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249 インテグレイション Japan(2)

 ■日本の開国(2)


 1855年8月、内戦を終結させ新国家を作ったばかりの大東が、新国家建設を知らせる為という名目で、最新鋭の軍艦を中心とする艦隊を日本の香取湾の浦賀に派遣したのだ。

 


 大東から来航した大型蒸気軍艦の数は8隻。

 最新鋭の蒸気戦列艦《水璃丸》を中心とするイギリスを上回る規模の大東帝国艦隊は、江戸幕府に対して大東帝国及び大東皇帝の承認及び改めて国交樹立を持ちかける。

 またほぼ水面下ではあったが、同盟関係を中心とした海外勢力に対する一致団結を呼びかけた。

 

 この大東帝国の日本への艦隊派遣は、当時の日本人に非常に大きな心理的衝撃を与えた。

 

 大東による日本への軍艦派遣は事実上鎖国以来となり、また、自分たちの「格下」と勝手に思いこんでいた大東の力を見せつけられた為だった。

 

 そしてこれ以後、西日本国内は大きく大東に対する姿勢で大きく揺れることになる。

 

 最大勢力は、大東もしょせん夷敵(外国)という論法だった。

 だが次に多いのが、大東も同じ日本民族であるという論法だった。

 他にも、大東が日本を飲み込もうとしているという反大東の一番過激な一派など、様々な派閥が誕生した。

 しかしこれらは、西日本列島の人々が「夷敵(外国)」と「大東」を分けて考えている証拠だった。

 

 そうした中で重要だったのが、当時の天皇だった孝明天皇の姿勢だった。

 

 孝明天皇は極度の外国、白人嫌いで有名で、大東に対しては同じ日本人だという考えを強く持っていた。

 この為、大東皇帝を認めてでも大東の力を頼ろうとし、大東との交流を深めるように幕府に圧力をかけた。

 

 しかし江戸幕府としては、大東と他の国を別に扱うダブル・スタンダードを取れば、欧米各国から突き上げられることを理解していた。

 このため最初は、大東の申し出と孝明天皇の言葉に対しては言を左右にして、大東を諸外国と同列に扱った。

 そして国家は承認したが、大東皇帝は有耶無耶のまま認めなかった。

 

 だが一方では、大東側が提示した条件は江戸幕府にとって極めて魅力的だった。

 治外法権は従来通り開港地の浦賀のみとして、日本の関税自主権も認める内容だったからだ。

 そして大東は欧州列強と同等の軍事力と技術力を持っているので、大東との平等条約の締結が外交での突破口になるのではと考えられた。

 

 大東との間には、1855年10月に「日東和親条約」結ばれ、日本初の平等条約となった。

 

 そして以後江戸幕府は、大東から大規模に技術や兵器など近代的文物を輸入するようになると同時に、西日本での大東の影響が急速に高まっていく事になる。

 


 江戸幕府から大東への視察団は、早くも1856年に第一陣が出発。

 以後、ほぼ毎年送り出され、規模も拡大していった。

 幕府の許可制で、短期留学も実施されるようになった。

 この結果、大東が既に達成しつつあった近代化が、かなり広く日本人に知られるようになる。

 同時に、ヨーロッパにも視察が出されるようになる。

 

 そして主に大東への視察で分かった事は、日本に不足するものがあまりにも多すぎるという事だった。

 大東で見た蒸気で動く大きな工場や蒸気機関車が走る鉄道は、当時の日本人には想像の外の文物であり、また深い戦災の傷跡は近代戦争の凄まじさを日本人に間接的に教えた。

 

 軍艦を含めた武器については、大東での内戦終結で大量に余った兵器が格安価格で日本に押しよせたが、それは当面の国防を補う役割しかなかった。

 最終的には自分たちで作らないと意味がないし、当時は武器の進歩が著しい時期だったので、すぐに陳腐化する恐れが高かったからだ。

 

 日本人達は、表面的な文物ではなく、その根底にある技術、知識の修得が必要なことを理解して実践しようとしたが、その道のりは極めて険しく遠かった。

 

 だがこの頃、世界情勢は日本人に味方していた。

 

 一番に日本を開国させたイギリスすらその後ほとんど日本に来なくなったのは、まさに世界情勢が影響していた。

 




 ■19世紀中頃の海外情勢


 ⚫︎北米情勢 


 西暦1815年のウィーン会議以後、北アメリカ大陸中原の国境はアメリカと大東の境界線が接触するようになった。

 アメリカは旧大陸の有色人種国家が新大陸に領土を持つことに強く否定的だったが、大東との境界線と大東領そのものが当時のアメリカ中枢部から遠すぎる事、殆ど重要な地域でなかった事もあって、戦争に至るほど大きな外交的、軍事的問題には発展しなかった。

 

 だがメキシコがスペインから独立すると、にわかに問題が起きる。

 それはメキシコが白人国家だと言い難いと、白人社会、特にアメリカが考えていたためだ。

 しかもメキシコは、スペインから広大な平原が広がるテキサス地域を有していた。

 そしてヨーロッパから押しよせる移民に対して新たな入植地が欲しくなったアメリカは、意図的に移民を送り込んでテキサスをメキシコから奪ってしまう。

 

 当然だが、メキシコとアメリカの関係は悪化した。

 以後メキシコは、大東から武器などを購入するようになる。

 しかしメキシコの政情不安、財政不安定は続き、そこをアメリカにつけ込まれてしまう。

 

 そして1845年になると事態は変化する。

 

 1846年から1848年にかけて行われた「アメリカ=メキシコ戦争」の結果、アメリカ合衆国は国土を大東洋側にまで広げる。

 当然、大東との国境線は接触する場所が増えて複雑化した。

 しかも1845年にアイルランドを襲った未曾有の飢饉である「馬鈴薯飢饉」によって、北米大陸に移民が殺到していた。

 彼ら移民は、続々とミシシッピ川流域やテキサスなど中西部へと開拓農民として移住し、アメリカの人口は急速に拡大した。

 

 これに対して大東は、駐留軍を増やしたり本国からの移民を増やすなどの努力を実施した上で、アメリカへの警戒感を増した。

 

 一方イギリスは、当時カナダと呼んでいた地域の開発にはあまり熱心ではなかった。

 当時のイギリスにとっての本命は、インドを始めとするアジアの市場化、植民地化であり、北米のカナダは移民を送り出す場所の一つでしかなかった。

 

 だが1848年以後はそうも言ってられないため、アメリカ、イギリス双方が歩み寄る形で、領土に関する交渉が熱心に行われた。

 大東とアメリカとの間でも、主に旧メキシコ国境での交渉が実施され、大東とスペインそしてメキシコとの間に確認された北緯37度の国境線が確認された。

 

 この時アメリカは、大東に西部山岳地帯、西海岸の購入をかなり積極的に持ちかけているが、大東側は謝絶していた。

 このため大東に対して大きな不満を持ったが、とにかくコロラド川流域などの西海岸を得たことでかなりの満足を得た。

 

 そして大東は、当面ではあったが北米大陸の大東洋側で最も肥沃な平地を確保する事に成功し、アメリカの脅威が増した事もあって植民地開発を精力的に進めるようになる。

 既に現地には10万の大東人の住民が住み、広大な開拓農地の候補地域が広がっているのだから、開発する経済面での理由も十分あった。

 

 そしてその後のアメリカは、テキサスと同じ手法での領土奪取を目論むが、大東側が自らの移民を理由に自由移民を拒んだ事、アメリカ側の移民の熱意も低かった事もあり、全くうまくいかなかった。

 このためアメリカは、まずは西海岸の拠点作りに取り組むこととした。

 西海岸中部には、コロラド川河口部に南部沿岸唯一のまとまった平地(沖積平野)があったので、アメリカ政府が望んだ白人移民の少しずつ増えた。

 

 とはいえ大東洋は大東のテリトリーであり、当時のアメリカが望んでいた捕鯨拡大は極めて難しかった。

 勢力拡大や植民地獲得となると、さらに難しいのが現状だった。

 

 このため大陸西部で勢力を固める大東を気にしつつも、まだ十分な余地がある国内開発に力を入れる事となる。

 


 ⚫︎アメリカ南北戦争(1)


 その後アメリカ国内では、当面の領土拡張が頭打ちになった事もあってか、南北に分かれた対立が徐々に激化していった。

 南部と北部で、考え方、価値観、政策、経済の形態など、様々なものが違っていたからだ。

 それが頂点に達した1860年11月のアメリカ大統領選挙でリンカーンが大統領に選ばれた結果、ついに南部諸州が連邦からの離脱してアメリカ連合国(C.S.A)(以後=南部連合)を結成。

 1861年には事実上の戦争状態へと移行していく。

 

 「アメリカ南北戦争」、アメリカ国内での「Civil_War」の始まりだった。

 しかし南部連合にとっては独立戦争であり、本来のアメリカ合衆国(以後=合衆国)にとっては、一種の祖国防衛戦争だった。

 


 この戦争に際して大東帝国は、首都ワシントンに公館(大使館)を置いていたので、すぐにも情報を手に入れる事が出来た。

 そして南部連合の独立を機械的に処理する。

 

 これに慌てたのが、本来のアメリカ合衆国(以後=合衆国)政府だった。

 合衆国は、大東帝国に対してただちに南部連合の独立承認を取り消すように求めるが、大東政府はこれを拒絶する。


 合衆国は、自らのモンロー主義を持ち出して旧大陸からの内政干渉を強く牽制したが、大東政府は自分たちはメイフラワー号が新大陸に到着する以前から新大陸に領土を有していると反論。

 合衆国政府の強硬な姿勢に対して、開戦も辞さずという態度を取る。

 

 結果、合衆国政府は大東政府を交渉相手としないと宣言し、無視という形で事実上の国交断行に踏み切る。

 これに対して大東政府は、ワシントンの大使館を急ぎ送り込んだ船に引き上げという形で撤収させた後、その足で南部連合首都のリッチモンドに向かわせてしまう。

 

 なお当時の大東は、南部連合地域で生産される綿花を輸入しており、合衆国地域の工業製品はまったく必要ではなかった。

 そして大東としては、南部が今の貿易体制のままの方が都合が良かった。


 そして大東政府の真意としては、ついに大東洋にまで達した合衆国の国力を殺ぐ絶好の機会と考えていた。

 このためアメリカ南北戦争を巡る陰謀史観では、必ず大東帝国(日本)が出てくる事になる。

 

 一方、ヨーロッパ列強諸国は、この時点では慎重姿勢を崩さずに静観を決め込んでいた。

 常識的に考えれば、国力差から北軍の勝利が疑いないので、混乱がおさまった後の合衆国との関係悪化を警戒しての事だった。

 だが大東の大胆な行動は、徐々に列強各国にも影響を与えることになる。


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