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247 Civil_War(14)

●終戦


 「春日の会戦」で、戦争の実質的な優劣がハッキリした。

 

 1854年4月の時点で、北軍は単に人口の点でも二倍近い優位を得ていた。

 戦力も同様で、他の要素では二倍以上あった。

 生産力の差は大きく、南軍に占領地を回復する能力はなかった。

 

 戦術的にも、北軍の最前線から東京までの最短距離も、約100キロメートルまで縮まっていた。

 その間に南軍の大部隊はいたが、地形障害はほとんどなかった。

 

 南軍側では戦場に近い諸侯の中にも降伏を選ぶ者も現れ、戦争の趨勢は明らかだった。

 しかし南軍にはまだ100万の兵力があり、首都東京も押さえていた。

 都市住民や皇族人質に取るなど、なりふり構わず自暴自棄の行動に出る可能性もあった。

 また大規模戦闘が終わったばかりで、北軍も体制を整えるため三ヶ月は大規模な軍事行動は難しかった。

 

 そこで、元帥として既に北軍の実質的指導者になっていた田村清長は、「大東全ての人々へ」で始まる言葉の演説を行う。

 

 内容は、一人一人の民衆こそがこれからの時代を切り開くという文章を含めたり、国家、義務、権利という言葉が何度も出てきて、フランス人権宣言、アメリカ独立宣言に影響を受けた言葉が含まれており、また意識した演説ともなっていた。

 

 結果、「春日の演説」は、大東の政治的な近代化の大きな一歩と言われる事が多い。

 

 しかし戦争を決する本当の一撃となったのは、貴族でも武士でも軍隊でもなく、演説の通り大東一人一人の民衆だった。

 


 発端は、南軍の支配下にあった小規模な炭坑だった。

 

 黒岩山脈北部にある南軍の数少ない炭坑では、南軍が戦争を遂行するため過酷な労働と搾取が行われた。

 

 これに労働者達が反発し、「春日の会戦」で大きく揺れ動き、そして「春日の演説」を聞くことで動き始める。

 

 1855年5月頃に起きたのは、最初は小さな労働運動だった。

 起こしたのも歴史に名を残すような人物ではなく、名も残されていない一人の少年(炭鉱少年労働者)だったと言われている。


 だが運動は瞬く間に広まり、さらに黒姫領内で資本主義経営が過酷に進められていた炭坑にも波及。

 短時間で巨大な運動となった。

 そして彼らは、貴族や武士、急速に台頭しつつある資本家に変化しつつある大商人相手ではラチがあかないとして、天皇陛下に直訴する事を全員参加型の合議で決める。

 

 そして首都東京に向けての行進を開始した。

 

 最初は、権力者たちはほとんど見向きもしなかった。

 目的が戦争反対ではなかったからだ。

 だが人数が膨れあがると無視もしていられなくなり、南軍は軍隊を用いて阻止しようとするが、阻止に動員された兵士の過半は武器を持ったまま行進に合流してしまう。

 兵士の殆どが兵士としての訓練も少ない庶民だったためだ。

 この辺りは、フランス革命の初期と少し似ていた。

 

 行進の目的も、労働環境の改善から労働環境の悪化産んだ戦争そのものを止める事に変化していた。

 戦争反対を明確に唱えた事で、行進する者の数も一気に増えた。

 

 行進する人数はいつしか百万人を越え、もはや誰も止めようがなかった。

 そして目的を聞いた人々も行進を積極的に支援し、南軍の兵士の離反と行進への合流も相次いだ。

 

 そしてこの行進はいつしか「百万人行脚」と言われ、約400キロメートルの行進を成し遂げた人々に対して、東京の古く厳めしい城塞の門扉は大きく開け放たざるを得なかった。

 


 東京北方の戦線でも、南軍の兵士が上官つまり貴族や武士の命令をきかずに離反し、一斉に戦線が消滅した。

 

 これを見た北軍は、自分たちも東京へと進む事を決意する。

 

 もはや北軍の進撃ならぬ行進を遮る者はなかった。

 南軍で最後まで徹底抗戦をがなり立てていた貴族将校は、散々無視されたため逆上して拳銃をかつての部下に向けたところで別の兵士に射殺されていた。

 民衆同士が本格的に戦ったのは実質的に1年程度だったが、極端化した凄惨な戦争に誰もが戦争に飽きていた。

 

 前線から3日ほど行進した先にある東京でも、全ての城門が開かれ、市民達が歓呼で迎えた。

 

 その歓呼は、表向きは北軍の将軍や兵士へ向けられたが、実際は新国家もしくは新政府に向けられた歓呼だった。

 



●新政府


 1855年6月、国際公称「大東南北戦争」は呆気ない幕切れで終わった。

 

 動員された兵士の数は、実に550万人。

 この数字は第一次世界大戦まで破られることはなかった。

 戦死者の数は70万人で、兵士全体の13%という当時としてはおぞましいほどの数字を示した。


 さらに死傷者に拡大すると全体の40%、小さな負傷を含めると50%にまで拡大する。

 1853年後半の無防備状態での殴り合いといえる戦闘が、死傷者の数を第一次世界大戦レベルと言われるほど高く押し上げた。

 

 国土の被害も大きく、主戦場となった高埜平野の半分近くが短期間の戦闘で大きく荒廃し、住民にも10万人以上の死者が出ていた。

 境都協約によって民衆は軍隊と戦争から守られる筈だったのだが、協約に関する教育が兵士の間に行き渡っていなかった事と、生活の場を突然戦場とされた事での被害がかなり出ていた。

 

 そして戦災を含め、多くの金を浪費した。

 

 それでも人的、物的損害は、近代国家として見れば十分許容範囲だった。

 戦死者の数は総人口の1%。

 3年ほどの戦費は、年間国家予算の5年分程度。

 海外に対しての決済は、当時も大東に豊富にあった金貨の現金払いで賄われたため、借金は基本的にほとんど無かった。

 大東人達は、白人に対する借金が何を意味するかを、過去2世紀の世界中での彼らの行動を見ることで学んでいた。

 


 しかし今までにない大規模な戦争を行ったため、向こう5年ほどは戦災復興と財政再建に全力を投じなければならなかった。

 

 そうして戦後処理と半ば平行して、大東の新たな国家の枠組みが作られていった。

 新国家は、戦争に参加した大東の民衆達が求めたものであり、戦争の結果としてもたらさねばならないと考えられていたからだった。

 

 このため戦争に勝利した北軍幹部が中心になって、新国家の枠組み作りを精力的に、そして迅速に進めた。

 

 時の天皇、第四十代大承天皇を、まずは国際的標準に合わせる意味も込めて「皇帝エンペラー」と称号を変更した(※今までは「キング」と捉えられる事も多かった)。

 そして皇帝を国家元首として、新国家の国号も決定。

 国号を「大東帝国」と定めた。

 

 国家の政治形態は、戦争中に北軍が実施し始めていたものが全面的に取り入れられる事になり、行政、司法、立法の三つを分立させた三権分立の近代国家とされた。

 

 皇帝には、軍の統帥権、宰相以下大臣の任命権、議会の招集及び解散権が与えられることになる。

 しかし暗黙の了解として、皇帝が自らの意志のみで行動しないものと考えられた。


 これは当時のイギリスでほぼ確立されていた、「君臨すれど統治せず」を模範としたものだった。

 四半世紀ほど後の憲法改正でも明文化されている。

 とはいえ、従来の政府でも半ば似たような状態だったため、大きな反対や抵抗も無かった。

 

 そして特権階級の貴族と武士だが、身分制度は大幅に緩和されるも、貴族と武士は階級と一部特権が残されることになる。

 純粋な資産、国から与えられたのではない土地、農地については、新政府への拠出を行わなくてよい代わり、行政に関する権利は新政府に返上することなった。

 結果、貴族や武士のかなりが大きな資産家として残る事ができたが、一方では納税に関しては今までにないほど厳しく制定されるため、才のない貴族や武士は大きく没落していく事になる。

 

 

 そして新たな中央政府だが、皇帝の承認のもとで実際の政治を取り仕切る「宰相」が設置され、これにまだ当時30代前半(34才)だった田村清長が就任。

 30代での首相就任は、後にも先にもこの一例だけとなった。

 

 そして田村清長のもとで北軍の中枢にいた人々を中心にして新政府が編成され、議会の設置、欽定憲法の制定、三権分立など近代国家に必要なものを取りそろえて行くことになる。

 

 また国民に対しても、新たな税制の導入と共に、徴兵の義務、教育の義務という二つの義務を加える事を決める。

 同時に、選挙権の付与、生存権、教育を受ける権利の大きく三つを国家が国民に与える体制を作ることを決める。

 

 他にも数え切れないほどの事が一斉に実施されたが、全ては大規模な内戦という大きな変化があったおかげであり、常に内戦で大きく変化していくという大東の特徴を如実に示した結果となった。

 

 しかし全てが一度に決まって動いたわけではなく、新政府による新しい国家の形成にはかなりの時間が必要だった。

 その上内戦での荒廃もあるため、尚のことしばらくは内政に力が入れられる事になる。

 

 だが、そうとばかりも言ってられなかった。

 

 世界は帝国主義の時代へと突入しつつあり、大東は世界有数の海外領土を有する植民地帝国でもあったからだ。


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