239 Civil_War(6)
●新時代の兵器
1840年代から60年代にかけては、世界規模で各種兵器が革新的な進歩を遂げた時期だった。
世界各地で欧米諸国が戦争を繰り広げた事と、何より産業革命の進展によって新たな武器の大量生産が可能となったからだった。
代表的なものを順番に見ておこう。
・小銃
小銃という言葉は、基本的に近世に入って登場した。
西ヨーロッパで発明され、大東や日本に至ったマスケット銃も、初期のライフル銃の一種だった。
大東の銃の歴史は、古くは明朝からの輸入だった。
しかしこれは初期型の原始的なもので、実質的には16世紀序盤に東南アジアでポルトガル商人に出会ってから始まっている。
当時は日本同様に「火縄銃」と呼ばれ、短期間のうちに猟銃型、軍用銃型合わせて100万丁以上が生産された。
その後、ヨーロッパより若干遅れてフリントロック、つまり火打ち石を用いた形式を取り入れた(=「打石銃」)。
さらに同時期に銃剣を導入し、合わせて大規模で革新的な軍制の改革も、大東人なりに試行錯誤をしつつ実施された。
軍制については旧来の大東の軍制が優れていた事が導入を容易くしていたが、だからこそナポレオン戦争などでヨーロッパ諸国に後れをとらなかったのだ。
1840年代までの大東の銃も、欧米と同様に銃身の前から玉を込める先込式の「前装式」の「滑腔銃」だった。
滑腔というのは、要するに内側がツルツルということだ。
加えて銃弾の形状も球形だった。
19世紀の大東では上記の形式の銃を、戦国時代から続く大商人の剣菱屋がほとんど一手に生産を担っていた。
これはナポレオン戦争が影響しており、従来の手工業的な生産では急場の生産量が確保できないため、機械式の大量生産方式が模索され、自力開発と欧米からの技術輸入によって実現したためだった。
そしてこの結果、大東での兵器生産の多くが、民間企業によって行われるようになった。
ちなみに剣菱屋は、17世紀から東アジア・大東洋各地にも自らの製品を輸出してそれなりに知名度もあり、この頃は「剣菱銃」として有名だった。
そして大東が銃の大量生産技術確立に向けて動いている頃、つまり1840年代に入ると銃は急速な発展を開始する。
まずは1830年頃に、ヨーロッパで「雷管」が発明された。
雷管は今までの火打ち石式と違って、雨や湿気という悪条件でも確実に着火する優れた特性を持っていた。
無論だが、火縄とは比べものにならない。
1846年には、今日では一般的な形状の銃弾が実用化される。
この銃弾は、発明者の名前から「ミニェー弾」とも呼ばれた。
同銃弾はライフルつまり銃身の内側に施条された銃に特化したもので、非常に長い射程距離の実現と命中精度の飛躍的な向上をもたらした。
「ミニェー弾」に関しては、渡来前に大東独自に発明されたという説もあるが、本格的導入はフランスから輸入されてからとなる。
大東では、雷管もミニェー弾も水力紡績業や鉱山業から身を起こした神羅屋が最初に実現(=複製)に成功し、「神羅銃」として大東人同士の戦争で大量生産されることになる。
従来の武器大手である剣菱屋も同種の銃を少し遅れて作り、さらに剣菱屋は自らの沽券に賭けて「剣菱後装式」と呼ばれる画期的な銃を大東南北戦争終盤に作り出す。
それがプロシアに続いて世界で二番目となった、後ろから弾を込めるという今では一般的な後装式銃だった。
「後装式銃」は、銃弾と装薬(=火薬)を一体化した金属薬莢採用以前でも従来の2倍半となる1分間に5回の射撃が可能だった。
しかも姿勢を低くしたままの装填が可能という、従来型の前装式銃と比べると決定的な違いを持っていた。
この銃を見て、ヨーロピアンが大きく驚いた記録が幾つも残されている。
こうして世界から技術を取り入れつつ大東でも発展した銃は、その後世界中の戦場でも使われることになる。
・大砲
銃に比べて規模の大きな兵器である大砲は、先進地域のヨーロッパ西部でも技術発展が停滞する事が多かった。
発明当初からの前から弾を込める形式が主流で、砲弾も「前に向けて」撃った。
当時の大東の大砲も同様の形式で、ヨーロッパよりも生産技術、冶金技術が少し後れていたので同様の大砲が生産されていた。
そして大東では、青銅の原料となる銅、錫を産出しないので、16世紀から鉄製の大砲が使われていた。
このため製鉄技術、冶金技術も必要に迫られて向上した。
大東での主な用途は、戦国時代が終わると船への搭載となり、陸上での主力も沿岸砲台用となった。
戦争で使われることはヨーロッパに比べて少なく、競争相手は常に散発的に戦闘を行う国々でヨーロッパ諸国ほど必然性が少なく、技術的な発展も少し遅れることとなる。
そして世界では、19世紀に入ると砲弾の方が改良される。
銃と同様の雷管の利用により中に火薬を詰めた砲弾が炸裂しやすくなり、戦争中に従来の丸形の砲弾から今日一般的となる形状へと急速に変化した。
また信管は曳火信管という、少し遅れて作動する信管の導入によって、「あられ弾」や「ぶどう弾」と呼ばれる敵の頭の上で小さな砲弾をまき散らすタイプの砲弾(=キャニスター)も生産されるようになった。
この砲弾は、塹壕などの遮蔽物の影に隠れている相手に有効なため、大東国内での戦争でも多用されることになる。
ちなみに、砲弾の改良が可能になったのは、大砲の製造方法そのものがナポレオン戦争の頃に大きく変化した事が強く影響していた。
今までは、鋳型に鉄や青銅を流し込んで筒を最初から作っていたが、大砲の側を回転させて穴を掘る形の製造方法が採用されたからだった。
水力もしくは蒸気の力を用いてドリルで穴を開けると、均等に穴を作ることが出来るため火薬の無駄を削減し、連動して大砲そのものの軽量化も実現した。
だからこそ軽量で機動性の高い大砲が大量生産出来るようになり、ナポレオン率いるフランス軍の原動力となった。
そしてナポレオン戦争中に、ヨーロッパ全域に広まった。
大東でもナポレオン戦争後に穴を開けるタイプの大砲の生産が行われるようになり、今までの製鉄、冶金で培った技術と合わさって優秀な大砲が生産されるようになっている。
1860年代以後のさらなる革新的な製造方法が研究、導入されるのは、戦後の事だった。
・蒸気船
蒸気船が登場して以後も、阿片戦争まではいわゆる「帆船」が戦闘艦艇としても有効だと考えられていた。
当時の蒸気船は「外輪船」だったので、被弾に弱く艦の側面に大砲を並べる従来の形式だと不利と考えられていたからでもあった。
そして導入以前の問題として、いわゆる帆船は進化のピークに達しつつあった。
二世紀以上にわたって同じ形で、戦術も確立されていた。
軍港、造船、資材の調達などのシステムとしても確立され過ぎていた。
つまりは保守勢力となる運用する側、海軍が、蒸気船の導入を拒んでいたのだ。
なお、今日も存在している練習船としての帆船のほとんどは、19世紀前半に完成した技術をもとにしている。
大東で蒸気船が最初に注目されたのは、風を無視して航海できるという性能そのものからだった。
大東洋広くに領域を持つ大東としては、海流や風に影響されずに航海できるという点は、非常に魅力があった。
また、風や海流の関係で大東洋から直に入ることがほぼ不可能な北極海に入ることができるというのも、今後の国防と資源開発などから有効と考えられていた。
欧米列強に対向するためにも、蒸気船の導入は肯定的に見られた。
しかしあくまで商業利用、通信利用、航海の利便さが蒸気船に求められた事だった。
遠距離の情報伝達と、軍用、戦闘用としては迅速な兵士の運搬が期待されただけで、武装を施すにしても主に自衛を目的とした規模でしかなかった。
この点欧米各国も大きな違いはなく、「阿片戦争」での軍艦としてのデビューも、東インド会社の武装商船が飾っている。
そして「阿片戦争」で威力が立証された1840年以後、蒸気船の軍艦が雨後の竹の子のように世界中で増加する。
既に産業革命が始まっていた大東も例外ではなく、欧米先進国に負けない勢いで蒸気の力を用いた戦闘艦艇の整備を熱心に行った。
特に自らの戦争中は、戦列艦級の大型艦の外輪型への大改装すら実施され、南北両軍は制海権を奪い取るべく蒸気軍艦を整備した。
しかし戦争中盤以後、一つの事件によってさらなる変化が加わる。
同じ事件は、同時期のヨーロッパの黒海で行われていたクリミア戦争でも見られた。
事件とは、陸上を艦砲射撃した際に、相手側の反撃で蒸気軍艦が容易く破壊された事だった。
これは雷管の登場で中に火薬を詰めた砲弾が一般的となり、陸上からの命中精度の高い砲弾が命中すると、木製の軍艦に簡単に火がついてしまう事が原因だった。
結果以後の軍艦は、最低でも船体表面を鉄などの金属(鉄)で覆った軍艦が主流となり、今までの停滞が嘘のように完全鋼鉄製の軍艦へと急ぎ進化していく。




