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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
ノーマル ルート

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250 インテグレイション Japan(3)

 ⚫︎アメリカ南北戦争(2)


 南部連合への荷担を決めた大東政府は、南部連合にいまだ国内の倉庫に積み上げられている先の内戦で使った武器弾薬の大量売却を決める。

 輸送費を含めた料金は事実上の出世払いという気前の良さで、さらには運ぶ為に必要な軍艦や輸送船も売り払ってしまうと言う景気の良い話しだった。

 商品がだぶついていた大東の武器企業も、いち早く動き出した。

 

 ただし武器の輸送路に関しては問題があった。

 大西洋に回りこんでいる時間がないかもしれないし、アメリカ合衆国の妨害の可能性が十分あったからだ。

 

 このため南軍が1845年にメキシコから得た領土に南軍が形だけ侵攻するのに合わせて、南軍の要請を受けた大東の「傭兵部隊」と「義勇兵」が進出して現地を保障占領。

 大東洋から陸路で南部に物資を運ぶルートを確保した。

 

 合衆国は怒り狂ったが、この時点で南部以外に大東と戦争状態になる事は避けて、大東政府に対しては厳重抗議に止まった。

 


 北米大陸東部での戦争は1861年夏頃に開始されるが、当初の予想を大きく裏切って、南軍の頑強な抵抗によって長期戦の様相を示すようになる。

 本来なら、大東はこの時点まで南部連合への荷担を示すべきでなかったとする意見も強い。

 南部は簡単に敗北すると見られていたからだ。

 

 そして双方の陣営共に、まともに戦争準備が出来ていなかったため、その年の戦争はほとんど行われなかった。

 このため、冬営を挟んだ1862年3月にようやく戦闘が激化する。

 

 それまでに大東の武器輸出の第一陣は、大東洋側から陸路苦労しつつ南部連合に渡された。

 第二陣は武器輸出船団として、カリブ海=メキシコ湾経由で北軍艦隊の目をすり抜ける冒険行のような航海の末に南部連合に到着し、人種偏見を無視したような熱烈な歓呼で迎えられた。

 第二陣には、大東でもほぼ最新鋭の鋼鉄製の船体を持つ大型戦闘艦艇(南部連合名「パシフィック」)も含まれており、北軍による南部連合に対する海上封鎖作戦はフロリダ半島で停滞することになる。

 

 海とは対照的に陸での戦闘は激化し、9月17日の「アンティータム」の戦いを迎える。

 

 この戦闘は、ジョージ・マクラレン将軍率いる北軍が8万7000、ロバート・リー将軍率いる南軍が4万5000と南軍が圧倒的に劣勢だった。

 だがこの戦いを決したのは、大東が南部連合に持ち込んだ数万丁の小銃だった。

 この銃は大東南北戦争終末期に登場した「Kenveiケンビー」こと「剣菱後装式」だった。

 この銃は従来の前装式の銃に対して2倍半の速度で射撃可能で、しかも姿勢を低くしたままの装填が可能という大きな特性を備えていた。

 ライフルのため、射程距離も十分以上にあった。

 

 同戦闘は剣菱後装式を装備したほぼ初めての戦闘だったため、北軍は従来のまま戦闘を実施して、圧倒的な小銃弾幕の前に甚大な損害を受けることになる。

 この射撃は南軍が大きく劣勢という事もあって苛烈で、南軍が優位になった戦場では、あまりの北軍兵士の損害に射撃途中で南軍兵士が射撃を控えた程だった。

 

 そして北軍は一方では南軍を攻めきれず、別の一方では南軍の戦線突破を許すという致命傷を受けてしまう。

 しかも北軍将兵は、南軍の常軌を逸した弾幕射撃を前に士気を挫かれ、かなりの数の将兵が背を見せて逃げた。

 そうでなくても戦闘意欲を大きく減退させ、南軍全体の戦線突破を許すことになる。

 

 そして進撃を続行した南軍部隊の先には、合衆国の首都ワシントンがあった。

 


 ワシントンは呆気なく南軍の手に落ちたが、北軍の戦略的優勢が崩れたワケではなかった。

 ワシントンは最前線に近く、産業地帯はより北部にあったからだ。

 しかし、首都陥落は大きな政治的効果を発揮する。

 

 フィラデルフィアに臨時首都を構えた合衆国に対して、イギリス、フランスが「意見」をした。

 内容を要約すれば、「戦争に勝てそうにないのだから、戦争そのものを止めるべきではないか」というものだった。

 そして北軍の意見を聞くこともなく、南部連合の承認行動を開始する。

 

 イギリス、フランスの政治的意図は、大東とは違ってアメリカを南北分断させて国力を殺ぐ事にはなかった。

 無論それも目的の一つではあったが、一番の目的は北米大陸にヨーロッパと同様の勢力均衡の体制を持ち込むことにあった。

 そう言う意味では大東が初期から行った事は、まさに勢力均衡に向けた動きであり、大東への政治的評価が高まる事になる。

 

 なお英仏に続いてスペインが南部連合を承認すると、後は雪崩を打って南部連合を承認する動きが続いた。

 この結果南部連合は、戦後のどさくさで得たオクラホマ州と、戦後すぐに北軍を「裏切った」ケンタッキー州を加えた13州で歩み始めることになる。

 さらにその後ロッキー山脈近辺での国境整理のため、南部連合が大東との間の国境を確定した。

 これで現在の国境がほぼ確定する。

 

 かくして北アメリカ大陸に、新たな独立国が誕生するに至ったのだ。

 


 なお、1845年にアメリカがメキシコから得た中西部の領土は、戦争終了時点で名目上は南部連合が占領していた。

 そして南部は、大東に対する武器弾薬の決済金としての売却を決定。

 5000万ドルで大東に売却され、南部と大東、メキシコの国境線の安定が図られることになった。

 

 そしてアメリカ合衆国は、四方を全て仮想敵で囲まれた状態へと追いやられ、政治的に針鼠状態になってしまう。

 



挿絵(By みてみん)



fig.02 北米大陸(1865)




 ⚫︎欧州情勢 


 ヨーロッパでは、1845年のアイルランドでの「馬鈴薯飢饉」、フランス(※フランス革命)を発祥とするドイツを中心とした自由主義革命、クリミア戦争によって明らかとなったヨーロッパでの対立構造の変化、そしてドイツ、イタリアの独立と一連の大きな変化と、地域全体を含めた国家の再編が続く。


 ドイツでは、ウィーンを中心にして立憲君主国家に向けて大きく前進し、イタリアはサルディニア王国が中心となって統一に向けた動きを加速させた。

 

 しかし自由主義革命の火を消したのは、意外にも大東だった。

 

 それは大東の荒須加で、大規模なゴールド・ラッシュが発生したからだ。

 この時大東政府は、手っ取り早く荒須加を含む北米領内の人口を拡大してイギリス、そしてアメリカの政治的圧力を軽減するため、金が発見されたことを世界中に知らせて、現地の永住権をばらまいた。


 しかし永住権については、大東国民以外の北米住人を除外としたため、世界の最果てを目指す人々は主に大東国からとなるが、その余波がヨーロッパにも及び、祖国にいられなくなった人々が荒須加での黄金を片手に再起を図ろうと殺到した。

 

 その後、大東がヨーロッパ情勢に関わると言うことは殆ど無かったが、ヨーロッパでの混乱がアジア情勢に与えた影響は少なくない。

 



 ⚫︎中華情勢 


 阿片戦争以後、中華地域チャイナでは混乱が始まる。

 典型例が、1851年から1864年にかけて続いた「太平天国の乱」だった。

 この内乱は、要するに清帝国が中華帝国として既に末期症状にあることを端的に示していた。


 官僚の極度の腐敗、人口飽和、国威低下に伴う外患、そして大規模な内乱。

 全ては数千年間起きてきた事件の焼き直しでしかなかった。

 

 そして大規模な内乱で混乱して国力が低下したのを見て、諸外国がさらなる外圧を実施した。

 それが1860年の「アロー戦争」だった。

 

 戦争当事国のイギリスにとっては、チャイナの貿易を完全自由化する事が目的だった。

 フランスにとっては、インドシナの主権をチャイナから奪うのが目的だった。

 

 そしてチャイナを狙っているのは、イギリス、フランスだけではなかった。

 ロシアとそして大東だった。

 

 ロシアは、イギリス、フランスとの仲介をするので、辺境の領土を代金として求めた。

 この時ロシアは、モンゴル(蒙古)の割譲もしくは雑居地とする事を求める。

 しかし清帝国にとって、モンゴルは父祖の地に匹敵する場所なので、首をなかなか縦に振らなかった。

 

 そこで割り込んできたのが大東だった。

 


 大東にとっての清帝国は、阿片戦争までは国交すらなかった。

 清帝国の建国頃の両国関係のまま、二世紀以上経過していたからだ。

 阿片戦争後にイギリスに続く形でようやく国交は開かれたが、基本的に清帝国の側から無条件に嫌われ、蔑まされる状態だった。

 大東の側も、清帝国を「独活の大木」と馬鹿にしていた。

 そして大東は、自らの欲望の対象としてチャイナ世界を見るようになっていた。

 

 一方の清帝国は、大東が英仏の仲介を申し出ても、もしできるのなら求めるだけの対価を「与える」と伝えた。

 これに大東は、外満州(北氷州から黒竜江の北側)の割譲と沿海州の雑居地化を持ちかける。

 清帝国が半ばほったらかしにしていた地域には、主に商業目的で大東人も入り込んでいたので、清帝国側も「もしできるのなら」と権高に伝えてきた。

 

 そして大東は、上海ばかりかヨーロッパにまで特使を派遣して、イギリス、フランスとの交渉を短期間でまとめる。

 

 結果、清帝国と大東の間にも「尼港条約」が結ばれ、大東に西日本列島に匹敵する面積を持つ領土が転がり込んでくる。

 

 しかし大東がまとめた「天津条約」を清帝国が不満だとして批准しなかった為、英仏と清帝国の戦争は継続した。

 ここで大東は、国際的な面子を潰されたとして清帝国に宣戦を布告。

 イギリス、フランス軍に全面協力し、さらには自らも艦隊を派遣する形で清帝国への攻撃を開始した。

 だがこの時の大東は、やろうと思えば北氷州からの陸路攻撃が出来るのにも関わらず見送り、イギリス、フランスの顔色をうかがうことを忘れなかった。

 

 清帝国に対するときとは違い、列強としての節度あるゲームプレイヤーである事を英仏などに示したのだ。

 

 そして1860年に結ばれた「北京条約」において、大東は最も大きな戦争の果実を手にする。

 

 手にしたのは、沿海州の完全割譲、黒竜江の優先使用権で、上海の外国人居留地(租界)にもその権利を得ることになった。

 

 この戦争によって、大東という新しいゲームプレイヤーの存在を欧州列強は認識するようになる。

 だが、それでも東洋の蛮族という色眼鏡があるため、それほど強い認識には至らず、その後大東は北東アジア地域の地歩固めを着実に実施する。

 


 そして大東が最も重視した国こそが、西日本列島だった。


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