248 インテグレイション Japan(1)
■新領土
新しい日本人の国家を見ていく前に、まずは新国家を建設したばかりの大東帝国の領土面積を大まかに見ておく。
大東本国:70万(平方キロメートル)(大東島+周辺の島々)
北氷州:510万(平方キロメートル)
荒須加:180万(平方キロメートル)
北米北西部:840万(平方キロメートル)
豊水大陸 :770万(平方キロメートル)
スンダ :100万(平方キロメートル)
パプア :80万(平方キロメートル)
北大東洋地域:2万(平方キロメートル)
合計:約2550万(平方キロメートル)
非常に広大な面積で、全てを合わせると南極大陸を除く地球上の約17%つまり6分の1の陸地面積に当たる。
そして環太平洋地域の、おおよそ7割の沿岸部に広がっている事になる。
ほとんどが極寒の大地か砂漠、熱帯ジャングルだが、本国は温帯地域の非常に恵まれた自然環境にあった。
それに中には、豊水大陸東海岸、北米大陸西海岸のような有望な農業可能な植民地もある。
そして広く分散しているが、船で行くことが出来る利便性を持っていた。
蒸気の力で自由に行き来できる時代にあって、自由にかつ大規模に海上交通を使えることは大きな利点だった。
しかし多くの植民地は、他の巨大な領土(植民地)を有する国と境を接していた。
言うまでもないが、ロシアとアメリカだ。
イギリスとは、豊水大陸は西をインド洋、東は英領ニュージーランドがあるため多少の緊張が必要だったが、ニュージーランドの(白人)人口はまだまだ非常に少なく、イギリスの方が南大東洋での安定を望んでいた。
東南アジア地域についても似たようなものだった。
大東よりも隣接する諸外国の方が、自分たちに対する干渉を嫌って、あえて大東に手を出そうとはしなかった。
またイギリスとは北米大陸のカナダと接していたが、お互いに人口希薄地帯のため、特に大きな問題はなかった。
ロシアとは、昔から東の海の出口を求めて大東の有する北氷州と名が改められたサハ地域を狙っていた。
このため新政府は北氷州と地名を改めて統治と防備を強化した。
大東南北戦争の初期でも、ロシア軍のコサックが大東の混乱につけ込んで領内に入って小競り合いも発生した。
しかし大東にとって幸いな事に、ロシアはヨーロッパ側の黒海沿岸で列強との戦争状態に入り、大東で新政府が出来た時もまだ戦争を続けていた。
大東での大規模な内戦が終わったことを知ったロシアも、慌てて大東との和平を行った。
一番の問題はアメリカだった。
大東としては北米大陸北西部一帯は、今まではこれといった統一名称も付けていないほど重要性の低い場所だった。
何しろ山岳地帯と寒冷な荒野がほとんどだったからだ。
誰も持っていないから持っていただけの場所だった。
しかし一部の大東領は大雪山脈(ロッキー山脈またはコロラド山脈)を越えて、北西部の大平原に及んでいた。
そしてアメリカの方が、旧大陸の有色人種国家が「自分たちの大陸」に領土を持ち、しかも国境を接しているとして神経を尖らせていた。
このため大東がアメリカとの境界線を確認したり、曖昧な場所での確定を行おうとしても、アメリカ側が「難癖」や「無理難題」を言ってくることが常だった。
このため大東側も神経を尖らせざるを得ず、北米開発を急ぐと共に役人や国境警備隊を派遣して、境界線の設定と警備に力を入れることになる。
特に大東領内へのアメリカからの移民に関しては厳しく取り締まった。
この結果、アメリカ側の国境警備隊やいわゆる騎兵隊との間に小競り合いが起きた事もあった。
しかし大東が十分な武力と組織持っていたため、アメリカ側が無軌道に暴発する事も無かった。
欧米各国との外交関係も、他のアジアの国のように不平等条約を押しつけられたりはしなかった。
それは大東が、科学技術に裏打ちされた近代的な軍隊を十分な数保有していたからだった。
それでも欧米列強は、憲法や議会がないので近代国家ではないとする論法を用いたが、大東側もロシアなどを引き合いに出し、また軍備の誇示なども行い、相手国に勝手は許さなかった。
こうした事例は、白人勢力が世界を覆い尽くしつつある時代にあって、極めて希少な例だった。
しかし大東が戦乱と新国家建設で海外へのリアクション能力を低下させたスキを狙った行動が他にもあった。
その矛先は日本列島だった。
fig.01 19世紀中頃の環太平洋地域
■日本の開国(1)
西暦1853年6月、ブリテンの艦隊が西日本の江戸幕府に開国を求めて来航する。
俗に言う「黒船来航」だ。
ブリテンが日本に対して大胆な行動を取ったのは、二つの理由があった。
一つは、今まで近隣に大きな軍事投射能力を有していた大東が、大規模な内戦状態にあったからだ。
もう一つは、阿片戦争後も貿易状況があまり改善しない清帝国の代わりとなる、新たなアジア市場を求めての事だった。
またイギリスの海外植民地と接する大東を牽制し、日本への干渉で大東へ大きな楔を打ち込められればという目算もあった。
イギリスとしては、大東が持つ環大東洋各地の利権獲得が最終目的だったとされる。
そしてイギリスの読み通り、大規模な内戦中の大東にイギリスの行動の牽制は無理だった。
当時の日本(=西日本列島もしくは江戸幕府)は、後に言われるほど「天下太平」を謳歌していたわけではない。
常にオランダと大東から一定の情報は入っていたので、海外情勢に無知と言うことは無かった。
阿片戦争以後、ヨーロッパ列強が次々に東アジアに入り込んでいる事も知っていた。
そして「大東大乱」という名で大東が大規模な内戦に入ったことも、いやというほど情報が入ってきていた。
大東の内戦のお陰で、日本にも大量の発注がきて未曾有の好景気だったからだ。
大東での戦争の為に、日本国内では鉄やその他の物資が市場で不足した。
その典型は火薬で、火薬不足のため日本各地の花火が中止になった程だった。
「成金」と呼ばれる成功者も、多数出現した。
製鉄技術など近代産業についても、生産力を拡大するという目的で大きくそして革新的な向上が見られた。
だが当時の江戸幕府は、海外情勢に対してほとんど「見ざる、言わざる、聞かざる」な状態だった。
それに自らが清帝国よりも優れた武器を持っているという点で、ヨーロッパが簡単に手出ししないだろうという楽観論も強かった。
日本の江戸幕府は、大東からも一部技術を取り入れて改良した「直船」、要するにガレオン船(帆船・フリゲートクラス)は有していた。
大砲、鉄砲も、数は少ないが大東や西欧諸国からの輸入でほぼ最新鋭のものが取り入れられていた。
沿岸防衛や陸戦用の大砲や銃も、一定数の輸入が行われていた。
兵器自力生産についてすら、幕府や雄藩で研究程度は行われていた。
19世紀に入る頃から、本当に少しずつだったが国防に関する取り組みも行われていた。
幕府以外にも、沿岸各地の藩にも海岸防備の強化が命令され、戦闘艦艇の建造すら許可制ながら許されるようになった。
しかし、そうした日本人たちの準備と努力は、まったく足りていなかった。
その事を「黒船来航」で思い知らされる事になる。
当時の戦列艦(大型戦艦)に相当する排水量5000トンクラスの蒸気戦列艦を中心とするイギリス艦隊は、当時の日本人達に極めて大きな衝撃を与える事となった。
そして大東が内戦中でアテにならないので、幕府(日本)単独で欧州に立ち向かわなければならないと考えられ、これも日本側の焦りを強くさせる。
実際、当時の大東は、幕府からの支援要請の書状に対して、まともな回答を行っていない。
結果、1854年に「日英和親条約」が締結される。
軍事力と国力、そして情報不十分のため、不平等条約となった。
1854年2月にイギリス艦隊が再度来航し、「日英和親条約」を結ぶことで事態が加速する。
イギリスに続いて、アメリカ、フランス、さらには長年のつき合いがあったオランダも日本との間に不平等条約を結び、日本の危機感が増す。
軍事力と国力、そして情報不十分なのだから、あまりにも当然の結果だった。
しかし二度目の衝撃は、意外なことに隣国からやって来る。




