243 Civil_War(10)
■衆兵の誕生
以下が、「二者陸繋の戦い」での双方の兵力と損害になる。
・参加
・南軍
総数:8万5000名(工兵、輸送兵、その他軍属除く)
騎兵:1万9000名、歩兵:5万8000名、砲兵:8000名
・北軍
総数:6万3000名(工兵、輸送兵、その他軍属除く)
騎兵:2万9000名、歩兵:2万6000名、砲兵:5000名、戦虎兵:3000名
・損害(最終的な戦死者のみ)
・南軍:5万3000名
・北軍:3万8000名
見て分かるとおり、双方の軍が軍事的に「全滅」していた。
負傷兵を加えると、双方ともまともな部隊はほとんど残っていなかった。
双方共に追撃や進軍どころではなく、防衛線の再構築すらままならない状態だった。
中でも双方にとって大きな損害だったのは、将校や騎兵の過半を占めていた貴族、武士の当主または子息の損害(=戦死傷)だった。
しかも戦死した武士達は、武士の中でも騎兵になれるほど身分の高い者だった。
双方合わせて実に3万人もの特権階級の者が戦死するなど、前代未聞の出来事だった。
戦死者の中には大きな領地を持つ伯爵家の当主などまで含まれており、大東の特権階級に極めて大きな衝撃を与えた。
同時に、大東の軍隊と社会そのものにも大きな影響を与えることになる。
なお、封建制の国家での特権階級の数は、末端まで含めると社会全体の10%程度になる。
実際に大きな領地や豊かな富を持つものは、2%程度だ。
大東の貴族(勲爵以上)は、時代の変遷はあっても大きな変化はなく約400家ほどだった。
当時の農村部の人口が6000万人を越えていたので、単純に言えば一家当たり15万の人口を抱える領地を持つことになる。
中世ヨーロッパなら小国並の規模で、戦国時代の日本でも十分に規模の大きな大名クラスとなる。
最大の田村公爵家だと、見た目の領内の「総人口」は500万人以上にもなる。
ここまでくると、当時の欧州の一定規模以上の国家並だ。
当然貴族に含まれる数も多く130万人に達し、地爵と武士を加えると650万人にもなる筈だった。
これだけの数がいるのだから、貴族や武士が3万人死んだと言っても一見大した事ないように見える。
だがここには、大東が近世的封建国家である事と、近世大東の人口拡大と国内開拓のからくりが潜んでいる。
戦国時代が終わり貴族、武士の領地が新たに確定した17世紀初頭の人口は、おおよそ2100万人だった。
その後200年の間に総人口は約三倍に増えて、遂に巨大な大東島は人の手によって開拓しつくされた。
北部の僻地にまで大東式複合農業が行われ、燃料、建材など全ての資源となる森林は国や貴族達が厳しく管理しないと、すぐにも消えてしまいそうなほどだった。
だが新たに増えた開拓地の多くは、国家に対して納税義務がある土地とされた。
開拓農民の3割程度が西日本列島からの移民だったし、貴族達が新規開拓された場所を自らの領地とするには、領内といえども多くの面倒があった。
このため総人口の半分近くが封建的な領地ではなく、国家そのものの領地だった。
しかもこの領地は、名目以上で天皇の領地「皇領」でもなかった。
文字通り、国に対してのみ納税義務を負っていた。
そしてここからの税収こそが、大東という近世的国家を安全運転させていた原動力だった。
数千万人分の安定した税金があれば、ヨーロッパ列強に劣らない海軍を持つことも十分可能だったのだ。
そしてこれらの領地を管理するのは、徴税吏などの官僚を別とすれば、村を治める村長または名主などの豪農だった。
彼らは大東各地に古くからいる同種の存在より自立していたが、武士でも貴族でもなかった。
また開拓村の中には、特に北部を中心に神社勢力による開拓村もあったが、神社とは宗教ではなく、ましてや政治勢力でもないし特権とは無関係な存在だった。
故に大東の貴族、武士は、大東自体の総人口から推計される数字のおおよそ半分になってしまう。
実数では、貴族が70万人、地爵と武士を含めて350万人となる。
このうち元服(成人)する15才から最高40才程度までの男子が軍役に服するとして、全体の5人に1人程度度となる。
これだけだと70万人にも達する。
この数字こそが、「大東武士百万騎」の所以だ。
戦国時代でも、武士(職業軍人)は最低でも50万人いたことになる。
だが時代の変化によって武器と戦術は複雑化し、兵士を率いる為にはより高度な教育が必要となっていた。
そして本国が島国の大東国では、西日本が攻めてこなくなり国内が安定すると、多数の陸軍を抱えようと言う意志に欠けていた。
海軍の充実と武士将校の育成にこそ力を入れていたが、陸軍はロシア人と北の僻地で追いかけっこする程度の数と、ヨーロッパに舐められない程度あれば十分と考えられていた。
だからこそ開戦時の首都近辺の常備軍が4万人程度だったのだ。
4万という数字は、当時の大東の総人口から計算すると0.1%にも満たない。
また貴族と武士は、全ての面で官僚の担い手だった。
官僚の中には軍人も含まれるが、事務職をする一般的な官僚以外にも、警察活動をする者など多数の人員が必要となる。
それら全ての官僚を、「僅か」70万人で支えなくてはならなかった。
しかも彼らは、国家だけでなく自分たちの家、一族も率いなければならない。
常時官僚、軍人になれる数はさらに少なくなる。
本来、軍人を含めた官僚、役人の数は、総人口に対しておおよそ2%程度(120万人)が必要となる。
70万人では半分程度しか賄えず、実際はさらに数字が低くなる。
このため大東国は、18世紀頃から多くの民衆を官僚として活用していたほどだった。
事務を行う官僚でも指揮をするのが貴族や武士で、実際動くのが民衆という軍隊のような図式が出来上がっていた。
そして平時においては、軍人の数十倍の数の官僚、役人が必要となる。
近世だと安定した国で8~10対1程度で、この数字を大東に当てはめると7万人となる。
実際はこれよりも少なく、3万人程度の貴族や武士が軍事に関わっていた。
なお、民衆を下級官吏として使うに際しては、従来からの軍事制度が物心両面で役に立った。
話しを軍人とりわけ将校戻すが、19世紀半ばの大東軍の場合、陸軍の常備軍が海外植民地を含めて15万、海軍が5万ほどの人員を抱えていた。
この数字には、軍の官僚組織も含まれていた。
そして将校の数はおおむね2%なので、軍人のうち貴族や武士の数は、本来なら4000名程度。
毎年100人程度の軍人のなり手が必要となる。
軍事に携わる3万人程度の貴族や武士だけでも、将校は十分に供給できた。
このため下級武士は、下士官になるのが一般的だった。
このため、戦う事は「武士のみに与えられた特権であり義務」という建前は平和な時代の間に崩れ、歩兵の多くと砲兵のかなりを募兵した庶民が占めていた。
ただし騎兵だけは、貴族と武士のものだった。
また水兵の場合は、もともと海賊から発展した経緯があったが、直船を多数運用するには多くの水兵が必要なため、戦国時代から武士以外の者が水兵として活躍していた。
それでも将校は貴族や武士のものであり、この点は陸よりも徹底していた。
例外は、商船改造の戦闘艦(私掠船)ぐらいだった。
だが、たった一度の戦いとその後の建て直しにより、事態は大きな変化を余儀なくされた。
「二者陸繋の戦い」では、義勇兵として戦った騎兵のほとんどが、本来なら軍人ではない貴族や武士の当主または子息だった。
武士や貴族としての身分も高い者が多い。
その3万人が一日で死んでしまったのだ。
この3万人は、武士や貴族の中でも功名心が強くまた血の気の多い者となる。
加えて双方合わせて6万人もの軍人も戦死している。
合わせて9万人、この六割が貴族や武士なので、働き盛りの男子のうち8%もの貴族と武士が失われ、大東の武士社会は一気に機能不全に陥った。
特に軍事組織は、専門技術を必要とする事になっていた事も重なって壊滅状態だった。
貴族や軍人は慌てて、他の分野から人を軍に引き抜こうとしたが、混乱は軍ばかりか官僚組織、行政組織全体に広がった。
そして近世200年の安定を経験した国内の民衆にとって、社会を維持する能力のない貴族や武士は、戦わない武士よりも価値がなかった。
加えて軍そのものでは、将校が壊滅状態に陥っていた。
北軍の場合は血の気の多い貴族、武士の壊滅なのだが、こちらも臨時将校となる人材が大きく不足する事態に陥った。
ここで窮地に陥った双方の陣営は、まずは相手を倒すという一点を目指して、急ぎ民衆からの兵士の大幅導入を決める。
民兵使用は大東の戦国時代にも行われた事で、戦時なら問題もないと考えられた。
しかし最初は各貴族、武士の領民を軍属以外で扱うことも難しい為、主に都市住民と開拓農民の子孫達が募兵対象とされた。
そして、あまり高い期待を抱かずに募兵してみると、北軍の方では募集した側が驚くほどの志願者が殺到した。
志願者の多くは「革命宣言」に感銘を受けており、さらに宣言を発表したのが庶子の血が入った田村清長という点を評価していた。
一方南軍でも同様の方法で軍の建て直しと増員が図られたが、当初は芳しくなかった。
そこで当面は貴族や武士の軍への動員を強化することにしたのだが、官僚や役人として働いている者の引き抜きを意味しており、行政能力の低下をもたらした。