241 Civil_War(8)
●戦争の幕開け
大東で戦争が勃発したのは、西暦1852年6月13日と記録されている。
これは最初の戦闘が記録された日であり、戦火は首都東京郊外で上がった。
田村公爵家の別邸(冬殿)を、南軍の息のかかった白い軍装の近衛兵が取り囲んだが、当初は取り囲む以上の事はしなかった。
先に銃撃した者が、実際問題として「逆賊」扱いされかねないからだ。
これは御所の近衛兵と言えども例外ではなく、東京での戦闘は固く禁じられていた。
田村公爵家が郊外の別邸に自らの私兵を入れたのも、東京に近衛兵以外の軍隊を入れるには厳しい審査と許可が必要だったからだ。
そして北軍としては、新大東州の盟主である田村公爵(田村清成)以下、「のこのこ」と東京にやって来た田村家の重鎮達を事実上の軟禁状態に置くだけで十分以上の成果だと考えていた。
この裏には、近衛兵を戦闘行為で用いて良いのは天皇だけなのだが、この時は天皇の命令が下されないままだったため、戦闘に及んだ場合、命じた者が厳重に処罰されるという事情もあった。
そしてこの時の発端は、近代文明の夜明けらしく「一発の銃声」で始まる。
初夏の蒸し暑いある夜、つまり6月13日の深夜に冬殿を取り囲んでいる近衛隊が、屋敷とは全く違う方向から銃撃された。
銃撃は一度だけで損害も無かったため、この時近衛隊は自重した。
しかし同じ夜、別方向からも銃撃が行われ、近衛隊は疑心暗鬼になってしまう。
その後も銃撃はたびたび行われ、完全な狙撃により一発で兵士一命が致命傷を負った。
既に緊張の限界に達していた近衛隊兵士は、兵士が倒れたことを合図に自らも銃撃を開始。
これを冬殿からの反撃と誤解した現場指揮官が、自衛戦闘という名目で戦闘開始を命令。
田村側も自衛戦闘を開始せざるをえず、一気に戦闘が拡大する。
後は深夜の中で誤報が誤報を呼んで、夜明け前には田村家冬殿を囲む近衛隊が冬殿を総攻撃するようになる。
この時動員された近衛兵は3個大隊の約2500名で、田村家冬殿に籠もる田村公爵の私兵は約300名と十倍近い差があった。
しかも近衛兵には砲兵がいるのに対して、田村側は大砲は一つも無かった。
周囲一キロを超える広大な屋敷は完全な包囲のもとでの砲撃が実施され、近衛隊はこれまで実戦が無かった事が悪く働いて指揮系統を乱して自ら戦闘を拡大し、田村家の別邸は近衛隊の突撃を待つまでもなく大火に包まれた。
火災から逃げ出す者も殆どが包囲する近衛隊の銃撃で殺害され、完全に夜が明けて東京御所から戦闘停止を命令する天皇の使者が到着した頃には、田村家冬殿は完全に焼け落ち、双方合わせて数百名の死者が発生していた。
この事件を「冬殿事件」と呼び、戦争の発端とする。
「冬殿事件」後、すぐに戦闘が拡大したわけではなかった。
帝国派の盟主的位置にいた田村公爵が当主や重鎮多くが冬殿で死ぬか重傷を負った為、求心力を失っていた。
さらに田村家は近衛隊と戦闘に及んだので、このまま厳しい処分が下されて事件が終わる可能性もあった。
しかし大展天皇は、近衛隊への戦闘命令どころか出撃命令すら下していなかったので激怒した。
このため、誰が近衛隊を動かしたかの方が東京御所では議論となり、一事は事件を有耶無耶にする直前まできた。
この段階で多くの犠牲者を出した田村家は、東京に残余していた一族や田村家を中心とする帝国派が集まって協議し、一つの宣言を出して東京の人々に訴えた。
ここで帝国派は、天皇を傀儡としようとする現政権に政権担当能力はないと断罪し、「自分たちは天皇をお守りするため、現政権及びそれに巣くう旧州の門閥貴族の打破と諸外国の圧力に屈しない力強い新政権の樹立を実施する」と宣言するに至る。
クーデター宣言とも捕れる発言はそのまま「革命宣言」と呼ばれ、「大東南北戦争」の別名を「革命戦争」と呼ぶ事にもなる。
しかもこの発言によって、「帝国派」は「革命派」と名を変え、「王道派」は完全に旧守勢力、保守勢力へと追いやられる事になる。
なおこの宣言を出したのが、一応の田村家の名を持つも庶子つまり市民の血が流れている者だったことが後に重要となる。
出した帝国派は、最悪の場合に宣言に署名した人物に責任をなすりつける積もりだったと言われているが、この場合経過はあまり重要ではなかった。
この宣言を出したのは、当時東京沖合に停泊していた田村家の軍艦「星凰丸」に滞在して不測の事態に備えていた、田村公爵家傍系当主の田村清長(爵位は準伯爵)。
事件発生後、東京近辺の田村家で最も格の高い人物で、彼の先祖は大東平氏開祖の平経盛につななる名門だった。
しかし彼は先代が妾に産ませた私生児で、直系の者が天然痘やコレラなどの伝染病で早くに死んだ為、一族としてはやむなく名を継いでいた。
しかも先代など先に家督を継ぐ者も早くに亡くなった為、若くして当主の座を引き継いだ。
このため、「運良く後を継いだ妾の子」というのが一般評だった。
そして当然苦労は多かったが、同時に天賦の才を持つ人物としても後に知られたように、自らの才覚と努力によって道を切り開いた。
この時28才で、若い頃に偶然阿片戦争の戦闘をその目で見た事もあってか、以後大東の改革派の若手リーダーの一人と見られていた。
産業革命を率先したり豊水大陸の開発にも精力的に取り組むなど、既に多くの功績も挙げていた。
そして当然だが、領地を中心として庶民からの人気が高かった。
「冬殿事件」とその後の「革命宣言」によって、大東国内は騒然となる。
誰がどちらにつくべきかで戸惑い、その中で実質的に最初に動き始めたのは、東京兵部大学校の一部学生達だった。
彼らは主に庶民と下級武士で、そして新大東州など北部出身の者が多かった。
東京兵部大学は、新時代の軍制、兵器の扱いを学ぶために1843年に従来の教練組織を再編成して作られた近代的な将校養成学校であり、この時は設立からまだ10年を経ていなかった。
またこの学校は、学術試験で入学を決める枠が一定数有るため、貴族や武士以外の入学も制限付きながら許されていた。
その民衆や下級武士達は、庶子出身の人物が革新的な宣言を行ったという事に時代の変化を感じ、また自らの出身地の動きにいち早く従ったのだった。
そして彼らが動き始めると、大規模な戦乱を感じていた人々が、一斉にそれぞれの陣営に向けて動き始めた。
人の流れは軍の将校に限らず、貴族、武士、官僚、商人、多くの者が東京から故郷へと帰っていった。
全ては、大東の「これから」を決するためだ。
以後革命派を「北軍」、保守派を「南軍」と呼ぶ。