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244 Civil_War(11)

 双方が軍を再編成し、さらに冬営を挟んだ1853年3月、再び戦端が開かれる。

 

 この時までに双方の装備もかなり更新が進み、高い威力を実証した神羅銃の普及が進んだ。

 南軍の方も、南都に生産拠点を置く剣菱屋から急ぎ量産された同種の銃(剣菱四八型)を受け取り、北軍に対向できるだけの兵力を揃えようとした。

 

 先に行動したのは、膨大な数の新兵による大軍団を編成した北軍だった。

 53年春の時点での北軍の総数は、一気に50万人を越えていた。


 志願者は100万人を越えたのだが、体格や健康度合い年齢などで半分に絞り、既に完成されていた教本と練兵組織を用いて、半年間で兵士として鍛え上げた。

 将校の方も、生き残った将校と東京から引き上げてきた将校の卵達を臨時教官として、こちらも即席教育で将校と下士官の数を揃えた。

 また多数の下士官が、昇進して将校となった。

 

 この時貴族や武士だけでなく、学歴の高い民衆も将校教育の対象とされ、ついに大東での身分制度の壁が崩されることになる。

 そしてここで北軍は、戦虎部隊が壊滅状態な事もあって、ナポレオン戦争を研究した末にようやく散兵戦術を導入することを決める。


 そして新国家建設の熱意に燃える兵士達なら、方陣や戦列を組まなくても逃げる可能性が低いし、高度に発達した武器の前に方陣や戦列は逆効果であることを既に学んでいたからだった。

 また囲い込み(エンクロージャー)が進んだ大東の農地も、方陣に不向きなことが改めて理解されていた。

 

 そして20個合師、約15万の軍団を編成した北軍は、策源地の境東府を鉄道を復旧しつつ前進し、昔から北軍寄りの境都への無血入城を果たす。

 

 民衆の軍隊を民衆が出迎える光景は、大東の歴史が大きく変わる瞬間だった。

 

 しかしこの民衆の軍隊が、南軍の貴族と武士の軍隊を徹底的に破ると、事態はさらに思わぬ方向へと向かうことになる。


 


■民衆同士の戦争へ


 戦闘の舞台が広大な高埜平野に移った時点で、戦争の様相が大きく動き始める。

 

 境都南方の「第一次千原会戦」は、防御に徹した南軍が辛うじて敗北せずにすんだ。

 防御に徹した場合、射程距離と命中精度が格段に向上した小銃弾幕は、極めて高い効果を発揮した。

 

 しかし兵力は北軍が圧倒的に優位で、次の戦闘で南軍が敗北すると見られた。

 一方北軍は、当時境都より南はまだ鉄道路線があまり整備されていないため、今までのように円滑な後方補給活動が出来なくなっていた。

 当然、15万を越える兵力の前進も難しくなり、急に動きが停滞した。

 

 平時状態から半年程度では、本格的な近代戦争を行うだけの体制が作れなかったのも北軍の停滞の原因だった。

 

 そして北軍の前進が止まった南軍の後方では、俄に民衆が軍に志願し始めていた。

 北軍部隊が旧大東州の古戦場に侵攻したことで、彼らにとっての郷土防衛戦争へと変化していったからだ。

 

 これは、侵攻してきたのが民衆である点も見逃せない。

 建国の歴史から見れば、原大東人やアイヌによる逆襲とも映るし、さらに新大東州には江戸時代を通じて日本人の移民も多く、侵攻してきた軍隊にも多数属していた。

 

 こうした心理が南軍への民衆の志願兵を増やし、南軍も急ぎ訓練と装備の供給を行った。

 そして大東の大地は、巨大な兵団を短期間で作り上げるだけの多くが既に揃っていた。

 

 このため北軍が再び進撃を再開すると、10万を越える民衆の軍隊が行く手を阻み戦況は膠着する。

 しかもその後も、南軍、北軍双方ともに、後方から送られてくる民衆の軍隊を次々に戦線へと送り込み、旧大東州で最も東西の幅が広い大平原で、大軍をずらりと並べた対陣、つまり戦線の形成へと移行していった。

 しかも双方は損害を抑えるために、その場で塹壕を掘り始めてしまう。

 

 その間、南軍、北軍双方ともに相手を出し抜こうとしたり、一部の兵力密度を上げて戦線突破を図ろうとするが、防戦有利の原則は動かず、損害を積み上げただけに終わった。

 



■諸外国の動向


 1853年春、イギリスの艦隊が大東に来航した。

 

 最初は国際貿易港として、そして当時は大東随一の中立港としても繁栄していた南都にやって来た。

 

 既にイギリスは大東国に公館(大使館)を首都東京を設置していたし、マレー半島を得て以後は大東国にもやって来るようになっていた。

 このため、他のヨーロッパ諸国よりも大東の事情に詳しかった。

 大東で俄に勃発した大規模な内戦の情報も、遠く本国に情報が送られていた。

 

 イギリスは大東での内戦を、大きな武器売買の機会と捉える一方で、大東が弱った場合に植民地を奪うなどの行動を取ろうと画策した。

 特にイギリスは、ウィーン会議で別の選択をして逃した豊水大陸を奪いたかった。


 また、大東が北東アジアでの政治的リアクション能力を大きく低下させたのを狙って、隣の西日本列島に対する行動にも出ていた。

 日本に対しては、開国を強いて依然として状況が改善しない清帝国との貿易を補完するのが目的だった。

 

 大東が強いままだと、日本への干渉に何らかの行動をする可能性が高かったが、大東での大規模な内戦はイギリスにとって様々なチャンスをもたらしていた。

 

 このためイギリスは商船などでの大東の調査を続けつつ、大東への政治的行動の機会を狙っていた。

 

 その時大東側からの接触があった。

 接触してきたのは東京を抱える南軍の方で、南軍はイギリスに対して最新兵器の大量購入を持ちかけた。

 


 イギリス以外だと、既に上海にまで来ていたフランスが大東本国にやってきた国になる。

 

 また大東の内戦で色気を出したのがロシアで、大東領のサハ(ユーラシア大陸北東部)を狙う動きを見せる。

 とはいえロシアは、1853年には自らも黒海沿岸のクリミア半島で列強と激しい戦争に突入したため、大東に対する動きはほとんど行えなかった。

 北の僻地では、ロシアと大東の現地騎兵が、散発的な接触を行ったに過ぎなかった。

 

 それ以外となると、メキシコとの戦争の結果大東洋側にまで国土を拡張したアメリカになるが、大東洋にはまだ何も持たないため、大東国に何らかの干渉を行うことも基本的に無理だった。

 アメリカと言えば捕鯨が当時の重要産業で大東洋にも進出していたが、基本的に大東洋北部一帯は大東の漁場で、アメリカ船はモグリ以外で入り込んでいなかった。

 当然だが、アメリカが捕鯨船の保護や補給地確保を求めて北大東洋に来る理由もない。

 アジアに対しても同様だ。

 

 またアメリカは、大東が保有する北米大陸北西部の獲得、つまり侵略戦争も狙ったが、沿岸部を中心に大きなコロニーを作り駐留軍も置いている相手に対して、メキシコのような手は通じなかった。

 北米の大東駐留軍や総督府も、アメリカの動きは警戒していた。


 アメリカ側も新大陸の大東軍の戦力はある程度掴んでおり、余計なことをしてせっかく得た大東洋沿岸を失うようなやぶ蛇になる可能性を警戒して、当面は大東本国の成り行きを見守ることにしていた。

 

 つまり、大東を巡る外交合戦で本格的に動いていた列強は、イギリスとフランスだけだった。

 

 そして1853年に大東にやって来たイギリスは驚いた。

 既にとんでもない規模の陸上兵力が出現し、ナポレオン戦争など児戯と思えるほどの大規模戦闘を行おうとしていたからだ。

 大東に艦隊を持ってきた理由も、あわよくば軍事力を用いた示威行動にあったが、それが不可能な事は明らかだった。


 イギリスからの話しを聞いて、ロシア、アメリカは最初は話しが誇張されていると考えたが、その後大東に来て同じように震え上がることになる。

 大東本国に出来上がった大軍団が、戦争が終わると自分たちの境界線の向こう側に来る可能性を考えたからだ。

 

 ナポレオン三世になって積極性を取り戻したフランスも、イギリスに遅れること半年で大東に船を派遣したが、こちらは最初から商売目的でやって来ていた。

 同じ時期にはイギリスも目的を商売に切り替え、とにかく目の前の大戦争という果実に欲望のまま食らいついた。

 

 またイギリスやフランスとしては、一日でも長く大東が内戦をして疲弊すれば、その後大東に対する行動にも出やすいと言う読みがあった。

 

 だが当時のイギリス、フランスは、クリミア戦争で共同戦線を張りつつも基本的には対立していたので、最初に来たイギリスがそのまま南軍へ、少し遅れたフランスが北軍へ握手を求めた。

 

 そして以後のイギリスとフランスは、自らのクリミア戦争もあって、数年間戦争特需に沸き返ることになる。


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