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245 Civil_War(12)

●総動員


 西暦1853年6月、初期の想定とは全く違う戦争が動き始める。

 

 既に高埜平原に布陣する双方の軍隊の総数は100万人を数え、それぞれの後方ではさらに数倍の規模の兵士達が集められ、新しい戦争に対応した即席の訓練を始めていた。

 

 この段階で大東島での戦争は、完全な近代戦へと急速に移行しつつあった。

 戦争を決するのは「国力」であり、前線に兵士と兵器、砲弾と銃弾、その他補給物資をより多く届けた側が勝者となる戦争となっていた。

 

 しかし兵器の発達がまだ近代には至っていないため、戦争は長くズルズルと血を流しながらいっさい途切れる事なく続く事になる。

 こうした戦争は、大東の歴史でも初めての事で、民衆への負担が非常に大きく、政府が民衆に対して果たすべき役割も重要になった。

 

 そして近代戦争となった時点で、南北双方の政治組織の違いが決定的な差となって現れるようになる。

 

 南軍は従来の東京御所の政治組織を利用したが、北軍は東京から引き上げてきた者と各貴族や大商人が出した人材で臨時に戦争運営を実施した。

 このため北軍では、優秀ならば年齢、人種を問わず要職に抜擢した。

 一介の商人(企業の社主)が大臣に抜擢される事例も見られた。

 結果として非常に若い人材が、「仮政府」とでも呼ぶべき組織を動かした。

 そして本来なら経験と実績を持つ南軍の政治組織が圧倒的に有利な筈なのだが、そうはならなかった。

 

 まず東京御所では、本来属する三割の人員が北軍に流れていた。

 そしてまずは、欠けた人員で中央行政を行おうとして失敗した。

 戦争のためにまわす人員も不足し、新たに外から人を大量に増やすという発想にも乏しかった。

 貴族や武士の間で臨時職員を多数拠出したが、これは南軍の特権階級の組織自体の弱体化をさらに進める結果となった。

 

 対する北軍は、民衆を説得することでとにかく戦争に勝利することを第一と定め、極めて強固な軍事社会、軍事を最優先とする政府組織を作り上げることで問題の発生を最小限としていた。

 


 そして1853年中頃に入って本格化した民衆の兵士の動員だが、この頃には志願兵が強制的になって事実上の「徴兵」へと変化していた。

 先に行ったのは南軍で、戦国時代の事例を探し出して、天皇の命令だとして大量の民兵動員に踏み切った。

 

 一方の北軍は、当初は先に書いたように志願制だった。

 しかし志願にも限界があるため、南軍に遅れること三ヶ月後の5月に領域全土での動員を開始する。

 民衆も側も、時代が変化しつつあることを感じて、この要求に応える姿勢を示した。

 兵士以外の民衆も、「前線の兵士の苦労を思え」と考えることが一般化され、窮乏する生活に耐えた。

 

 なお「徴兵」対象は、当初は長男以外の男子で18才から25才とされた。

 志願の場合は、後方業務を含めると16才から35才となる。

 

 10年ほど後のアメリカでの南北戦争では、18才から35才までが徴兵し、最終的には全国民の6人に1人が戦争に動員される計画が作られた。

 アメリカより少し前で、まだ近代と呼ぶには不足する大東での動員は多少緩く、1853年半頃の時点ではせいぜい20人に1人だった。

 それでも6700万の大人口を抱える国だったため、南北双方が動員しようとした兵員数は実に300万人を越えた。

 そして双方共に相手の状況を見つつ動員を強化し、最終的には11人に1人、9%までが動員された。

 数にすると約550万人にもなる。

 この数字は、比率以外でアメリカ南北戦争での両軍の動員計画を大きく上回るもので、記録は第一次世界大戦まで破られなかった。

 この点をもって、大東国の南北戦争こそが世界初の近代戦争と言われる。

 

 だがこの徴兵は、別の流れも生み出した。

 

 戦争に興味のない者、戦いたくない者の一部が、戦争から逃れるために豊水大陸や北米大陸に移民していったのだ。

 移民は1854年に25万人を記録し、戦争中に100万人以上が二つの大陸へと旅だった。

 このうち80%が徴兵適齢期の男性で、副産物として戦後の大東政府は、豊水と北米での嫁を求めて戦争未亡人達や結婚適齢期に入っていた孤児をせっせと国費で豊水に移民させる事になった。

 


 巨大な軍隊の運用には多数のスタッフ、つまり将校が必要となる。

 南北どちらの陣営も、将校の不足に悩んだ。

 今までとは全く違う想定の兵団が出現したのだから当然だが、この対応も南北で違っていた。

 南軍は貴族、武士が将校という原則を可能な限り守ろうとしたのに対して、北軍は高等教育を受けていれば民衆でもどんどん将校に採用していった。

 

 また当時の北軍には、常備軍や東京兵部大学の学生から北軍に合流した者の中に優秀な人材が多かった。

 

 戦争の中で実質的な指導者となっていった田村清長は、本来は海軍軍人だったため陸上の戦いには疎く、その活躍はもっぱら政治家としてで、結果論として非常に優秀だった。

 だが当時の北軍には、総司令官の大地武尊を筆頭に、柘植輝男、岩壁拓弥、荘来神蔵、後方参謀の輝陽屠龍など、この戦争で活躍した若い将軍たちには事欠かない。

 しかも彼らのほとんどは、下級貴族や武士、そして民衆出身で、名門貴族の者はほとんどいなかった。

 

 無論、田村、駒城などの名門貴族の子息も戦列に参加していたが、もはやそれは多数の中の一部でしかなかった。

 貴族の中での活躍でいえば、大東で最も産業革命が進んでいた草壁伯で商業部門を担当していた嫡男の草壁雄輝が有名だろう。

 ただし彼の活躍は、資本家、財政家、そして政治家としてであり、彼にとってかなり年少な田村清長の片腕としての活躍だった。

 


(※北軍幕僚の名前は、史実アメリカ南北戦争で活躍した人の名前をモチーフにしています(笑))



●総力戦


 産業革命の進展度合いが、北軍と南軍の違いを大きくしていた。

 

 当時の大東島は、新大東州と南部の茶茂呂地方により多くの鉄道が敷設されていた。

 近代製鉄所も、ほとんどが同じ地域にあった。

 そして茶茂呂は中立だが、新大東州はそのまま全てが北軍だった。

 このため北軍は域内の移動は、今まででは考えられないほどの規模でしかも短時間に行われるようになった。

 加えて北軍は、武器や砲弾の供給を削ってでも、必要と思われる鉄道路線の延長を行った。

 

 対する南軍は、鉄道は一部の主要か移動沿いに敷設が進んでいた状況で、とても戦争全体に貢献できるほどの規模ではなかった。

 茶茂呂から「購入」しようとしたが、まずは武器、弾薬を買わねばならず、鉄道の延長や増強どころではなかった。

 このため南軍は、馬、馬車の大規模徴用で乗り切らねばならず、最前線はともかく後方での移動は圧倒的に不利だった。

 

 さらに南軍の不利は続いた。

 

 開戦当初は2対1と優勢だった人口差だが、北軍が高埜平野まで進んだことで、その優位はほとんどなくなっていた。

 旧大東州北部の諸侯と民衆は、新大東州との繋がりが深いためそのまま北軍入りしたからだった。

 その上北軍の占領地も加わり、500万人もの人口地域が南軍から北軍へと移った。

 結果南軍と北軍の人口はほぼ拮抗するようになる。

 

 しかし南軍は、たとえ500万人が北軍側につかなったとしても、不利が減ったとは言えない。

 


 南軍領域では、とにかく近代的な生産施設が少なかった。

 このため急速に大量の製品を製造する事が難しかった。

 これは武器や弾薬だけでなく、他のほとんど全てのものに当てはまった。

 何とか供給できたのは兵士への食料ぐらいで、被服すら満足に供給できなかった。

 

 俗に言う「軍服」は、ヨーロッパではドイツ三十年戦争で取り入れられ、以後は相手に自分たちの存在をあえて教えて脅威を与えるため、派手な軍服を競い合った。

 

 これはヨーロッパ文明に常に触れていた大東にも「流行」として伝わり、18世紀中頃には大東軍も軍服を導入するようになっていた。

 

 19世紀半ばでも変わらず、近衛兵は純白、陸軍は深い緑、海軍は深い蒼を基調とした派手な服だった。

 また、軍服導入はいわゆる「洋服」の導入ともなり、大東国全体に洋服の形態を持つ衣服が広まる大きな切っ掛けとなっていた。

 

 そして今回の戦争だが、その軍服が俄に大量に必要になったのだが、蒸気で動く紡績工場を持つのは北軍だけだった。

 その北軍ですら巨大化する軍隊への軍服供給に悲鳴を上げていたのに、従来型の生産施設しかない南軍が全ての兵に軍服を供給することは不可能だった。

 このため軍服の代わりに、派手な群青色の手ぬぐいもしくは帽子が支給され、それが軍服の代わりとなった。

 手ぬぐいは兵士、帽子は下士官以上で、将校のうち金のある者は自腹で自らの軍服を仕立てた。

 


 軍服よりも重要な武器弾薬だが、北軍は機械化を進めた近代的な工場群を用いることで半ば以上を自力で賄い、残りを南都とフランス経由でヨーロッパから購入した。

 南軍は3割も自力で供給できなかったので多くを南都に頼り、さらに足りない分をイギリスから購入した。

 

 この結果、国産の神羅銃と剣菱銃以外に、イギリス、フランス製の銃が多数使われることになる。

 イギリス、フランスにしてみれば、持ってきたら持ってきただけ高値で売れるので、笑いが止まらない状態だった。

 しかしクリミア戦争の規模が拡大するにつれて、ヨーロッパは自前の装備を整える事に努力しなければならなくなり、大東は自前で装備の過半を揃えるようになる。

 このため大東での工業力は、是非もなく拡大せざるをえなかった。

 

 このためイギリス、フランスは、自らの戦争のため濡れ手に粟の外貨獲得の機会を逸したと言われることも多い。

 特にこの時期は、イギリスが自国の金本位制を作ろうとしていた時期のため、失ったものは非常に大きいと言われることが多い。

 それほどの消費が、この時期の大東で発生していた。

 

 そうして大東では、終戦までに累計で約400万丁の各種小銃が大東国内に溢れた。

 徴兵された総数が550万人なので数が合わないが、それはこの戦争が後方で活動する多数の人員を必要とする戦争だった証拠だった。

 また、前線にいた兵力の最大数は、双方合わせても300万人ほどとなる。

 これは、常に行われている戦闘で死傷者が出続けているためだ。

 だから400万丁という数字は、消耗を考えなければむしろ作りすぎたぐらいだった。

 そして何より、前線の軍隊を維持するために多数の後方要員が必要だったことこそが、近代戦争の証拠だった。


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