ、インディペンデンス(3)

 ・1206年

モンゴル帝国成立。

チンギス=ハーンはクリルタイを開き、全てのモンゴル民族の長となった。


大東原初年代記によると、この頃に大東武士団の慣例をもとに新たな行政体系を作り上げていった。

大坂に大東国真正朝廷を置き、天皇と公卿(貴族階級)から成る朝廷会議からの管符と呼ばれる命令によって知行国の各領地が管理された。


知行国の防衛には、貴族に代わって荘園管理を行う知行地頭の率いる武士が利用された。このように、日本とは違い未だに公家政権ともいうべき政体であった。


貴族の3割程度は公家とは名ばかりの豪族のような存在であったため、大東朝廷と武士の距離は日本の場合と比べて近かったと言える。やがて、日本との対立を通じて貴族の武士化の流れが進展する。


大東平氏は、以仁天皇一族との姻戚関係により完全に皇族、王族化。

源義仲や一部の源氏も最終的に大東に落ち延び、以仁天皇のもとに集って大東の皇族に名を連ねていく。



 一口メモ:大東国の宗教政策-----------------


 宗教面では、大東国の国教は仏教だった。だが、日本において仏教と神道が並存していたのとは異なり、大東国では民衆レベルでの宗教は神道だった。

 よって、仏教寺院は大東国の玄関口である大坂近辺(及び、後の東京近辺)に若干数分布しているだけである。


 仏教は大陸の歴代政権と付き合う上で重要な外交チャンネルであったし、僧は知識人=情報源であった。つまり、外交儀礼上、国策として保護されていたに過ぎない。


 古大東人の影響を強く受けた大東国の神道は、のちの日本における神社神道に近く、大東人は神道を宗教だとも捉えていなかった。それくらい自然に共同体に根付いていた。

 明確な教義や教典がなく、万物に神が宿り、人間でもなんでも直ぐに神に祭り上げられる位に神と人の間は近かった。国家鎮護や魂の救済をするつもりも無いのが神道だった。


 当時の大地が森林に覆われた大東国にとっては、自然信仰は当たり前のことだったのだと考えられている。だからこそ、政府が国教を仏教にしても別段問題にもならなかった。なにしろ神道は「宗教ではない」からだ。

 この世紀の末に元寇が日本に打撃をもたらしたが、重大な局面において日本の仏教は何の国家鎮護の役割も果たさず祈祷は無駄だった。多くの大東人は「ほれ、みたことか」と、思ったことだろう。


 この神道というものは、考えると恐るべき宗教である。地球上の主だった宗教に比べ原始宗教の色合いが濃く(仏教は原始宗教をルーツに持たない)、他の宗教に見られる身分制秩序の維持や道徳の公教育装置としての機能が歴代の支配者に利用されてもいない。

 仏法は”信じる”ものだったのかもしれないが、神道は”敬われる”ものだった。決まった改宗手続き・運動もなく、大東人になる絶対的要素でもない。


 このような宗教の形態は、主要国のなかで大東国と日本にしか見られない特異なものだった。

 そして逆の視点から見れば、大東島は「宗教」を必要としないほど自然環境が恵まれ、また人種間の対立がなかった事を示している。



 ・1211年

大東国では、以仁天皇がついに日本の皇室との統合をあきらめ、退位+改元。


 ・1221年

日本、「承久の乱」。

後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。その結果、鎌倉幕府及び日本での武士の権力は盤石となる。

朝廷監視のために六波羅探題が置かれた。

一部の公家・武士が大東に亡命。


 ・1229年

徐々に地球規模の寒冷化がおきる。

寛喜の飢饉。

養和の飢饉以後戦乱が絶えず疲弊していたところに天候不順が重なり、数百万人が餓死。比較的飢饉の影響が少なかった大東国に日本から難民が押し寄せた(10年で5万人前後)。


この事から、当時の東日本海の海運、日本での造船技術の発展を見ることができる。

鎌倉幕府は最初は取り締まろうとしたが、必要な経費に事欠いたため、やがて取り締まり自体が有名無実となった。


 ・1231年

モンゴル帝国が高麗侵略を開始。


 ・1232年

鎌倉幕府で「御成敗式目」成立。

51ヶ条から成る日本初の武家法。北条氏に正当な日本統治の権限がないために作られた法律であった。

それまでは古くから伝わる律令があったが、初めての武家政権を維持するには全く不十分だった。


武家政権が最初に手に入れた、この御成敗式目という法律に、それまで殆ど虐げられるばかりだった一般人民にも、光が当てられていたことは幸運だった。

そこには東洋世界では珍しい、人民の保護規定が(一応は)盛り込まれていた。

御成敗式目はその後の武家政権においても規範とされた。


幕府のシステムも急速に整った。

執権 1203年

連署 1224年

評定衆 1225年

守護・地頭 1185年

鎮西探題 1185年。主に西国の監視と宗・朝鮮など外国の監視。

鎮東探題 1185年。主に奥州・有守州の監視と大東国の監視。

六波羅探題 1221年。主に朝廷の監視。

などの役所が整備され、北条氏が幕府を切り盛りしていった。


 ・1234年

モンゴルにより金が滅ぼされる。


 ・1235年

モンゴル帝国の首都カラコルム建設。


 ・1246年

後嵯峨天皇の退位後、日本天皇家は大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく両統迭立時代がはじまる。


 ・1257年

鎌倉で大地震。

日蓮の布教活動により、中下層武士層に法華経が広まる。鎌倉幕府は浄土宗を正統としたため、日蓮は迫害される。


 ・1259年

フビライ=ハーンがモンゴル帝国の皇帝となる。

遊牧民族であるモンゴル人は、戦争によって領土を広げようという意思を持たなかった。労働者や美しい女を奪い奴隷とし、家畜を奪い、役に立たない人間は殺して引き上げた。


しかし、フビライの頃からモンゴルの戦争様式にも変化が現れた。

高麗をモンゴルに服属させたのも、属国化による支配が合理的だという結論に、フビライが至った結果だった。


日蓮は「立正安国論」を著し、七難を予言した。七難の一つに、「他国侵逼難」が挙げられていた。


 ・1261年

大東国で改元実施。

日本の平安時代以降、辛酉・甲子の年には社会の惑乱を防ぐために大抵改元が行われたが、簡素さを徳とする大東皇室は1261年以降は天皇の皇位の継承があった場合毎に改元する一世一元の制に改めた。


 ・1266年

モンゴルから日本への通使が訪れる。


 ・1268年

大東国からモンゴルに使節が出発。

大東国はモンゴルと友好関係を結び、大東真正朝廷が日本の正統な政権と認めさせるために、フビライ=ハーンのもとを訪れようとした。

だが、使節は済州島にて高麗官吏に捕らえられ大宰府に送られる。


以後も、大東国からの使者はなぜか高麗に次々と捕らえられ、日本に引き渡された。しかも高麗はどういう功名心に駆られたものか、大東国が日本と盛んに使者のやり取りをしている旨をモンゴルに報告。フビライは大いに警戒した。

この事件以後、大東国は朝鮮半島国家及び朝鮮民族を酷く嫌うようになる。

(※逸話が事細かに残され、さらに語り伝えられた。)


 ・1271年

元帝国成立。


鎌倉幕府は異国警護番役を設置し元・高麗・大東を警戒。


 ・1272年

高麗の忠烈王はフビライ=ハンに日本侵略を提言。


 ・1274年

元による第一次日本遠征開始。900隻、3万名余りによる北九州侵攻。

鎌倉幕府は、鎮西探題の大友頼泰に命じて防備を命じた。

この時の戦闘は、元側が外交として日本を脅す程度の攻撃しかしなかったため、実質的には一日しか戦闘は行われず


 ・1279年

元により南宋が滅ぼされる。


 ・1280年

高麗は日本遠征のために忠烈王自ら長官となり征東行省設立。


 ・1281年

「弘安の役」。元による第二次日本遠征。

(詳しくは「011 カムオン、インヴェーダー」参照)

二つの進路から合計4400隻、14万名余りによる北九州侵攻を実施。4月頃より戦闘開始。


鎌倉軍は4万名だったが、博多湾を中心に建設された元寇防塁を活用し優勢に戦う。元軍は北九州に上陸。江南軍は九州に入植するつもりで農器具持参であった。

激しい戦いになったため、双方凄惨な殺戮戦となる。


7月に襲来した暴風雨で侵攻船団が大打撃。更に上陸後も秋の収穫期前だったために食糧不足が重なり、元軍は最終的に壊滅。生還者は出征時の1割以下という。元・高麗人は捕虜を取らず殺害、南宋人は一部を助命したに留まる。


両軍の死者の数は、戦闘要員だけで16万人以上。主に日本側の一般被害を合計すると30万人を越えると言われる。

以後元は陳朝大越国・チャンパへの干渉を行ったため三度目を企図した日本遠征は行えず


この頃、鎌倉幕府の御家人制が崩壊の危機に。守護職の増加傾向が止まらず。

鎌倉幕府は元寇撃退の恩賞を与えることが出来ないため、代替手段として大東の征服を企図。しかし資金不足で実現せず


大東国は、朝廷統一の千載一遇の機会を逃したことで、上下大坂派に分裂、内紛に発展した。


 ・1294年

元は4つの領域国家のゆるやかな連邦体制に移行した



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