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008 ビバ、インディペンデンス(2)

 ・1160年

要塞都市”北府”、”央都”の建設。建設には征服したばかりの新大東州南部の大東人が大量動員された。

同様の手法により、征東府城壁の大規模化も実施される。


この頃から平氏一門の台頭が顕著化。

勝利により平氏一門の台頭。平氏一門の知行国は乱の前の5ヶ国から7ヶ国に増加した。


境東府には多田野氏が、征東府には文芸に優れた平経盛が配された。また後の名門高埜氏、田村氏などが台頭。駒城氏も『央都』の建設と守護で新大東州北部入りを果たす。


平経盛とその直系の一族は、「野蛮」とされていた現地から大いに歓迎、敬われて繁栄し、「大東平氏」の始祖となる。

「大東国」の建国の頃の末子の敦盛の活躍も有名。


 ・1162年

モンゴル高原に散在する遊牧民族の一つ、ボルジギン氏族にテムジンが誕生する。


 ・1163年

後白河天皇は守仁親王に譲位し、二条天皇が誕生した。

後白河院政派と二条親政派の対立。


そのころ、武蔵・陸奥を知行国とする藤原信頼らは源義朝との関係も深く、平氏の台頭に不安を感じていた。

摂関家は保元の乱によって知行国を喪失した上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義が処刑されたことで各地の荘園で紛争が激化するなど、その勢力を大きく後退させていた。


劣勢の摂関家と源氏系武士が組んで後白河院政派を支援、源重成・源光基・源季実なども院政派に与し、二条新政派を攻撃した。京都は内戦状態となった。

清盛は伊勢で京都の異変を知り、近隣の兵を集めて義朝と合戦。結果、平氏が勝利した。多くの軍事貴族が戦乱で淘汰され、平氏は朝廷の軍事・警察権も事実上掌握した。

こうして、初期的な武家政権ともいうべき平氏政権が形成されてゆく。


 ・1166年

平清盛、内大臣へ昇進。


 ・1167年

平清盛、太政大臣へ昇進。武士としての初めて朝廷の官位を極めた。


 ・1167年

同年、「大東後三年の役」勃発。大東国の滅亡。

この事件を「日本統一の完成」と呼ぶこともある。

強大な軍事力を有する平氏政権は更なる拡大を求め、その場を大東島で抵抗を続ける国内唯一の「夷敵」である新大東州に選んだのが直接的な原因。


征東軍の総大将が清盛の子(嫡男)の重盛であったのは、当然ながら重盛に日本統一の栄誉を担わせるためであったと考えられている。

清盛自身は出家し、日宋貿易に傾注しはじめた。戦乱が前後に分けられているのも平氏台頭のため。


平清盛は日宋貿易・大東貿易に深く関与するようになり、富を蓄えた。この後の平氏専横の原因になった。

清盛は兵庫の港(福原)を整備するなどインフラ建設にも熱心に取組んだ。日本からは砂金や剣などを中心に輸出している。

平氏は旧大東島の2国と新大東州の国司となり、計10国を治める巨大勢力になっていた。


この時期からしばらく、西日本列島よりもずっと大きな面積を持つ大東島のほぼ全てが形式上平氏の支配下になる。

そしてその後の経緯もあり、大東島を「平氏の国」、西日本列島を「源氏の国」と指す場合がる。

そしてこの戦乱とその後の歴史の経緯から、平清盛は日本と大東の双方を支配した最初で最後の武士と言われる。


 ・1170年

新旧大東島全体で西日本列島の総人口を超え、推定1000万人にまで成長していた。征東府のある坂上(現大坂)は人口10万人に達した。

大坂の街並みは、この頃現在進行形で建設の進んでいた分厚く高い城壁の為、平安京よりは大陸の長安、開封などに似ていた。


日本列島全体での総人口は推定1700万人に達し、世界最大級の国家の一つになっていた。

しかし海で大きく二つの地域に分離しているため、全ての力を一つに集める力に乏しかった。

西日本列島の誰もが大東島の本当の実態は知らず、大東島の支配階層は自分達を過小に伝えて力をつけていった。


この頃から、地球規模の温暖化に伴う成長にも陰りが見え始めていた。この時代の後、人口成長はゆるやかとなり、土地改良と新規開拓が徐々に進むにつれ、人口も漸増する安定成長期になった。


同年、奥州藤原氏の藤原秀衡が鎮守府将軍となる。奥州から有守で勢力を拡大。拠点となる平泉の街も栄え、人口10万人に達したと言われる。

このため、京、大坂、平泉を「源平三府」と呼ぶ事もある。


 ・1179年

後白河法皇の院政が平清盛によって強制終了。法皇を幽閉して政治の実権を握った清盛は更に権勢を拡大。平氏の知行国は32ヶ国にもなり、日本の半分を支配する大勢力に成長した。だが、敵もまた大幅に増えた。


・1180年

養和の飢饉。

異常少雨による全国的な大飢饉。大東島も例外ではなく、大混乱に見舞われた。


後白河天皇に繋がる傍流皇族以仁親王が平家打倒の宣下「以仁王の令旨」を下し、各地で源平の紛争が勃発。源氏の流れを汲む源義仲もそうした源氏一族の一人であり、平家打倒に大功を成した。


「富士川の戦い」で源氏に平氏惨敗。水鳥の羽立つ音に驚いて逃げたため、戦闘にすらならなかったと記録されている



 一口メモ:以仁王--------------------


1151年生まれの後白河天皇の第三皇子。皇族。幼い時分に仏門に入るが12歳で還俗。英才の誉れも高い青年に育った。

英才過ぎたからか父後白河法皇とも疎遠であったといわれ、天皇の皇子でありながら親王宣下も受けられなかった。

1179年の平清盛のクーデターにより以仁王も領地を没収され、収入を失った。


以仁王は源頼政の勧めに従い「以仁王の令旨」を出し、全国の源氏に平家打倒の挙兵を促した。

令旨を受けて源頼朝や源義仲など各国の源氏が挙兵、日本は源平合戦の時代に突入することになる。



 ・1181年

平清盛没。以後、平氏の没落早まる


 ・1183年

源義仲、入京。平氏は西国に落ち延びる


 ・1184年

源義仲は皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となり、以仁親王ともども源義経軍に追い回され、大東島に逃れた。


 ・1185年

「壇ノ浦の戦い」。西日本列島における平氏滅亡。大東平氏は大東国内の安定で精一杯であった。

逆に源氏は、大東島への足がかりがまったく存在しないため大東平氏討伐ができず。さらにその後、西日本で生き残った平氏の一部が大東に亡命。

大東平氏も一部が手助けをする。


源頼朝と源義経が不仲となる。

源義仲と源義経が結び、謀反を起こす。


大東島にて以仁天皇が即位し征東国に親政を敷く。

新たに征東府の都を『大坂』と改名。都市を包み込む大規模な城壁も完成。

だが南北朝のように東西朝などとは呼ばれず、日本が再び二つの中央政府を持つことになる。

(※日本が「統一」されていたのは、1167年から1185年の僅か18年の期間)


以仁天皇と奥州藤原氏鎮守府将軍藤原秀衡が結び、鎌倉に対抗。旧大東島の平経盛・敦盛を中心とする平氏勢力も取り込み、容易には滅ぼせない勢力に成長していた。源義仲と源義経も支援。

なお、以後大東平氏は大東島の皇族への道を進む


源氏、守護制度発足。鎌倉を拠点として、武士の政権としての地盤固めを行う


 ・1187年

源義経は征朝大将軍に任じられ、出羽国・陸奥にて鎌倉方と合戦(奥州諸合戦~1192年)。小規模な戦闘が頻発するが決着は付かず

同年、藤原秀衡没。以後政治バランスが大きく変化


 ・1188年

東国武士の力を背景に朝廷に対して強硬な態度を示しつつあった源頼朝に、京の朝廷は警戒していた。

しかし大東島の反逆者に対抗するために、後白河法皇は源頼朝を征夷大将軍に任じ、ここに「鎌倉幕府」が誕生。

以後日本は、「鎌倉時代」に移行。これ以後の時代が武士の時代とされる。


以仁天皇は「大東国」の建国を宣言。

大東島にて京とは全く別の朝廷を開かれる。

鎌倉幕府が朝廷から半ば独立した武家政権であったのに対し、大東国は朝廷の支配力が強い平安時代中期以前の統治体制を維持していた。


大東では歴史が浅いためか荘園公領制における貴族社会内部の紛争が比較的弱く、大規模な武力を用いるまでの対立が起こらなかったため、武士の台頭が遅れていたのが原因。

大東国では、以仁天皇や朝廷が征東府・境東府などの日本由来の武家を取り込んで自国の防衛に活用した。


 ・1192年

後白河法王が崩御。


宇都宮城にて頼朝・義経が余人の同席抜きで会談、鎌倉幕府と大東国が和平。


 ・1193年

源義経が勝手に和平を結んだとして、奥州藤原氏に処刑される。

だが義経の大東亡命説も同時に出る。


 ・1194年

家臣の造反により藤原泰衡が殺され、奥州藤原氏滅亡。


 ・1203年

北条時政が執権となる。

源頼朝から3代を経ただけで、鎌倉幕府の実権は北条氏が握る。頼朝の妻・政子が北条氏の出であり、北条氏が台頭する上でこの関係は役に立っただろう。


北条氏は時政・義時・泰時と、3代にわたり優秀な人材を輩出した。源の家系が断絶した後、鎌倉幕府が崩壊せずに済んだのは、一族一門の繁栄ばかりを願う有力御家人達の中で北条氏が実権を握っていたおかげだった。


源実朝が北条氏のサポートを受けていなければ、初めての幕府は朝廷に実権を返還していたかもしれない。そうなれば、朝廷や公家に頤使され官職を与えられる弱い立場に、武家は退行していただろう。


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