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240 Civil_War(7)

●従来の兵器


 従来の兵器として取り上げられることが多いのが、鉄砲が登場する以前の兵器だろう。

 

 刀、槍、弓、鉄で鎧う甲冑などだ。

 大東の場合は、戦国時代に鉄砲が普及しすぎた事と、その後二世紀の間も海外で活発な活動を行った事から、日本より刀剣類が廃れていた。

 特に歩兵の剣術という面での衰退は大きく、慌てて日本から撃剣(のちの剣道)を導入したほどだった。

 日本からの導入までは、銃剣術としての面も持つ槍術が残され、大東固有の武道としてもその後発展する事になる。

 

 それでも、刀剣、槍などの装備は騎兵の装備として長らく使われ、19世紀半ばの大東でも現役兵器の一つとして数えられていた。

 しかし騎兵、刀剣騎兵、槍騎兵、鎧騎兵(=重騎兵)など数種類があった。

 このため大東での剣術(槍術)は馬術と一体の現役の戦闘術でもあり、武道としては発展しなかった。

 

 また刀剣は、武士のステイタスとしての需要があった。

 こうした工芸品に近い刀剣の一部は、大東よりも刀剣の象徴化が進んで技巧に凝った西日本列島からの輸入も行われていた。

 

 また刀剣以外の兵器では、槍は銃剣の普及と共に歩兵の装備としては廃れ、弓も伝統武芸の中でしか生きながらえられなかった。

 弓道は、戦国時代以後の大東で盛んな武道の一つだった。

 甲冑については鉄砲の普及で一気に廃れるが、ヨーロッパにならった「重騎兵」または「胸甲騎兵」となる「鎧騎」の胴鎧や、半ば大東独自の鉄兜として生きながらえる事になる。

 


 大東固有の兵器として有名なのは、動物兵器の剣歯猫による戦虎部隊だが、こちらは19世紀半ばにおいてもまだ現役だった。

 

 剣歯猫の非常に優れた知覚能力と人間をはるかに圧倒する格闘戦能力は、銃が進歩した時代でも偵察や奇襲、夜間行動全般で十分に価値があると考えられていた。

 

 また、大東ばかりか世界中の牧場で「牧羊猫」として剣歯猫の繁殖と普及が進んでいた事が、戦闘兵器としての供給を容易にしていた。

 豊水大陸、北米大陸北西部の広大な牧場にも、必ずと言っていいほど狼、ピューマ、コヨーテ、ディンゴなど駆逐する為に剣歯猫がいた。

 得意の集団戦で、灰色熊すら撃退した。

 寒さにも強いので、ユーラシア大陸北部でも活躍した。

 中には先祖帰りで野生化して、カンガルーを追いかけていたりもした。

 なお北米の方では、後に「帰還」や「凱旋」したとも言われている。

 

 紀元前の一時期、人の手により絶滅の危機にまで追いやられた剣歯猫は、19世紀半ばにおいては有史上で最も繁栄した大型の猫科動物だった。

 


 なお20世紀に入るまでの生物兵器の代表である馬は、この頃の大東で大きく変化していた。

 大東には、大東馬と呼ばれる北東アジア地域一般の足と首の短いやや小柄な馬が生息していた。

 馬の体重は500キログラムほどあって、サラブレッドなどの首や足が長くスタイルの良い馬との体重差は少なかった。

 

 しかし17世紀中頃に、メキシコで半野生化したスペイン馬が輸入され、以後大東各地で在来種と混ざり合って急速に繁殖し、19世紀に入る頃には一部の食用以外、乗用と馬車引きに用いる馬のほぼ全てがスペイン馬を中心とした西洋系の馬の亜種となっていた。

 この馬は新東馬とも呼ばれ、江戸時代の日本にも盛んに輸出されていた。

 



●軍制


 大東の軍制は、14世紀頃に独自のものが初めて作られた。

 今日の「大隊バタリオン」に当たる編成を基本とする合理的なもので、アジア世界では突出して先進的だった。

 この先進性を、ヨーロッパのローマ帝国になぞらえることもある。

 

 その後16世紀後半をかけて行われた戦国時代でも、有効性は激しい実戦の中で立証され、さらに洗練された。

 この時、様々な種類の大隊を複合的に編成した「旅団ブリゲード」の原型である、「合師」が編成される。

 

 合師は、鉄砲を中心に長槍を防衛用に組み込んだ大隊を戦闘部隊の基本として、騎兵、砲兵による部隊を加えた当時としては先進的な複合編成だった。

 

 部隊の編成には規格化された訓練が必要であり、そのための統一された教本マニュアルまでが作られた。

 これは従来の軍制でも原型が見られた事だが、兵士の訓練を規格化し、さらに訓練自体を恒常化した点は現代でこそ一般的だが、この当時としては世界的にも極めて先進的だった。

 訓練のマニュアル化と恒常化は、17世紀初期にオランダでも実施されて、その後ヨーロッパ全土に広まっている。

 

 部隊自体もテルシオより機動性があり、全ての点においてヨーロッパでのドイツ三十年戦争頃に匹敵するとされているほどだ。

 

 しかし当時は火縄銃だったのに銃を重視しすぎているなど欠点もあり、砲兵や騎兵の運用もまだ未熟だった。

 

 その後大東は大規模な陸上戦闘を経験しなかったが、ヨーロッパ勢力との小規模な衝突を繰り返すことで、海軍を中心として戦闘経験の蓄積は続いた。

 また知識としてヨーロッパの軍事制度が流れ込んできていたので、これを自分たちに合った形で取り入れてもいる。

 小型シャベルの導入は、革新的と言われた。

 

 しかし、本格的な陸戦がない事と自分たちの軍制に自信を持っていた為、18世紀中頃からヨーロッパで主流となった「フリードリヒ型」はあまり取り入れられなかった。

 ナポレオン戦争後に、ナポレオン型と言われることもある軍制(=師団制)を取り入れている。

 特に将校教育、兵士の訓練の強化、参謀教育と参謀団の編成は、その後の大東軍に大きな影響を与えた。

 

 だがこれも、大東御所のシステムとしての硬直化、軍事予算の低迷などにより完全ではなく、一部に古い思想と編成を残したまま、近代の扉が開かれた戦争へとなだれ込んでいく事になる。

 

 この象徴が、ナポレオン戦争でフランス軍などが散兵を導入したのに対して、大東はいまだ密集した方陣などを重視していた。

 これは、貴族と武士が将校から兵士までを占めていた影響で、散兵は「惰弱」と思われていたためだった。

 

 こうしたちぐはぐな点は、大東陸軍が大規模な陸上戦闘を直に経験しなかった影響だった。

 

 ただし大東伝統の戦虎兵は、もともと散兵としての要素が非常に強いため、軍全体として新たに導入する必要がないと考えられていた点も考慮しなければならないだろう。

 

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