246 Civil_War(13)
●戦争規定
この戦争は、大東人の中での「戦争規定」を持ち込んだ戦争となった。
これは、今まで行われてきたヨーロッパでの戦争の「取り決め」を参考にしたと言われている。
また、「戦に民を巻き込むべからず」という大東皇帝の命令(勅命)によって、取り決めが作られたという経緯もある。
条約は「境都協約」と呼ばれる国内条約で、1853年春に双方合意で取り決められた。
なぜ決まりが作られたかというと、今回の戦争が国内の覇権を決める為の戦争だが、諸外国に付け入れられないため、国力の消耗を最小限に留めようと言う意図があった。
南北両軍共に、当初から自分たちが勝った後の事を考えていたのだ。
また、大規模資本家や国内の中立勢力が、被害を受けないために作らせたものでもあった。
国内的には、スポンサーでもある資本家の意向が反映されたと見るべきだろう。
大きくは以下のような項目に分けて規定が設けられた。
・降伏 ・捕虜
・戦死者 ・負傷者
・都市攻撃の禁止 ・無防備都市
・民衆(非戦闘員) ・徴用・徴発
・海賊行為
詳細は割愛するが、基本的には17世紀半ば以後のヨーロッパ世界で導入されてきた事を自分たちも取り入れたもので、一部に大東独自の項目もあった。
過去の大東でも戦争での決まり事はあったが、文書化されたり条約で取り決めたものではなかった。
よく言えば慣例、習慣であり、悪く言えば「社交辞令」でしかなかった。
しかし境都協約によって初めて戦争での行いが取り決められ、この点でも大東の戦争は近代戦争と呼ぶに値する。
なお「境都協約」は、その後国際的な同種の条約を作る際の参考の一つとされている。
●総力戦と決戦
大東での民衆による戦争は、1853年夏頃から本格化した。
大東島中部の高埜平野に300キロメートルに及ぶ戦線が形成され、初期の頃は1キロメートル当たり双方2000人ずつ程度だったが、一年後には1キロメートル当たり最大で5000人にもなった。
単純に見ると、1メートルに5人もいる計算になる。
当然だがこの数字は、前線で戦闘を行う以外の兵士も全て含まれていた。
前線に配備されているのは、たいていは少し後ろに位置する砲兵、騎兵、工兵などを含む。
銃を持つ歩兵の数は、精々半数程度だ。
さらに前線の後方には、前々が突破されたときに投入される予備部隊が各地に配置されていた。
だからこそ、これだけの数字になるのだ。
だが、1メートル当たり5人という密度は、第一次世界大戦の西部戦線ぐらいしか比較する対象が存在しないほどとなる。
しかしこの時代は、まだ塹壕を深く掘って対陣するという戦場ではない為、陣地に籠もっている時はともかく、攻め込むときは複数の列を作って秩序だって行軍した。
戦線を形成したといっても、それぞれの要所に軍の集団が並んでいる状態で、数百メートルの距離を開けて銃を向け合っているわけではない。
また鉄道の敷設がまだ十分ではないので、鉄道路線から遠い所は補給の問題から大軍を置くことが無理だった。
そして戦場では、短時間のうちに戦力を集中する事に心血が注がれた。
後方では、戦時のみ運用できれば良いという程度の簡易鉄道(軽便鉄道含む)が無数に引かれた。
また砲撃戦には、短時間で圧倒的な弾薬投射量を実現し、広範囲に展開した密度の高い兵力を一気に押しつぶせる「奮進砲」が重宝された。
「奮進砲」は、言ってしまえば爆発力と到達距離の長い大きな打ち上げ花火に似ている。
というより、そのものだ。
斜めに据えられた簡易滑走路に据えられて、一斉にそして大量に打ち出された。
大砲に比べて命中精度と射程距離には劣り発車前の事故も多いが、爆発時の威力が大きく何より簡便で安価な為、短期間のうちに巨大化した大東での戦争では非常に重宝された兵器だった。
もちろん大量に発射しないと意味のない兵器だが、製造が簡単なため巨大化した戦争の中で十分な数が生産された。
ロケット砲は同時期のヨーロッパでは既に廃れてしまった兵器だが、大東での戦争は何を用いてでも勝たねばならない戦争だった証とされている。
そうした戦争における双方の目的は、究極的には一つとなる。
言うまでもないが、国家を自分たちの考えで染め上げることだ。
戦闘はあくまで手段であって、目的では無かった。
しかし北軍、南軍双方には大きな隔たりがあり、北軍は近代的な立憲君主国の建設を目指し、南軍は現状の封建国家の改変以上は望んでいなかった。
このため革命派と保守派とも呼ばれたのだ。
戦術面では、北軍は首都東京を自分たちの勢力圏に含めてしまう事が目標となっていた。
既に「国力」で圧倒している以上、首都と天皇を押さえてしまえば、事実上勝利できるからだ。
加えて、東京まで進むという事は、南軍の半分以上を撃破したことにもなる。
対する南軍は、「国力」的には北軍に勝利できる可能性が低いので、負けない事、特に相手が戦争を投げ出すまで戦い続けることを目標に据えていた。
こうした目的の違いがあるため、攻める北軍、守る南軍という図式は、戦争中ずっと続くことになる。
そして圧倒的な弾薬投射量で強引に前進しようとする北軍と、陣地に籠もった防御射撃で応戦する南軍という図式のため、双方損害を山積みすることになる。
その損害はアメリカ南北戦争やクリミア戦争以上で、半世紀以上のちの第一次世界大戦での激戦地並だった。
当然だが双方の陣営は、これほど激しい消耗戦を長期間できない事は熟知していた。
戦費もそうだが、膨大な死傷者の前に民衆の士気が萎えてしまうと考えられたからだ。
実際問題として、1853年夏から1854冬までの間の一度の冬営を挟んだ1年半近くにわたる出口のないような戦闘の連続とそこでの損害は、兵士達の士気を低下させるのに十分だった。
こうした点から、当時の大東はまだ近代的な国民国家とは言えなかった。
戦闘は何度も発生したが、戦国時代中期のように派手で犠牲者が多いだけで結果の伴わなかった。
だからこそ1854年から55年の冬営で、双方は出来る限りの準備を整えて一気に勝負を付けるつもりだった。
いっぽう海上でも、戦闘が発生するようになった。
大東海軍は依然として事実上の中立を維持していたが、両軍に属する諸侯の有する私設艦艇は自由に動けた。
南北双方で、個人で合流した海軍将校や水兵もかなりの数に上った。
だがそれでも、まともな戦闘準備がない事、戦闘が出来るほどの数がない事などから、海上での戦闘が起きるようになったのは、1853年夏以後の事だった。
それも最初は両者の兵站の為の護衛とその妨害が主流だった。
しかし1854年に入る頃から、北軍艦隊が俄に強化されていく。
多くは新鋭艦艇で、ほぼ全てが蒸気で駆動した。
そして大規模な物流を海路、河川に頼っている南軍に対する大規模な海上交通破壊戦を開始し、徐々に南軍の経済を締め上げていった。
東京以外でまともな蒸気船が建造できない事が、南軍の致命傷だった(※南都に発注して建造していた)。
そして帆船では、ほとんどの場合で蒸気船に太刀打ちできなかった。
1854年秋には北軍の海上での優位はハッキリし、膠着状態の陸上での戦いを打破するため、大規模な海上迂回機動や艦砲射撃も実施された。
そして地上の要塞や野戦砲兵陣地などからの火薬量の多い炸裂弾を用いた砲撃により、鋼鉄製の軍艦が必要な事が痛感され、北軍の意図もうまくいかなかった。
また、海上防衛と破壊の双方で戦闘が頻発したが、ここでも守る南軍、攻める北軍という図式は動かなかった。
だが陸よりもランチェスター理論が適用される海上での戦闘は、急激に北軍が圧倒するようになり、終戦頃には海上交通破壊ではなく域内全体に対する海上封鎖戦にまで拡大していくことになる。
1855年春、生産力などでの優位を完全なものとした北軍、劣勢の挽回を図る南軍、それぞれ別の意図をもって戦争に決着を付ける戦闘を実施するべきだと考えるようになっていた。
3月中頃、双方申し合わせたように双方合わせて100万以上の大軍を一つの地域に集め、極めて大規模な会戦を実施した。
これが「春分の日の会戦」または「春日の会戦」と呼ばれる戦いだ。
戦闘は3月20日から24日にかけて行われ、双方合計で60万人もの死傷者を出す凄惨な結果となった。
この戦闘は、基本的に攻める北軍、起死回生を狙いつつも守りを固める南軍の形で行われたが、3日も続いた戦争で双方すでに血まみれのまま膠着状態に陥りかねなかった。
南軍も一度ならず突撃を行ったが、北軍以上に大きな損害を受けただけだった。
この状況を覆したのが、意外というべきか半年ほど前に「過去の兵器」と考えられるようになった戦虎と騎兵だった。
戦闘を実施したのは、北軍の伝統階級に位置する人々が中心だった。
戦虎(剣歯猫)は、まだ戦力密度の低い戦場での夜戦、奇襲戦なら威力は十分に残されており、夜明け前に行われた3個戦虎大隊の夜襲で南軍左翼は大混乱に陥った。
戦場の合間合間を隠密行動と浸透突破で抜けていった戦虎部隊が、少し後方に位置する司令部の一部を奇襲したのだ。
当然南軍の命令系統は混乱し、適切な指示が出せなくなった。
そこを黎明と共に、兵力が希薄な地域からの戦場の迂回突破に成功した騎兵が突撃を実施し、指揮系統の混乱で対応が出来なかった南軍の左翼が完全に崩れ、騎兵部隊はそのまま戦場を迂回を続行した。
まるでナポレオンの親衛隊のような活躍で、戦場を完全に蹂躙した。
こうなると訓練もあまり受けていない民衆の兵士はもろく、士気が崩壊して逃げ散り戦線が崩壊した。
その後は、基本的に砲兵と歩兵の弾薬面で大きく有利な北軍が押し切り、戦場にいた南軍は総退却の形で崩れていった。
後世の研究では、この戦いの最終局面の結果から、この時の大東での戦争は近代的総力戦総力戦に向けた過渡期の戦いだったと定義されている。
本当の総力戦なら、補給戦で負けた側が最終的に敗北するからだ。
また同時に、戦争序盤で時代遅れの烙印を押された騎兵と戦虎の最後の栄光だったとも言われている。
南軍が大きな戦いで敗北して大損害を受けたため、南軍の退却は一つの戦場に止まらず、そのまま全戦線に波及した。
南軍が辛うじて戦線を立て直すまでに、200キロメートル以上の後退を余儀なくされた。
その後退した間には、約800万人の住人がいて、永浜などの重要都市もいくつか含まれていた。